第189話 窮地
個室は滅茶苦茶だった。
五人の護衛が床に転がり、ある者は手首を押さえ、ある者は腹を抱えて呻いている。
ギュスターヴは壁際にへたり込み、顔面蒼白のまま小刻みに震えていた。ほんの数分前まで偉そうに振る舞っていた男の面影はどこにもない。
ルーンはその場に立ち、軽く手首を振った。
少しだけ痺れが残っている。五人を相手にしたにしては、上出来だろう。
そのとき、階段から足音が駆け上がってきた。
「何があったの!?」
テレーズとルナが同時に飛び込んできた。
床に転がる護衛たち、壁際で震えるギュスターヴ、そして部屋の中央に立つルーン——その光景を見て、テレーズの顔色が変わった。
「ルーン!」
ルナはすでにルーンの前に立ち、庇うような姿勢を取っていた。
「怪我してない? 上から物音が聞こえて——」
「大丈夫だ」
ルーンは軽く首を振り、壁際を指さした。
「あいつらがフーリエとジャンの足を折ろうとした。止めただけだ」
テレーズがはっと振り返る。
部屋の隅に、二人の子供が縮こまっていた。
フーリエは肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をしている。ジャンは目を真っ赤にしながらも、唇を噛んで泣くまいと堪えていた。
「フーリエ! ジャン!」
テレーズが駆け寄り、しゃがみ込んで二人を抱きしめる。
その瞬間、フーリエがわっと泣き出した。
「テレーズお姉ちゃん……っ」
ジャンも目を擦りながら、それでも気丈に言った。
「……あいつらが先に言ったんだ。足を折ってやるって。ルーン兄ちゃんは、俺たちを守ってくれただけで……」
「貴様……!」
ギュスターヴが壁に手をつきながら立ち上がった。
ルーンを指差し、声を震わせる。
「貴様、自分が何をしたかわかっているのか……!」
ルーンは答えなかった。
答える価値がない、と思った。
「衛兵を呼べ!」
ギュスターヴが傍らの細面の青年に怒鳴った。
「早く行け! シテ衛兵隊を呼んでこい!」
細面の青年が転がるようにして階段を駆け下りていく。
ルナが眉をひそめた。
「シテ衛兵隊?」
「パリの治安部隊だ」
ルーンは短く答えた。
面倒なことになった、と思う。
シテ衛兵隊は道理の通じる場所ではない。誰の後ろ盾が強いか——それだけで全てが決まる世界だ。
徴税総監の息子と、孤児院出身のレストラン店主。
どちらの言い分が通るかなど、考えるまでもなかった。
◇
四半刻も経たないうちに、整然とした足音が階段から響いてきた。
十数人の兵士が個室に入ってくる。
紺色の制服、腰には剣。一人一人が訓練された動きで部屋を取り囲み、退路を塞いでいく。
先頭に立っていたのは、四十がらみの男だった。
がっしりとした体格、険しい表情。胸元の銀の徽章が蝋燭の光を反射して鈍く光っている——シテ衛兵隊中尉の証だ。
「レナール中尉!」
ギュスターヴが救いを見出したような声を上げた。
「この男が私を襲ったんです! 護衛たちを見てください! 厳罰に処してください!」
レナールは床に転がる護衛たちを一瞥し、次にルーンを見た。
その目には何の感情も浮かんでいない。
ギュスターヴのことは知っている。
徴税総監ド・フルーリーの息子、パリの社交界では有名な放蕩息子。この手の人間に関わると、大抵ろくなことにならない。
だが、自分はシテ衛兵隊の中尉だ。王室から俸禄を受け取り、治安を維持するのが仕事である。心の中でどう思おうと、やるべきことはやらなければならない。
「あんたか」
レナールがルーンに目を向けた。
「何があった」
「そこの連中が、この子供たちの足を折ろうとした」
ルーンはフーリエとジャンを示した。
「止めに入っただけだ」
「出鱈目を言うな!」
ギュスターヴが甲高い声で叫んだ。
「我々は詩の話をしていただけだ! この野蛮人が突然殴りかかってきたんだ!」
「そうです、私たちは見ていました!」
「この男が先に手を出したんです!」
サロンの連中が口々に叫ぶ。
レナールは二人の子供に目を向けた。
「お前たちはどうだ」
「あの人たちが言ったんです……!」
フーリエがしゃくり上げながら言った。
「足を折ってやるって……本当です……!」
「俺も聞いた!」
ジャンが大きな声で言った。
レナールは一瞬黙った。
孤児院の子供が二人、身なりのいいサロン通いの連中が五、六人。
この手の案件では、証言など意味を持たない。重要なのは、どちらの後ろ盾が強いかだけだ。
ギュスターヴがレナールに近づき、声を潜めた。
「中尉殿。父は徴税総監のド・フルーリーです。この件……ご理解いただけますね」
レナールの表情は変わらなかった。
ただ、小さく頷いた。
それからルーンに向き直り、事務的な口調で言った。
「あんた、傷害の容疑がかかっている。署まで同行してもらう」
「正当防衛でしょう!」
ルナが怒りを露わにした。
「それは調べればわかることだ」
