表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

196/213

第187話 樫の間――法学院の送別会

十秒と経っていない。


五人の護衛が、全員地に伏していた。


雅間の文人たちは凍りついた。


これが——人間か?


ギュスターヴは口元を押さえ、恐怖に目を見開いた。


「お前……お前は何者だ……!」


だが、彼はすぐに正気を取り戻した。


「何をしている!まだ下に人がいるだろう!全員上がってこい!」


階下から、さらに四人の護衛が駆け上がってきた。


今度は武器を抜いている。短剣、棍棒、鎖——本気で殺しにかかる構えだ。


「ルーン兄ちゃん!」


フーリエが悲鳴を上げた。


ルーンは二人の子供を背に庇ったまま、冷静に構えた。


一人目が棍棒を振り下ろす。


ルーンは半歩横にずれて躱し、その腕を掴んで引き寄せた。同時に膝を叩き込む。


ゴッ。


鈍い音と共に、護衛が崩れ落ちた。


二人目と三人目が左右から同時に襲いかかる。


ルーンは身を低くして二人の間をすり抜け、振り返りざまに両手で二人の後頭部を掴み、互いの頭をぶつけ合わせた。


ガンッ。


二人とも白目を剥いて倒れた。


四人目が鎖を振り回しながら距離を取った。


「化け物め……!」


彼は鎖を放った。


ルーンは片手で鎖を掴み、引き寄せた。


護衛の体が引きずられてくる。


ルーンの拳が、その顔面に叩き込まれた。


ドゴッ。


男は壁まで吹き飛び、そのまま動かなくなった。


合計九人。


全員が床に転がっていた。


雅間は凄惨な有様だった。倒れた護衛たち、砕けた卓と椅子、散乱した食器と料理。


そして、その中心に立つルーン。


息一つ乱れていない。


文人たちは壁際に張り付き、恐怖に震えていた。


ギュスターヴは尻餅をついたまま、がたがたと震えていた。


「ば、化け物……!」


ルーンは彼に一歩近づいた。


「子供の足を折れと言ったな」


「じょ、冗談だ……冗談に決まっているだろう……!」


ギュスターヴは後ずさりしながら叫んだ。


「わ、私が誰か知っているのか……!?父は王国財務総監、ド・フルーリ伯爵だぞ……!私に手を出せば——」


「財務総監がどうした」


ルーンは彼の襟首を掴み、持ち上げた。


「いいか、よく聞け。もう一度子供たちに指一本でも触れてみろ——」


その時だった。


「何事だ!」


階下から怒声が響いた。


続いて、複数の足音が階段を駆け上がってくる。


ルーンは舌打ちした。


騒ぎが大きくなりすぎた。


城防衛兵だ。


パリの夜間治安を担う兵士たち。大きな騒動があれば、すぐに駆けつける。


この雅間での乱闘は、通りにまで響いていたのだろう。


制服姿の中年の男が二階に現れた。後ろには十数人の衛兵が続く。


胸元には金色の徽章——城防衛兵隊長の印だ。


隊長は雅間の惨状を見渡し、目を見開いた。


倒れ伏す九人の護衛。砕けた家具。そして、若い男の襟首を掴んで持ち上げている青年。


「貴様、何をしている!」


隊長が叫んだ。


「その者を放せ!」


ルーンはギュスターヴを床に放り投げた。


ギュスターヴは咳き込みながら、隊長に向かって叫んだ。


「た、隊長!この男だ!この暴漢が私を襲ったのだ!」


隊長はギュスターヴの顔を見て、表情が変わった。


「フルーリ様……!」


途端に恭しい態度になる。


「お怪我はございませんか?医者をお呼びしましょうか?」


「怪我などない!」


ギュスターヴは立ち上がり、憎悪の目でルーンを指さした。


「この男を捕らえろ!私と護衛たちを襲った凶悪犯だ!」


隊長はルーンを睨んだ。


「ルーン・ウィンスター……だな?」


「なぜ俺の名を知っている」


「『ワンピース』の作者として、名が知れている」


隊長は冷たく言った。


「傷害および公序紊乱の容疑だ。同行してもらおう」


