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第43章 目

通路に入った途端、無数の匂いが混ざり合った悪臭が、まともにぶつかってきた。


それは言葉にしがたい臭いだった――湿気、黴の腐った匂い、腐敗臭、そしてどこか甘ったるくて、吐き気を催させるような気配。

ルーアンは思わず二度ほどえずき、危うく朝食べた黒パンを吐き出しそうになった。

彼は手で口と鼻を覆ったが、その臭いはまるで隙間という隙間をすり抜けてくるかのようで、指の間から染み込み、ありとあらゆる嗅覚神経を刺激してきた。


「孤児院育ちの坊やのくせに、地下の臭いがそんなに辛いのかよ」

ルーアンの前を歩いていたレオナールが、皮肉っぽく言った。

三十代前半ほどの男で、顔には一本の傷跡が走り、話すときの口調には常に嘲りが混じっている。

「シスターたちに、ずいぶん大事に育ててもらったらしいな。パリには、これよりもっと臭え場所なんていくらでもあるんだぜ――ゴミ埠頭に行ったことは? 屠殺場は? あそこが本当の“臭い”ってやつさ」


ルーアンが返事をする前に、先頭を歩くガスパールが低く言い放った。


「静かに。」


その声は低く、しかしよく通り、逆らいようのない威圧感を帯びていた。


レオナールは肩をすくめると、口を閉じた。

皆、夜巡隊の隊員という立場は同じだが、ガスパールは隊の中で最も古株であり、実力も頭ひとつ抜けている。隊長に次ぐナンバー2だ。

彼の言葉には、誰もが従う。


通路は狭く、一列でしか進めない。

壁はざらついた石造りで、しっとりと濡れ、青や黒のカビがびっしりと張り付いている。

床も石だが、正体不明の粘液や汚れが一面にこびりついており、踏みしめるたびにキュッキュッと嫌な音を立てた。油でも塗ってあるかのように滑りやすい。


ガスパールは松明を掲げて先頭に立ち、その炎は狭い空間の中で揺らめき、歪んだ影を壁に投げかけていた。

ルーアンはその背中のすぐ後ろを進み、手に握った聖徽をぎゅっと強く握りしめる。そこから伝わる温もりを感じながら。

そのぬくもりだけが、暗く圧迫感に満ちたこの環境の中で、彼をかろうじて正気につなぎとめていた。


通路は地下へ向かって伸びており、傾斜は三十度ほど。

一歩一歩、彼らが下るにつれ、悪臭は一層濃くなり、闇はさらに深さを増していく。


およそ五分ほど歩いたところで、通路がふいに開けた。


彼らがたどり着いたのは、さらに広い空間――古い地下の通路、あるいは、パリの地下に広がる巨大な迷宮の一部とも呼べる場所だった。


天井は二メートルほどの高さで、幅は三メートルほど。

壁一面には奇妙な苔が生えており、それらは淡く、病的な緑色の光を発していた。

そのおかげで通路は完全な暗闇に沈み込むことはないが、その薄暗い光こそが、かえって一帯の雰囲気をいっそう不気味で非現実的なものにしている。


「ここは古い下水道だ」

ガスパールが声を潜めて言った。

「中世に造られたもので、もう何十年も前に廃棄されている。今ここに来る物好きは、ほとんどいない。」


ルーアンは周囲の様子を見回しながら、胸の奥にじわりと不安が広がっていくのを感じていた。

この場所は、単なる暗さや悪臭以上の、もっと深いレベルの「居心地の悪さ」を彼に与えていた。

ここに満ちている空気そのものが重く、胸の上にのしかかって呼吸を奪っていくような感覚――説明のつかない、押しつぶすような圧迫。


「俺とシプリアン、それからレオナールは夜巡隊の古参だ」

ガスパールは振り返り、低い声のままルーアンを見つめる。

「お前は聖徽を使うとき、俺たちの動きに合わせろ。危険を察知したら、即座に聖光の盾を展開するんだ。いいか、ためらうな。恐れるな。神術がお前を守る。」


言葉は簡潔だったが、その口調には落ち着きと頼もしさがあり、ルーアンの不安をわずかに和らげた。


そう言うと、ガスパールは右手で警棒を握り、左手の松明を掲げながらシプリアン、レオナール、そしてルーアンに合図し、幽霊の泣き声が聞こえてくる方向を探り始めた。


ルーアンはその後ろで、心の中で苦笑した。

「夜巡隊の古参がどれくらい強いかなんて、俺に分かるわけないだろ。それに、聖光の盾とやらが本当に俺を守ってくれるかどうかだって……」

だが、そんな疑問を口に出す勇気はない。

こんな状況で無知や恐怖をさらせば、仲間からの信頼を失うだけだと分かっていた。


 うう……ううう……


哀れで、悲痛な泣き声が、狭い地下通路にこだましていた。

音は四方八方から押し寄せるように響き、壁と天井の間で反響を続ける。

どの方向から聞こえているのか、判別するのが難しいほどだ。


その泣き声には、深い絶望と怨念がこもっていた。

まるで、誰かが暗闇の中に何年、何十年も閉じ込められているかのように。

あるいは、想像もつかないほどの苦痛を味わい続けてきたかのように。

泣き声一つ一つが針のようにルーアンの鼓膜を刺し、彼の頭皮を総毛立たせ、背筋を冷たくしていく。


しかし、特殊な訓練を積んだガスパールたち隊員と、祝福術によって感覚が研ぎ澄まされているルーアンは、注意深く聞き分けていくうちに、だいたいの方向を掴むことができた――

