第185話 風波
聖心レストランの二階には、四つの個室がある。
いわゆる「雅間」だ。
店を構える際、シャルルは首を捻っていた。
「なんでわざわざ個室なんか作るんだ?普通の席の方が客が入るだろう」
ルーンの答えは明快だった。
「金持ちは人目を気にするからだ」
十八世紀のパリ。
この時代のブルジョワや小貴族は、サロンや文学談義、商談の場を求めている。
体裁を保ちつつ、他人の耳を気にせず話せる空間が欲しいのだ。
普通の酒場やカフェでは騒がしすぎる。かといって貴族の私邸には誰でも入れるわけではない。
聖心レストランの雅間は、その狭間を埋めるものだった。
部屋ごとに入口を分け、防音もしっかり施した。内装は品があるが派手すぎず、値段は高級店より安いが一般の店の三、四倍。
結果として、ルーンの読みは当たった。
開業ひと月も経たぬうちに、雅間の予約は来週まで埋まっている。
文人、商人、小貴族。さまざまな客がここで集まりを開くようになった。
今夜も、二階の雅間のひとつに若い文人たちが陣取っていた。
パリの文学サロンの常連だ。毎週集まっては詩や戯曲、哲学について論じ合う連中である。
以前はセーヌ河畔のカフェを使っていたが、この店の雅間を知ってからは、こちらに鞍替えした。
理由は単純。料理がうまい、雰囲気がいい、何より話を聞かれる心配がない。
ルーンとしては歓迎だった。
この手の文人は鼻につく物言いをすることもあるが、羽振りはいいし、口コミの効果も期待できる。
評判とはそうやって広がるものだ。
ただ、今夜この連中が厄介事を持ち込むとは、さすがに予想していなかった。
……
フーリエとジャンを待ちながら、ルーンは一階の片付けを進めていた。
ガストンたち給仕が忙しなく立ち働いている。
その時、二階から笑い声が降ってきた。
「ギュスターヴ殿の新作、お見事!」
「うむ、『曙光セーヌに降り注ぎ、黄金の輝きは神の恩寵の如し』——格調高く、韻律も整っておる!」
「ギュスターヴ殿の才、いずれ文壇に轟くことでしょうな!」
ルーンは眉を上げたが、気に留めず手を動かし続けた。
だが、雅間からの声はどんどん大きくなる。酒が回って舌も滑らかになったらしい。
「文学といえば、近頃出回っておる絵物語、あれはひどい!」
甲高い声が響いた。
「『ワンピース』とかいうやつだ。全編これ下品な海賊譚、文学的価値など皆無よ!」
ルーンの手が止まった。
『ワンピース』。
それは彼とセラファンが共に作り上げた漫画ではないか。
海賊王を目指す少年の冒険物語。絵と文を組み合わせた新しい形式の読み物として、パリの街で爆発的に売れている。
「まったくだ」
別の声が調子を合わせる。
「絵ばかりで中身がない。あんな子供騙しを読む輩の気が知れん。『ウィンスター』とかいう作者、どうせ絵しか描けぬ粗忽者だろうよ」
ルーンの眉間に皺が寄った。
ウィンスター。
それは彼の本名だ。ルーン・ウィンスター。
「ベケル」の偽名を使ってシャルルと組んだのには、わけがあった。
シャルルはルブラン家の若旦那だ。本人は気さくな男だが、父親の老ルブランはそうはいかない。パリでも名の知れた商人で、門地と家柄にはことのほかうるさい。
息子の共同経営者が孤児院上がりの無一文だと知れたら、出資に応じただろうか。
答えは火を見るより明らかだ。
だからルーンは「ベケル」という人物を作り上げた。地方から出てきた商人の倅で、実家は小さな商いをやっており、パリで商機を探しているのだと。
この話は筋が通っていて、検証のしようもない。フランスは広い。地方の小商人など掃いて捨てるほどいる。誰がわざわざ裏を取る。
シャルルは信じ込んだ。老ルブランは半信半疑だったが、息子の顔を立てて追及しなかった。
こうして聖心レストランは開業にこぎつけた。
まさか『ワンピース』がこれほど早く売れ、本名まで知れ渡るとは、ルーン自身も想定外だった。
「聞くところでは、あのウィンスターは孤児院の出らしいな」
三人目の声が言った。
「道理で書くものが粗野なわけだ。本物の文学には深い古典の素養と高雅な品性が要る。絵を並べて字を添えただけのものなど、文学とは呼べん」
「しかし『ワンピース』は飛ぶように売れているぞ」
誰かが口を挟んだ。
「パリだけで十万部を超えたと聞く」
「ふん」
甲高い声が鼻で笑った。
「売れれば価値があるとでも?下々の者が派手な絵と血なまぐさい話を好むからといって、それが良い文学というわけではあるまい。真の芸術は時の試練と批評家の目に耐えるものだ」
「左様!『ワンピース』の如きは、せいぜいが子供の玩具よ。衆愚に媚びているだけだ。あのウィンスターとやら、文学も知らぬ輩を相手に怪しげな絵物語を売りつけているに過ぎん」
ルーンは布巾を置いた。
冷めた目で階段の方を見やる。
本来なら、この手の酸っぱい文人どもの戯言など相手にするつもりはなかった。
文人は互いに貶し合うもの。昔からそうだ。いちいち腹を立てても仕方がない。
それに、あいつらは客だ。金を落としに来ている。店の主人が、客の言葉尻を捉えて食ってかかるわけにもいくまい。
だが——その時だった。
階段の踊り場から、幼い声が二つ、響いた。
「嘘だ!『ワンピース』は子供の玩具なんかじゃない!」
「ルーン兄ちゃんのお話は最高なんだぞ!」
ルーンは弾かれたように振り返った。
フーリエとジャンが踊り場に立っていた。
顔を真っ赤にして、雅間の文人たちに向かって声を張り上げている。
——しまった。まだ帰っていなかったのか。
事情は察しがついた。
手洗いを済ませた二人は、皆がすでに帰ったことに気づいた。追いかけようとしたところで、雅間から『ワンピース』をけなす声が聞こえてきた。
そして堪えきれず、噛みついてしまったのだ。
「フーリエ!ジャン!」
ルーンは階段を駆け上がった。
「お前たち、何を——」
雅間には五、六人の若者が座っていた。いずれも二十代半ば、身なりは上等。金のある家の子弟と見て間違いない。
中央に陣取るのは、整った顔立ちに小さな口髭を蓄えた青年だ。尊大な目で二人の子供を見下ろし、唇の端に嘲りを浮かべていた。
「孤児院の小さな乞食が、文学に口を出すか」
「乞食じゃない!」
フーリエが声を荒らげた。
「僕たちはサン・ジャック孤児院の子供だ!」
「孤児院だろうと変わらん」
細面の青年が嗤った。
「字もろくに読めぬ野良犬が、文学を語るとは笑わせる」
「僕たちは字が読める!」
ジャンが叫んだ。
「ルーン兄ちゃんが教えてくれたんだ!『ワンピース』は低俗なんかじゃない、自由と勇気と仲間の物語だ!」
「ははは!」
雅間から嘲笑が湧いた。
「自由と勇気と仲間だと?」
口髭の青年が首を振った。
「子供の浅はかな理解よ。真の文学とは、人間の深淵、運命の無常、社会の本質を探るものだ。海賊ごっこの絵物語など、芸術の名に値せん。孤児院の餓鬼風情に何が分かる」
ルーンは雅間の入口に立った。
「皆様」
静かな声だった。だが、全員の視線が集まった。
「相手は子供です。そう目くじらを立てずとも、よろしいのでは」
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