彼は部下に合図した。


「連行しろ」


数人の衛兵が近づいてきた。


ルーンは深く息を吸い、抵抗しなかった。


ここで暴れれば、事態は悪化するだけだ。


城防衛兵を相手に戦えば、それこそ本当の犯罪者になる。


「フーリエ、ジャン」


ルーンは静かに言った。


「ブラン神父のところへ行って、何があったか伝えろ。心配するな、俺は大丈夫だ」


「ルーン兄ちゃん……」


フーリエの目に涙が溢れた。


「俺を信じろ」


ルーンは微笑んだ。


それから隊長に向き直った。


「同行しよう。だが覚えておけ、今夜のことには目撃者がいる。先に手を出したのは、あちらの護衛だ」


「黙れ」


隊長は冷たく言った。


「事情は署で聞く」


ギュスターヴが冷笑した。


「真実とは、貴様のような下賤な者が私に手を上げたということだ!貴様は終わりだ、ウィンスター!父上が、フルーリ家を敵に回すとどうなるか、思い知らせてやる!」


彼は悪意に満ちた目でフーリエとジャンを見た。


「貴様だけではない。あの薄汚い孤児院も調べてやる。帳簿を洗い、認可を精査する。犯罪者を匿う孤児院など、存続させておくものか!」


そして店内を見回し、嘲笑った。


「この店もだ。孤児院上がりの者が、どこから金を得て店を開いた?裏で何か汚いことをしているに違いない。徹底的に調べ上げてやる」


ルーンの拳が軋んだ。


だが、怒りを押し殺した。


今、手を出せば状況は悪くなるだけだ。


「行こう」


彼は隊長に言った。


隊長は鼻を鳴らし、部下にルーンを連行させた。


階段を降りる前、ルーンはフーリエとジャンを振り返った。


「怖がるな。きっとうまくいく」


フーリエは唇を噛み、涙が頬を伝った。


ジャンは拳を握りしめ、悔しそうに俯いている。


ルーンの姿が階下へ消えていった。


雅間には、呻く護衛たちと、茫然とした文人たちが残された。


ギュスターヴは乱れた襟を直しながら、憎々しげに呟いた。


「孤児院の下賤な者が……思い知らせてやる……」


……





パリ、ラテン地区。サン=ジェルマン大通り沿いに佇む、パリ法学院。


数台の豪華な馬車が学院の門前に停まっていた。初冬の冷たい風がセーヌ川を渡り、骨身に染みる寒さを運んでくる。


太陽は気だるげに空に浮かび、この十一月の午後、古い石造りの建物を黄金色に染め上げていた。


ドラクロワ院長が引退する。


法曹界で日に日に勢力を失いつつある改革派にとって、一つの時代の終わりを意味していた。


学院の教授たちは感慨深げに溜息をつき、学生たちは悲しみと興奮が入り混じった表情を浮かべている——これは才能を披露し、有力者の目に留まる絶好の機会なのだ。


樫の間の中、三人の重鎮が背もたれの高い椅子に座っていた。その中の一人は深い青色の法服を身にまとい、こめかみには白髪が混じっている。彼こそが今日の主役だ。


クロード・ドラクロワ。パリ法学院院長、在任三十年。教え子は法曹界の隅々にまで広がり、フランスで最も尊敬される法学者の一人である。


本来ならばもっと輝かしい地位に就けたはずだ。最高法院の首席判事など容易いことだったろう。しかし、最も脂の乗った時期に、彼は権力の中枢から姿を消した。


この件について、法曹界では様々な噂が飛び交っている。ある者は、彼が有力な貴族の怒りを買い、学院に退かざるを得なくなったと言う。


またある者は、保守派との政争に敗れ、不本意ながら高等法院を去ったのだと言う。


だが、いずれにせよ、三十年を経て、彼はついに完全に去ろうとしている。故郷リヨンへ帰り、静かな余生を過ごすために。


残る二人も同様に名声高い人物だった。


黒い法服を着て、山羊髭を蓄えた男は、ジャン=バティスト・メシエ。かつてパリで最も名高い弁護士であり、法廷で一度も敗訴したことがない。十年前、王室の顧問弁護士と三度対決し、全勝。その名声はヴェルサイユにまで届いた。引退後は学院で修辞学と弁論術を教えている。


