第一章:転生からで死刑宣告
「株式譲渡契約書にサインすれば、体面を保って去ることができる」
冷酷な声が耳元で響く。取締役会議室、高層ビルの最上階。窓の外には東京の夜景が広がっていた。
黒田陽介は目の前の書類を見つめた。自分が十年かけて築き上げた会社。それを、最も信頼していたビジネスパートナーに奪われようとしている。
「考える時間をやろう」男は言った。「君の判断に期待している」
裏切り者の笑みが脳裏に焼きつく。
陽介はテーブルの上の赤ワインを手に取った。喉の渇きを癒そうと、グラスを傾ける。
苦い。
妙に苦い——
次の瞬間、天地が回転した。心臓が止まりそうになり、呼吸ができない。床に倒れ込む直前、男の満足げな表情が見えた。
毒——
意識が途切れる。
暗闇が押し寄せてくる。これで終わりか。三十二年の人生。裏切りで幕を閉じるのか。
そして——
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「ガシャン!」
激しい衝撃音で目を覚ました。
万華鏡のような色彩が脳裏を駆け巡る。体が動かない。まるで麻酔をかけられたように、意識だけが先に目覚めている。
薄暗い蝋燭の光が闇を切り裂く。
鉄格子。石壁。湿気と黴の臭い。
「ここは……どこだ?」
意識が徐々に鮮明になる。視界が焦点を結ぶ。
地獄のように陰鬱な石牢。薄汚れた藁、悪臭を放つ石床、壁の隅を這い回る鼠。そして遠くに見える粗末な服を着た看守。
鉄環に映る自分の姿——ボロ布を纏った、やつれ果てた囚人。
「俺は……囚人に、なったのか?」
記憶が雪崩のように流れ込んでくる。二つの人生が、脳内で激しく衝突する。
黒田陽介、三十二歳、化学企業CEO——前世。
ルーン・ウィンスター、二十歳、フランス王国夜警隊員——今世。
頭を抱えた。二つの記憶が混ざり合い、激しい頭痛が襲う。
だが、徐々に理解していく。
取締役会議室で毒を盛られて死んだはずの自分が、なぜか18世紀のフランスで目覚めている。それも牢獄の中で。
ルーンはゆっくりと深呼吸した。
化学企業の経営者として、彼は常に論理的思考を重視してきた。だが同時に、子供の頃から網絡小説や漫画も読んできた。小学生の時に読んだ『十二国記』は今でも覚えている。
そして今、自分の身に起きていることを冷静に分析すれば——
「これは……異世界転生、なのか」
毒殺されて死んだ。目覚めたら別の世界、別の体。記憶は二つ。
典型的な異世界転生のパターンだ。
ルーンは苦笑した。まさか自分がこんな展開に巻き込まれるとは。
だが、次の瞬間、彼の表情が凍りついた。
記憶を整理していくうちに、自分が置かれている状況の深刻さが理解できてきた。
三日前、ルーンは外交使節団の護衛任務に就いていた。ヴェルジェンヌ伯爵率いる使節団は、オーストリアとの同盟締結のため国境要塞ストラスブールへ向かう途中、ヴォージュ山地で襲撃を受けた。
訓練された武装集団による精密な作戦。伯爵は射殺され、親書は奪われ、使節団は全滅した。
唯一の生存者——ルーン・ウィンスター。
それゆえに、彼は最大の容疑者となった。職務怠慢、敵国への内通、使節団の行程を事前に漏らした裏切り者。証拠は揃っている。目撃者を名乗る商人が、事件前夜、ルーンが怪しげな外国人と密談していたと証言した。
そして——
あと二日。
あと二日で、予審判事が判決を下す。
待っているのは絞首刑か、マラリアと黄熱病が蔓延する仏領ギアナへの追放。
ルーンの背筋に悪寒が走った。
「ちょっと待て……」
彼は呆然と石壁を見つめた。
「異世界転生したら、普通は平和な村で目覚めて、優しい家族がいて、ゆっくりとチート能力に目覚めて、冒険者として成り上がるんじゃないのか?!」
最近の異世界転生ものは、ほとんどがそういう展開だ。スローライフ系、チート無双系、ハーレム系——どれも主人公に優しい世界。
「なんで俺は牢獄から始まるんだよ!しかも二日後には死刑!」
ルーンは頭を抱えた。
「今は軽めの異世界転生ものが流行ってるんだろ!『スライムを倒して300年』とか『薬屋のひとりごと』とか!なんで俺はいきなり地獄モードなんだああああ!」
彼の叫びは石牢に虚しく反響した。
ルーンは藁の山に崩れ落ちた。
『十二国記』を読んだ時は面白いと思ったが、まさか自分が同じような過酷な状況に放り込まれるとは。いや、あの主人公たちよりもっと酷い。少なくとも陽子には麒麟がいたし、時間的猶予もあった。
自分には何もない。あと二日で死刑だ。
「せめて……せめてチート能力くらいあるはずだろ……」
そう思った時、高窓から月光が差し込んできた。
銀白の光が石床を照らし、まるで生命を得たかのように彼の体へと集まっていく。冷たい、だが不思議と心地よい感覚。
月光が淡い銀色の光斑を形成し、ゆっくりと彼の掌に吸い込まれていく。
全身が冷たくなり、覚醒とも眠りともつかない瞑想状態に陥る。
どれくらい経ったのか。
ルーンははっと目を覚ました。体内に確かに淡い暖流が流れている。血管に沿ってゆっくりと循環する、不思議な力。
掌を見ると、淡い青色の紋様が浮かび上がっていた。数本の青い線が皮膚の下でかすかに明滅している。
「これは……」
魔法。神秘学。錬金術。
この世界には、前世では存在しなかった力がある!
