第183話 詩
二階の個室は賑やかだった。
子供たちのはしゃぐ声が天井を揺らさんばかりで、アニエス修道女が「静かにしなさい」と何度注意しても効果はない。
ルーンは傍らに立って、ブラン神父や修道女たちの食事の様子を見守っていた。フランソワが時折厨房から新しい料理を運んでくる。すべてが順調に進んでいた。
そのとき、階段の方から足音が聞こえてきた。
「ルーン!」
振り返ると、アントワーヌが立っていた。
金色の髪がいつもと違って少し乱れている。普段はきっちり撫でつけているのに。深灰色の上着には墨の染みがついていて、襟元のクラヴァットも曲がっている。慌てて来たのが一目で分かった。
ただ、手には一本のワインを持っていた。リボンできちんと結ばれている。
「アントワーヌ?」ルーンは驚いた。「どうしたんだ?今日は授業は?」
「今日の午後は講義がなくてね」アントワーヌは微笑んで、ワインを差し出した。「孤児院の皆を招いてるって聞いたから、僕も顔を出そうと思って。これは開業祝い。遅くなったけど」
ルーンはワインを受け取った。ブルゴーニュの赤ワイン。安くはない。
「貧乏学生のくせに、こんなものに金を使って」
口ではそう言いながら、心は温かくなった。
「アントワーヌ兄ちゃん!」
フーリエが真っ先に反応して、席から飛び降りて駆け寄ってきた。
「久しぶり!最近全然孤児院に来てくれなかったじゃん!」
他の子供たちも次々と集まってきた。
「アントワーヌ兄ちゃん!」
「痩せたね!」
「僕のこと覚えてる?」
アントワーヌは子供たちに囲まれて、少し慌てた様子だったが、顔には本物の笑みが浮かんでいた。
彼はしゃがんで、フーリエの頭を撫でた。「もちろん覚えてるよ。フーリエ、また背が伸びたな」
「うん!」フーリエは胸を張った。「今はアルファベット全部言えるよ!自分の名前も書ける!」
「すごいな」アントワーヌは心から褒めた。
テレーザも歩み寄ってきた。アントワーヌの憔悴した顔色を見て、眉をひそめた。
「アントワーヌ、すごく痩せたわね。目の下にクマもできてる」
「学院の勉強が忙しくてね」アントワーヌは立ち上がった。「今日はたまたま時間ができたから、皆に会いに来たんだ」
ブラン神父が上座から手招きした。「アントワーヌ、こっちに座りなさい。一緒に食べよう」
「ありがとうございます、神父様」
アントワーヌはルーンの隣に座った。ガストンがすぐに食器を用意した。
ちょうどそのとき、ルナが大きなトレイを抱えて階段から現れた。
「お待たせしましたー!」
彼女は手際よく、湯気の立つ土鍋と二皿の付け合わせをテーブルに並べた。
「この赤ワイン煮込みビーフは当店の看板料理でして、香りで隣町まで客が来ると評判です。あと、この二皿は付け合わせのサービスでーす」
ルーンがテーブルを見ると、二皿とも同じピクルスだった。
「……二種類の付け合わせじゃなかったのか?」
「盛りすぎちゃったから二つに分けたの」ルナは悪びれもせず言った。「一皿目が『ピクルス』で、二皿目が『きゅうりの酢漬け』。ほら、二種類」
「同じものだろ」
「呼び方が違うから別物だよ」
言い終わる前に、彼女は鼻歌を歌いながらさっさと別のテーブルへ向かっていった。
しばらくすると、隣のテーブルで接客する声が聞こえてきた。
「このクリームマッシュルームチキンは当店の看板料理でして、香りで隣町まで客が来ます」
「このオニオンスープも当店の看板料理でして、香りで隣町まで客が来ます」
「このパンも当店の看板料理でして——」
「……お客様、ご注文は以上ですか?かしこまりました。当店は看板料理しかございませんので、ご安心ください」
アントワーヌは呆然とした。「隣町から来る客、多いな」
ルーンは顔を覆った。「全部あいつの妄想だ。放っておいてくれ」
アントワーヌは苦笑しながら、土鍋の蓋に手を伸ばした。「まあ、面白い子じゃないか。……それにしても、まだ蓋を開けてないのに良い匂いがするな」
蓋を開けると、濃厚なワインと肉の香りが広がった。牛肉は柔らかく煮込まれ、ソースはとろりと濃厚で、見ただけで食欲をそそる。
「いい匂い!」フーリエが顔を近づけて、目を輝かせた。
アントワーヌは一口食べて、目を見開いた。「確かに美味しい。パリで食べたほとんどの店より上だ」
「当然だ」ルーンは得意げに言った。「うちの料理長はボーヴェ公爵邸で働いてたんだからな」
個室は再び賑やかになった。子供たちは菓子を食べながら、楽しそうにおしゃべりを続けている。
……
宴もたけなわとなった頃。
子供たちは満腹になって、個室の中を走り回り始めた。アニエス修道女が「走るんじゃない」と追いかけている。
ブラン神父とテレーザは隅で小声で話していて、時折笑い声が聞こえる。
賑やかで、温かい雰囲気だった。
だが、アントワーヌだけは杯を持ったまま、どこか沈んだ表情で酒を見つめていた。
ルーンは彼の様子に気づいて、そっと近づいた。
「どうした?ここ数日、ろくに寝てないだろう」
アントワーヌは一瞬驚いて、それから苦笑した。「隠せないな」
彼はため息をついて、声を落とした。「法律学院のことでね」
「何があった?」
「ドラクロワ院長が引退するんだ」
「ドラクロワ……」ルーンは考えた。「有名な老院長か」