レナールは手を上げ、兵士に合図した。
「調べがつくまでは、容疑者には協力してもらう」
二人の兵士が進み出て、ルーンの両腕を掴んだ。
ルーンは抵抗しなかった。
抵抗しても意味がない。この時代、この場所では、シテ衛兵隊が法律だ。彼らが有罪だと言えば、有罪になる。
それが現実だった。
「ルーン!」
テレーズが立ち上がり、悲痛な声を上げた。
「大丈夫だ」
ルーンは振り返り、できるだけ穏やかな声で言った。
「子供たちを頼む。心配させるな」
それからルナに目を向け、素早く、小声で言った。
「頼みがある」
「何?」
「マルゼルブを探してくれ」
ルナが戸惑った顔をした。
「誰……?」
「お前は知らない。ヴィラ先生に聞け。事情を話せばわかってくれる」
「でも——」
「頼む」
ルーンはルナの目を見た。
「今の俺に思いつく手は、これしかない」
ルナは一瞬唇を噛んだ。
それから、強く頷いた。
「わかった」
「連れていけ」
レナールが苛立った様子で手を振った。
兵士たちがルーンを階下へ連行していく。
ギュスターヴはその光景を眺め、口元に薄い笑みを浮かべた。
それからテレーズに視線を移し、冷たく言った。
「このレストランも、近いうちに調べさせてもらうよ。何か後ろ暗いことがあるんじゃないか?」
テレーズは青ざめたまま、何も言えなかった。
ルナは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込むのを感じる。
今すぐ変身して、この男の首をねじ切ってやりたい——その衝動を、必死で押し殺した。
ルーンが人を探せと言った。
だったら、探さなければならない。
「子供たちを頼む」
ルナはテレーズに低く言った。
そして階段を駆け下り、夜の闇の中に消えた。
◇
パリ第三区の詰所。
ルーンが連行されてきたとき、空はすっかり暗くなっていた。
詰所は灰色の石造りの建物だった。
入口には銃を持った衛兵が二人立ち、門の上には王家の百合の紋章が刻まれている。
中は明るかった。
暖炉の周りに数人の衛兵がたむろし、何やら雑談している。レナールが入ってくるのを見て、慌てて立ち上がり敬礼した。
「こいつを入れておけ。取り調べは明日だ」
「はっ!」
二人の兵士がルーンの腕を掴み、奥へ連れていく。
薄暗い廊下を抜け、鉄の扉の前で止まった。
扉が開き、ルーンは中に押し込まれた。
鉄扉が閉まる。
鍵が回る音が、廊下に響いた。
◇
ルーンは壁に背を預け、床に座り込んだ。
湿った藁が黴臭い。
壁の隅で何かがかさかさと動いている。鼠だろう。気にしないことにした。
目を閉じる。
徴税総監の息子。
明日の取り調べがどうなるかは、考えるまでもない。
どんな証言をしようと、どんな証拠を出そうと、あの男の父親の名前の前では何の意味もないだろう。
そして、それだけで終わるはずがなかった。
自分のレストラン。
孤児院。
テレーズ。
子供たち。
関わりのあるもの全てが、報復の対象になりうる。
ルーンは冷たい石壁に後頭部を預けた。
ルナがヴィラを見つけてくれることを祈るしかない。
あの女なら——マルゼルブの居場所を知っているはずだ。
ルーンは深く息を吐いた。
今は、できることをやるしかない。
一歩ずつ、進むしかないのだ。
◇
同じ頃、パリの別の場所。
ルナは夜の街を駆けていた。
マルゼルブという男が誰なのか、ルナは知らない。
ルーンがどんな組織と繋がりがあるのかも知らない。
だが、答えを知っている人物には心当たりがあった。
ヴィラ。
ルーンを血族に変えた女。
彼らに修練を教えた、謎めいた存在。
助けを求められる相手がいるとすれば、彼女しかいない。
ルナは足を速めた。
月光がパリの街路に降り注ぎ、石畳の上に淡い影を落としている。
その中を、一つの影が駆け抜けていく。
まるで、夜の闇を切り裂いて走る狼のように。
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作者からのお知らせ
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
さて、ルーンが牢屋にぶち込まれたところで……物語は新たな局面に入ります。
次章以降、色々な勢力が動き出します。
科学院。
法学院。
そして、まだ名前も出ていない連中も。
パリの夜は静かに見えて、水面下では様々な思惑が蠢いている。ルーンは関わりたくなかったけれど、関わらざるを得なくなった——そんな展開になっていきます。
ちょっと複雑になるかもしれませんが、できるだけ分かりやすく書いていくつもりなので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。
あ、そうだ。
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それでは、次回もよろしくお願いします!