ルーンの心に希望が湧き上がる。そうだ、異世界転生なら、チート能力があるはずだ!
「ステータスオープン!」
静まり返った牢獄に、ルーンの声が響いた。
静寂。
何も起こらない。
「……スキル一覧!」
やはり何も起こらない。
「アイテムボックス!マジックポイント!レベルアップ!神眼!鑑定!」
完全な静寂。
ルーンの額に冷や汗が流れた。
「まさか……」
彼は空を見上げた。
「おい!転生させた奴、出てこい!」
沈黙。
「異世界転生したら、まず白い空間で女神様に会って、『あなたは不運な死を遂げたので、異世界で第二の人生を送る権利を得ました』とか言われて、チート能力をもらうんじゃないのか!」
やはり何の反応もない。
「俺はいきなり牢獄に放り込まれて、二日後には死刑なんだぞ!せめて説明くらいしてくれよ!」
石牢は彼の声を冷たく反響させるだけだった。
「なんでこんな理不尽な……」
ルーンは力なく藁の山に座り込んだ。
「手順を間違えてるだろ……転生の手順を完全に間違えてる……」
彼は掌の青い紋様を見つめた。集中すれば、紋様が微弱な蛍光を放つ。それだけだ。光る以外に何ができるのか、さっぱり分からない。
「説明書もなし。チュートリアルもなし。女神様の祝福もなし」ルーンは呟いた。「あるのは、この訳の分からない青い模様だけ……」
彼は深くため息をついた。
「これで敵と戦えっていうのか?それとも脱獄しろと?」
現実は容赦ない。
異世界転生したのに、チート能力はない。システムウィンドウもない。女神様もいない。あるのは、冤罪と死刑宣告と、あと二日という時間制限だけ。
「くそったれ……」
ルーンは壁に頭をもたれかけた。
「今は『転生したらスライムだった件』とか『私、能力は平均値でって言ったよね!』とか、そういう軽めの作品が流行ってるんだろ?なんで俺は『十二国記』より酷い状況なんだよ……」
少なくとも最近の異世界転生ものの主人公たちは、最初から強力な能力を持っているか、優しい仲間に囲まれているか、時間的余裕があった。
自分には何もない。
「地獄モードどころか、ルナティックモードじゃないか……」
だが、嘆いても状況は変わらない。
ルーンはゆっくりと立ち上がった。
化学企業の経営者として、彼は無数の危機を乗り越えてきた。倒産寸前の会社を立て直し、競合他社との戦いに勝ち、市場での地位を確立した。
確かに最後は裏切られて毒殺されたが、それまでの十年間、彼は常に冷静に状況を分析し、最適な解決策を見つけてきた。
今も同じだ。
チート能力がないなら、前世で培った能力を使うしかない。
論理的思考。市場分析。リスク管理。交渉術。
そして、この体が持つ夜警隊での捜査経験。
「まず必要なのは情報だ」
事件の詳細、襲撃者の特徴、奪われた文書の内容——これらを知らなければ、何も始まらない。
ルーンは決意を固めた。
女神様の助けがないなら、自分で道を切り開くしかない。
あと二日。
この二日で、事件の真相を突き止め、真犯人を見つけ出し、自分の無実を証明する。
不可能に聞こえるが、やるしかない。
「死ぬわけにはいかない。二度目の人生を、こんなところで終わらせるわけにはいかない」
その時、しわがれた声が廊下に響いた。
「ウィンスターはどこだ?」
「こちらです、隊長」看守フランソワが答えた。
「連れて来い。いくつか質問がある」
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