第186話 衝突
ルーンは雅間に足を踏み入れ、二人の子供を背中に庇った。
口髭の青年に軽く頭を下げる。
「申し訳ありません。幼い子供ゆえ、ご無礼をお許しください」
口髭の青年——ギュスターヴはルーンを値踏みするように眺めた。
若い顔立ち、上等とは言えない身なり。目に軽蔑の色が浮かぶ。
「君が、この子たちの言う『ルーン兄ちゃん』か?孤児院の出だと?」
「左様です」
ルーンは静かに答えた。
「そしてこの店の主人でもあります」
「店の主人?」
ギュスターヴの眉が上がった。
「ということは、君があの『ベケル』か?」
ルーンの心臓が跳ねた。
まずい。
ここで「ベケル」だと認めれば、「ウィンスター」との矛盾が生じる。この連中が『ワンピース』の作者名を知っている以上、いずれ辻褄が合わなくなる。
もっと厄介なのは、シャルルはルーンの本名を知らないということだ。偽名で投資を引き出した事実が露見すれば、すべてが崩れる。
一瞬の判断。
いっそ、ここで二つの身分を切り離してしまおう。
「ベケルは私の共同経営者です」
ルーンは言った。
「私の名はルーン・ウィンスター」
「ウィンスター?」
ギュスターヴの目が光った。直後、冷笑が浮かぶ。
「なんと。君があの『ワンピース』を書いたウィンスターか。奇遇だな、ちょうど君の『傑作』について議論していたところだ」
ルーンは答えなかった。
もう隠す意味はない。いずれ聖心レストランの主人が『ワンピース』の作者だと知れ渡る。
ただ、こんな形で明かすことになるとは思わなかったが。
「ギュスターヴ殿」
細面の青年が身を乗り出した。
「露店文学の作者が、この店の主人だったとは。道理でこの内装、品がないと思った。素養のない人間の仕事だ」
「私の店がどうであれ、お客様が評価することです」
ルーンは淡々と言った。
「お気に召さないなら、他をお探しください」
「貴様——」
「ルーン兄ちゃんは恥さらしなんかじゃない!」
フーリエが声を張り上げた。
「『ワンピース』を露店文学だなんて、あんたたちこそ分かってない!」
「ほう?」
ギュスターヴが面白そうに眉を上げた。
「では聞こうか。その『ワンピース』とやら、何がそんなに良いのだ?」
子供をあやすような口調だった。周囲の文人たちも笑っている。
フーリエは言葉に詰まった。九歳の子供に、文学論などできるはずがない。
だが、ジャンが叫んだ。
「『ワンピース』のルフィ船長は、海賊だけど、貴族にいじめられてる人たちを助けるんだ!『海賊王に俺はなる』って言って、自由のために戦うんだ!それのどこが悪いの!」
「僕たち、孤児院で毎日大変だけど」
フーリエも続いた。
「ルーン兄ちゃんの『ワンピース』を読むと、希望が湧いてくるんだ。僕たちもルフィみたいに、仲間と一緒に頑張れるって思えるんだ!」
雅間が一瞬静まった。
だが、すぐにギュスターヴが冷笑した。
「なるほど、これが『ワンピース』の読者層というわけか。教育を受けていない孤児どもが、虚構の幻想に逃げ込む。この手の作品は、下層民に安っぽい慰めを与えるだけで、芸術的価値など皆無だ」
彼は立ち上がり、教師のように講釈を垂れた。
「真の文学とは、ラシーヌの悲劇のように人間の闇を直視するもの。ヴォルテールの哲学小説のように社会の不正を告発するもの。荒唐無稽な冒険譚で無知な者を夢想に浸らせるのは、文学の堕落だ」
「では伺いますが」
ルーンの声が鋭くなった。
「ラシーヌの悲劇を、何人の平民が理解できますか?ヴォルテールの哲学小説を、何人の労働者が読んだことがありますか?」
「あなた方は口を開けば社会の不正を語る。だが、あなた方の作品は貴族と知識人の狭い輪の中でしか読まれない。本当に社会の底辺で生きる者たちは、あなた方の本を買う金すらない。読んで理解することなど、なおさらだ」
「これこそ真の偽善ではありませんか。民衆を憂うと称しながら、実際は象牙の塔で自己満足に浸っているだけだ」
ギュスターヴの顔色が変わった。
「貴様——」
「私の『ワンピース』は」
ルーンは続けた。
「確かに冒険物語です。だが、少なくともこの子たちに希望と勇気を与えた。出自が卑しくとも、努力すれば運命を変えられると信じさせた。これが文学の価値でなくて何ですか?」
「それは彼らに見識がないからだ」
細面の青年が反論した。
「本物の古典を読めば、あんな粗製乱造のものなど見向きもしなくなる」
「だが、あなた方の言う『古典』は」
ルーンは冷笑した。
「難解な言い回し、古代ギリシャ・ローマの典故だらけで、普通の人間には理解できない。民衆を啓蒙すると言いながら、実際は文化の壁を築き、文学を一部の特権階級のものにしているだけだ」
「黙れ!」
ギュスターヴが卓を叩いて立ち上がった。
「文学の伝統に対する冒涜だ!」
「ルーン兄ちゃんの言う通りだ!」
フーリエが叫んだ。
「あんたたちの方が悪い人だ!」