灰色のフロックコートを着た男は、ピエール・デュポン。パリ高等法院の判事であり、啓蒙思想の信奉者。ヴォルテールやディドロのサロンにも出入りしている。


判決文にモンテスキューの『法の精神』を引用する勇気を持つ、おそらく唯一の現役判事だろう。


樫の間の外には、見送りに来た学生たちが集まっていた。いずれもパリ法学院の優秀な若者たちだ。


アントワーヌもその中にいた。


「ドラクロワ院長がついに引退か。もし院長に気に入られれば、推薦状の一つも貰えるかもしれない。そうなれば将来は安泰だ」


親しい学友が小声で囁いた。


「アントワーヌ、詩は用意したか?」


友人が用意してくれた……しかも、とんでもない傑作を……


アントワーヌは室内を見つめながら、素っ気なく答えた。


「一応、何か書いてみた。フランソワ、君は打算的すぎるな」


「打算的?これは処世術というものだ。学問の世界も宮廷と同じさ。才能だけでは足りない、人脈が必要なんだ」


フランソワはそう言った。アントワーヌが詩作を得意としないことを知っているのか、それ以上は追及しなかった。


「フランソワの言う通りだ」


別の学友が話に加わった。


「今の司法界は腐りきっている。貴族は法の上に立ち、平民は法の下で踏みにじられる。何かを変えたいなら、まず影響力のある人物に認められないと」


フランソワは頷き、アントワーヌを見た。


「君はいつも詩なんて実用性がないと言うけどな。法律の論文をいくら書いても、専門家にしか読まれない。だが優れた詩は、サロンで朗読され、印刷されて広まり、作者の名を不朽のものにする。ロンサールを見ろ、ヴィヨンを見ろ。彼らの詩は二百年経っても人々に愛されている」


詩なんて、飢えた民を救えるわけでもなし、不正な判決を覆せるわけでもない。所詮はサロンの暇つぶしだ……


アントワーヌはそう言い返そうとしたが、今まさにその「サロンの暇つぶし」で老院長の歓心を買おうとしていることを思い出し、言葉を飲み込んだ。


「……まあな」


曖昧に相槌を打つ。


フランソワは目を丸くした。


反論しないだと? 珍しいこともあるものだ。


樫の間の中では、三人の重鎮が茶を飲みながら談笑していた。


弁護士のメシエが溜息をついた。


「クロード、君があの頃、もう少し世渡りが上手ければ、学院で三十年も燻ることはなかっただろうに」


ドラクロワ院長は穏やかに微笑んだだけだった。


「それは違うな」


判事のデュポンが、カップを置きながら言った。


「クロードは信念のために権力を捨てた。法改革のために、次の世代を育てることを選んだのだ。それは敗北ではない」


ドラクロワ院長の表情が少し曇った。


「結局、何も変えられなかったがね。権力の座から追い出され、三十年教壇に立ち続けたが……フランスの法律は相変わらず混沌としている」


「それは君のせいではない」


メシエが首を振った。


「高等法院の連中、あの特権にしがみつく貴族判事どもが、改革など許すはずがない」


「ふん」


デュポンが鼻を鳴らした。


「法の前の平等? 笑わせる。この国には三百以上の地方慣習法がある。パリで無罪の行為が、リヨンでは死刑になりうる。貴族が罪を犯せば、同じ貴族で構成された法廷で裁かれる。判事は被告の従兄弟か、狩猟仲間か、借金相手だ。これで公正な裁判ができると思うか?」