声は、彼らの前方、数十メートルほど先のどこかから響いている。


彼らは進み続けた。


この一帯の地下通路は、恐ろしいほど静まり返っていた。

四人の足音と泣き声以外には、何ひとつ音がしない。

ネズミの鳴き声もなければ、水滴の落ちる音もない。風の気配すらない。

まるでこの空間全体が何かの力によって外界から切り離され、死んだ世界になってしまったかのようだった。


ルーアンは、床の汚れや粘液には覆われているものの、生き物の痕跡がまったく見当たらないことに気づいた――

ネズミも、虫も、一匹たりともいない。

これはおかしい。パリの地下なら、どこに行ってもネズミだらけのはずなのに、ここには一匹もいない。


「みんな逃げ出したんだ」

ルーアンは心の中で呟く。

「動物の本能がここから遠ざけたんだ。ここには――何か邪悪なものがいる。」


いくつかの分岐を通り過ぎ、さらに狭い通路を抜けた末に、彼らはついに、一見何の変哲もない地下通路の曲がり角で足を止めた。


 うう……ううう……


泣き声は、まさにここから聞こえてきていた。


ガスパールは松明を高く掲げ、周囲を細かく観察する。

ここはぱっと見、他の場所と何も変わらない――同じ石の壁、同じ苔、同じ湿気、同じ悪臭。

だがルーアンには、この場所の空気が一段と重く、温度も低いように感じられた。

まるで、周囲の温もりだけがここから吸い取られてしまったかのように。


ガスパールは壁をじっと見つめ、突然眉をひそめた。

彼は手を伸ばし、指先で苔の表面にそっと触れる。


「ここの苔、色がおかしいな」

彼は低く呟く。

「普通の苔なら緑か黄色のはずだが、これは灰色だ。それに……触ると冷たい。」


彼は手を引き、松明の炎を別の場所の壁に向けた。


「ここだ」

ガスパールはある一点を指差す。

「見ろ。ここの石の並び方、周りと違ってる。ここは“埋められた壁”だ。裏に隠し部屋があるかもしれん。」


ルーアンもガスパールの指先を追って壁を見つめた。

注意深く観察してみると、その一帯の石組みが、ほかとわずかに違っていることに気づく。

巧妙に偽装されてはいるが、松明の明かりに照らされると、そのわずかな差異が浮かび上がる。


 うう……ううう……


泣き声は、まさにその壁の向こうから聞こえていた。


ガスパールは振り返ってルーアンを見る。その表情は厳しく引き締まっている。


「聖光の盾を展開しろ。」


ルーアンの心臓が、どくん、と激しく跳ねた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。まずは光明術とか治癒術とか、もっと軽いのから試すんじゃないのか? いきなり最強のやつ?」