ジャンも続いた。
雅間は騒然となった。
ギュスターヴは冷笑を浮かべた。
「孤児院上がりの下賤な者が、私と文学を論じるか」
細面の青年が調子を合わせる。
「この野良犬どもは先刻ギュスターヴ殿に無礼を働いた。何らかの落とし前が必要では?」
ルーンの顔が険しくなった。
「何をするつもりだ」
「簡単なことだ」
ギュスターヴは数歩近づき、フーリエとジャンを見下ろした。
「このガキどもを跪かせ、『ワンピース』は屑だ、ウィンスターは詐欺師だと言わせる」
「謝らない!」
フーリエが叫んだ。
「ルーン兄ちゃんは詐欺師なんかじゃない!」
ジャンも睨みつけた。
「謝らないと?」
細面の青年が陰険に笑った。
「ならば仕方あるまい」
彼が手を振ると、階下から屈強な男たちが駆け上がってきた。文人たちが雇った護衛だろう。
「何をする気だ」
ルーンが低い声で問うた。
「身の程知らずの野良犬に躾をしてやるのさ」
ギュスターヴは冷笑した。
「ついでに、文人気取りの詐欺師にも、触れてはならぬ者がいることを教えてやろう」
彼は冷たい目でフーリエとジャンを見た。
「このガキども、足の骨を折って放り出せ。二度と生意気な口を叩けないようにな」
フーリエが泣き出した。
ジャンは震えながらも、懸命に睨み返している。
ルーンは二人を背中に庇った。
「俺を相手にしろ。子供たちには手を出すな」
「ほう、格好つけるじゃないか」
ギュスターヴが嘲笑った。
「だが、命令を聞かぬ者には、それなりの報いがある。やれ」
護衛の一人が前に出た。
ルーンに向かって——ではなく、その脇をすり抜け、真っ直ぐフーリエに向かっていった。
「まずはこのガキからだ」
護衛が腕を振り上げた。
フーリエが悲鳴を上げる。
——その瞬間。
ルーンの目が変わった。
彼を脅すのは構わない。
作品を侮辱されるのも、我慢できる。
だが、子供たちに手を出す?
——許さん。
体内で、長らく押さえ込んでいた力が脈動した。
血族の力だ。
ヴィラに転化されて以来、ルーンは常人を遥かに超える肉体を得ていた。その後、寒玉床で数ヶ月の修練を経て、体内で衝突していた二つの魔力を完全に融合させ、力は飛躍的に増した。
普段は意図的に抑えている。この時代、異常な力を見せるのは危険だ。教会の狩人、ラビ派の魔術師、様々な秘密組織が、異端を監視している。
だが今は——露見など知ったことか。
子供たちを傷つけようというなら、容赦はしない。
ルーンの姿が掻き消えた。
次の瞬間、彼は護衛とフーリエの間に立っていた。
「なっ——」
護衛が驚愕する暇もなく、ルーンの手が伸びた。
振り下ろされようとしていた腕を掴む。
そして——握り潰した。
ゴキッ。
骨が砕ける鈍い音。
「ぎゃあああっ!」
護衛が絶叫して崩れ落ちた。
他の護衛たちの顔色が変わった。一斉に襲いかかる。
ルーンの動きは、彼らの目では追えなかった。
二人目の護衛の胸に掌底を叩き込む。
ドンッ。
その男は攻城槌で撃たれたように吹き飛び、雅間の卓と椅子を薙ぎ倒した。
三人目が横から短剣を突き出す。
ルーンは身を翻して躱し、その手首を掴んで捻った。
ゴキッ。
また骨が折れる音。
短剣が床に落ちる。
ルーンはそのまま蹴りを放ち、その男を残りの二人に叩きつけた。三人が団子になって転がる。
十秒と経っていない。
五人の護衛が、全員地に伏していた。
雅間の文人たちは凍りついた。
これが——人間か?
ギュスターヴは口元を押さえ、恐怖に震えていた。
「お前……お前は何者だ……!化け物か……!」
ルーンは答えず、一歩一歩、彼に近づいた。
足を踏み出すたび、床板が軋む。
血族の力が体内を巡り、その存在感だけで周囲を圧していた。魔法は一切使っていない。血族として強化された肉体だけで、この程度の人間など塵に等しい。
「化け物?」
ルーンはギュスターヴの前で立ち止まり、見下ろした。
「子供の足を折れと言ったな?」
「じょ、冗談だ……」
ギュスターヴは震え、顔面蒼白になった。
「わ、私が誰か知っているのか……?父は王国財務総監、ド・フルーリ伯爵だ……!王国の税と財政を司っている……!私に手を出せば、父が黙っていないぞ……!」
ルーンの心臓が跳ねた。
財務総監。
十八世紀のフランスにおいて、財務総監は宰相に次ぐ重職だ。王国の財政、税制、商業を統括し、絶大な権力を持つ。
ギュスターヴが本当に財務総監の息子なら、これは厄介だ。
この手の人間を敵に回せば、店も孤児院も潰される。
だが——
ルーンは壁際で震えるフーリエとジャンに目をやった。
そして、冷笑した。
「財務総監がどうした」
彼はギュスターヴの襟首を掴み、持ち上げた。
「いいか、よく聞け。もう一度子供たちに指一本でも触れてみろ。次は首を捻り折る」
ギュスターヴを床に放り投げ、他の文人たちを見回した。
全員が後退った。
「他に手を出したい者は?」