メシエが苦々しげに続けた。


「平民はもっと悲惨だ。同じ殺人罪でも、貴族なら斬首——Loss of Head, 品位ある処刑だと。平民は絞首台だ。縄が首に食い込み、足をばたつかせながら、ゆっくりと窒息していく。群衆はそれを見物して楽しむ。これが十八世紀のフランスの司法だ」


重苦しい沈黙が落ちた。


ドラクロワ院長が静かに言った。


「私はリヨンに帰るが、これで終わりではない。『フランス法律大全』の執筆を続ける。全ての地方法を統合し、身分に関係なく全ての市民に適用される、統一法典の草案を。だが……」


彼は窓の外に目をやった。


「一人の老人にできることは限られている。志を同じくする仲間が必要だ。そして何より、この理想を引き継いでくれる若者たちが」


メシエとデュポンは顔を見合わせた。


デュポンが外の学生たちに声をかけた。


「諸君、今日はドラクロワ院長の送別の日だ。誰か、院長に詩を捧げる者はいないか?」


「詩の贈り物か」


ドラクロワ院長は微笑み、懐から金の懐中時計を取り出した。


「では、最も優れた詩を詠んだ者には、これを贈ろう」


時計の蓋には、精緻な彫刻が施されていた。正義の女神ユースティティア。目隠しをして、右手に剣、左手に天秤を持っている。


「これは……」


メシエが目を見開いた。


「四十年前、君が弁護士資格を取得した時に、父上から贈られたものではないか」


「ああ」


ドラクロワは頷いた。


「私の人生を共に歩んできた時計だ。ふさわしい若者に託したい」


学生たちの間にざわめきが広がった。


院長の形見とも言える品。しかも、この時計を受け取るということは、院長から直々に認められたということだ。


院長の推薦状があれば、どんな法律事務所にも、どんな官職にも道が開ける。


それは金では買えない価値がある。


「僭越ながら、一首詠ませていただきます」


人混みから、一人の青年が進み出た。


仕立ての良い絹のジュストコール、レースのクラヴァット、腰には家紋入りの剣帯。貴族の子弟であることは一目瞭然だった。


「アンリ・ド・モンモランシーです」


青年は優雅に一礼した。


メシエが微笑んだ。


「モンモランシー公爵の次男坊だ。父親とは旧知の仲でね」


ドラクロワ院長は丁寧に頷いた。


アンリは自信に満ちた態度で、朗々と詩を詠み上げた。


韻律は完璧だった。古典的な修辞技法を駆使し、院長の功績を称え、輝かしい余生を祈願する内容。


聞いていて心地よい。だが、どこか空虚だった。


「結構」


デュポンが短く評した。


これ以上言うことはなさそうだった。


その後、数人の学生が詩を披露したが、いずれも凡庸だった。


ある者は露骨な追従に終始し、ある者は格調だけ高くて中身がなく、ある者は韻律すら怪しかった。


メシエが首を振った。


「最近の若者は、法律の条文を暗記することばかりに時間を費やしている。論理と修辞、理性と感性のバランスが取れていない。かつて人文主義者たちが目指した教養——法律家であると同時に詩人であり、哲学者であること——それが失われつつある」


デュポンが同意した。


「法律が人間性を失えば、ただの暴力装置になる。詩を理解できない法律家に、正義が理解できるとは思えない」


ドラクロワ院長は静かに溜息をついた。


「他に詩を詠む者は?」


沈黙が続いた。


アンリは金の懐中時計をちらりと見た。勝利を確信した目だった。


「院長」


静かな声が響いた。


「私にも、一篇の詩があります」


アントワーヌが人混みから歩み出た。


彼がわざと最後まで待っていたのは、控えめな性格ゆえに、他の学生たちを気まずくさせたくなかったからだ。


決して、かつて討論会でアンリを完膚なきまでに論破し、それ以来アンリから目の敵にされていることとは、何の関係もない。


絶対に。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