「ああ。パリ法律学院に三十年勤めて、教え子は数えきれない」アントワーヌは頷いた。「来月、学院で送別会が開かれる。学生は全員、詩か文章を捧げなければならない」
「詩?」ルーンは意外そうだった。「法律学院の送別会で、なぜ詩を?」
アントワーヌは苦笑して説明した。
「フランスでは、詩と修辞学は法律教育の重要な一部なんだ。法律家というのは、結局のところ言葉で勝負する仕事だからね。優れた弁護士は法律に精通しているだけじゃなく、雄弁で、言葉を自在に操れなければならない」
彼は少し間を置いて続けた。
「それに、ドラクロワ院長自身が詩人でもある。若い頃は文学サロンに出入りして、ヴォルテールやルソーとも交流があったそうだ。院長の口癖は、『詩を解さない者は、真に優れた法律家にはなれない』」
ルーンは理解した。「つまり送別会で詩の才能を披露して、院長に認められれば……」
「そうだ」アントワーヌの目が少し陰った。「院長は引退しても、法曹界に幅広い人脈を持っている。大物弁護士、判事、国会議員……多くが彼の教え子だ。推薦状をもらえれば、卒業後の道が全く違ってくる」
「だから良い詩を書きたいが……」
「書けないんだ」アントワーヌは苦悩した様子でこめかみを揉んだ。「僕が得意なのは法律条文と論理的弁論であって、詩なんて……韻律も、イメージも、比喩も、さっぱり分からない」
テレーザがいつの間にか近くに来ていて、心配そうな顔で聞いていた。
傍らのフーリエも会話に気づいて、首を傾げた。
「アントワーヌ兄ちゃん、詩って何?」
「詩というのは……」アントワーヌは考えた。「美しい言葉で、心の中の気持ちを書き表すことだよ」
「難しいの?」
「僕にとっては、とても難しい」
ブラン神父も話を聞いていて、穏やかに口を開いた。
「アントワーヌ、良い詩というのは天から降りてくるもので、無理に絞り出せるものではない」
「ええ」アントワーヌは肩を落とした。「この数日、手に入る詩集を片っ端から読みました。ラシーヌ、コルネイユ、ラ・フォンテーヌ……模倣して十数篇書いてみましたが、自分で読んでも駄目だと分かります」
彼は首を振った。声に悔しさが滲んでいた。
「もういい、適当に一篇書いてお茶を濁します。どうせ僕みたいな身分の学生がどんなに良いものを書いても、院長の目には留まらない。貴族の子弟や富商の息子たちこそ、重点的に育成される対象ですから」
テレーザの表情が曇った。彼女は誰よりもアントワーヌの将来を気にかけている。
ルーンはアントワーヌを見つめながら、これまでの日々を思い返していた。
アントワーヌ、ルーン、テレーザ。三人の孤児が一緒に育った。アントワーヌは昔から一番の努力家で、一番向上心があった。自分も余裕がないのに、毎月いくらかを孤児院に寄付し続けてきた。
今、やっと運命を変えるチャンスが巡ってきた。なのに、詩が書けないことで悩んでいる。
アントワーヌほどの男が、自ら人脈を求めようとしている。あの院長の地位は相当なものなのだろう。
アントワーヌの人脈は俺の人脈。俺の人脈も俺の人脈。ここは助けてやらねば。
ルーンの脳裏で、前世の記憶が高速で回転した。
送別の詩。フランス語の名詩。この時代より後に書かれた作品なら、使える——
すぐに、一篇が浮かんだ。
ヴィクトル・ユゴー。『明日、夜明けに』。
フランス文学史上、最も有名な詩の一つ。愛する者との別れを詠んだ、切なくも美しい一篇。
前世、大学のフランス文学の授業で暗記させられた。その後も映画やドラマで何度も耳にした。もう骨身に染みついている。
ユゴーが生まれるのは1802年。今は1778年。まだこの世に存在しない詩だ。
——使える。
ルーンは杯を取り上げて一口飲み、子供たちの騒ぎ声を圧するように声を張った。
「詩を書くんだろう。よし、今日は見せてやる」
個室が一瞬静まり返った。
「孤児院出身の人間は、皆才能があるということをな」
アントワーヌは呆然とした。「お前……詩が書けるのか?」
テレーザも目を丸くした。「ルーン、あなた字もろくに読めないじゃない」
ブラン神父は興味深そうにルーンを見ていたが、何も言わなかった。
子供たちも好奇心に駆られて集まってきた。
「ルナ!」ルーンは呼んだ。「紙とペンを持ってきてくれ!」
ルナが階段から顔を出した。
「はーい!」
彼女は小走りで取りに行き、すぐに戻ってきた。紙とペンを恭しく差し出しながら、胸を張って言った。
「こちら当店の看板文房具でございます」
一瞬の間。
「——墨の香りで隣町まで客が来ると評判です」
「来ねえよ」
「来るわけないでしょ」
ルーンとアントワーヌのツッコミが重なった。
ルナは不満そうに頬を膨らませた。「せっかく考えたのに」
「いいから渡せ」
アントワーヌは羽根ペンを受け取り、インク壺を手元に置いた。緊張した面持ちでルーンを見る。
「準備できた」
個室の子供たちも静かになり、好奇の目をこちらに向けている。アニエス修道女でさえ手を止めて、視線を送ってきた。
ルーンは軽く息を吸った。
脳裏にあの詩が浮かぶ。フランス語の原文。一字一句、鮮明に。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「Demain, dès l'aube, à l'heure où blanchit la campagne......」
(明日、夜明けに、野が白む頃.......)