そう問いただしたい気持ちは喉まで込み上げたが、言葉になる前に飲み込む。


彼は手元の聖徽をじっと見つめ、恐怖と緊張に震えながらも、心の奥底に奇妙な、ほとんど病的とも言える興奮が沸き上がってくるのを感じていた。


これが、彼にとって初めての神術の行使だった。


そしてこれは、この世界の超自然の力に、初めて真正面から触れる瞬間でもある。


ルーアンは大きく息を吸い込んだ。悪臭に満ちた空気が肺に流れ込むが、それがかえって彼の頭を冴えさせた。

彼は自分を無理やり落ち着かせ、フィリップ神父に教えられた手順どおりに精神を集中させる。


祝福術の助けもあって、ルーアンの心はすぐに静まっていった。

意識のすべてを聖徽に注ぎ、その中に満ちている温かく穏やかな力を感じ取る――

それはとても特殊な感覚だった。

聖徽の中で、無数の細かな光の粒が流れ、呼び出されるのを、解き放たれるのを、じっと待っている。


ルーアンは左手で首から下げた聖徽を握りしめ、右手の指先でその中心に刻まれた十字架をそっとなぞった。

十字架の金属は暖かく、そこに刻まれたルーンが指先の下でかすかに震えているのを感じる。


そして彼は、あの奇妙な呪文を唱えた。


「プロテーゴ。」


喉から出た声は、しかし自分のものとは思えなかった。

その響きはどこか歪で、発音もしづらく、だが不思議な律動を帯びていた。

空気の中を震わせ、その音が、見えない何かの装置を作動させるきっかけになったかのように。


ルーアンは、自分の意識が聖徽へと集中した瞬間、そこから強大な力に引き寄せられるのを感じた。

同時に、視界の前に無数の金色の光点が現れる。

それらは聖徽からあふれ出し、彼の身体の周囲を旋回しながら集まり、やがて半透明の、聖なる光を放つ盾となって形を取った。


盾は円形で、ルーアンの全身をすっぽりと包み込んでいた。

まるで金色のシャボン玉の中に入ったかのようだ。

その内側から外の世界を覗くと、景色がわずかに歪んで見える。

だが同時に、ルーアンはそれまで感じたことのないほどの安心感に満たされた。

一見すると薄っぺらな膜のように思えるが、そこには絶対に破れない壁のような、揺るぎない堅牢さがあった。


「これが……神術……?」

ルーアンは思わず呟いた。


神術を発動している間、彼の声は低くかすれ、どこか神秘的な響きを帯びていた。

自分でも、ぎょっとするほどに。


「悪くない」

ガスパールは頷き、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「初めてでこれだけ鮮やかに発動できるとはな。神父の言うとおり、お前には素質がある。」


レオナールも、このときばかりは皮肉を言わなかった。ただ、疑わしげにその怪しい壁を見張っている。


「さあ」

ガスパールは続ける。

「その聖光の盾で、あの壁をぶち破れ。盾の力があれば、どんな魔法の罠も打ち消せる。」


ルーアンは壁を見上げ、次いで自分の身を包む盾を見下ろした。

身体が小さく震える。それは恐怖だけが原因ではない――もちろん恐怖もある。

だが、その裏側には抑えきれない高揚もあった。

これから自分が相対するのは、神秘であり、未知の力だ。

この先に何が待つのか、どんな危険が潜んでいるのか、何も分からない。


しかし同時に、彼は理解していた。

これは、真にこの世界を知り、超自然の力を理解するための“機会”でもあるのだと。


「腰抜けめ」

レオナールが横で鼻を鳴らした。

「いつまで突っ立ってるつもりだ?」


ルーアンは奥歯を噛みしめた。

今の自分に残された選択肢は、突き進むことだけだと分かっていた。


彼は深く、二度息を吸い込んだ。

耐え難い悪臭が肺を満たすが、その不快さがかえって心を静めていく。

心の中のどこかで、ひとつの声が叫んでいた。


「所詮、ただの壁だ! ぶつかるだけだ! 最悪、死ぬだけだろ!」


ルーアンは一歩踏み出し、勢いよくその壁へと突進した。


まず、金色の盾が壁面に触れる。

水晶同士がぶつかったような、澄んだ音が響く。


そして――


 ドンッ!


眩い金色の光が盾から爆ぜ、地下通路全体を照らし出した。

光は波紋のように四方へと広がり、壁を激しく叩きつける。


ルーアンは、盾が何か見えないものを打ち砕いた感覚をはっきりと感じた――

ガラスを殴り割ったような、薄氷を踏み抜いたような、奇妙な“砕ける感触”が、壁の向こうから伝わってくる。

その隙間から、淡い黒い気体がもれ出し、聖光に晒されるや否や、急速に霧散して消えていく。


黒い気体は、何かが苦痛に悲鳴を上げるかのような、甲高く耳障りな音を立てていた。


壁が崩れ始めた。


最初に細い亀裂が走り、それがどんどん増えていき、やがて大きく広がっていく。

そして――


壁全体が轟音とともに崩れ落ちた。


石片と粉塵が四方に飛び散り、視界を白く曇らせる。


その向こう側には、濃密な、完全なる暗黒が口を開けていた。


周囲の闇とは、決定的に質が違っていた。

さっきまでの暗さは、ただ光が足りないだけの闇だった。

だが壁の内側に広がるそれは、まるで実体を持った“何か”だ。

それは松明の明かりを貪り飲み込み、内側に何があるのかまったく見えないほどに光を呑み込んでいる。


 うう……ううう……


さきほどまで響いていた泣き声が、不意に止んだ。


地下通路は、息が詰まるような静寂に包まれた。


ガスパール、シプリアン、レオナールは、それぞれの武器をきつく握りしめ、黒々と口を開けたその穴を警戒しながら睨みつけていた。


数秒間の沈黙。


そして――


突然、その暗闇の奥で、二つの不気味な光点が灯った。

冷たく、無感情で、歪んだ赤色の光。


それは二つの赤い点――まるで目だ。

闇の中で邪悪な光を放ちながら、じっとこちらを見つめている。


ルーアンの心臓がきゅっと縮み上がる。


その直後、同じような赤い光点が、次々と現れ始めた。


四つ、六つ、八つ、十……


暗闇の中にびっしりと赤い光が灯っていく。

無数の眼がひしめき合うように並び、その密度たるや、頭皮がしびれるほどだった。


ルーアンの口はカラカラに乾き、神経は限界まで張り詰められ、手のひらは汗でびっしょりだった。


「あれ……全部、目なのか……?」


声が震える。


「ちくしょう」

ガスパールが低く罵った。

「怨霊が一体じゃない……巣ごとだ。戦闘準備!」


その言葉が終わるや否や、赤い光点の群れが一斉に動き出した。

無数の何かが這い回るような、ざわざわとした音を立てながら、こちらへとにじり寄ってくる。


暗闇から、やつらが溢れ出してくる。


四人めがけて――突進してきた。


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