第182話 宴
十月初旬、ある夕暮れ。
聖心レストランの二階は、今日だけ特別に貸切だ。
招待客は——孤児院の神父、修道女、そして子供たち。
俺にとって唯一の家族。
「ルーン!」
階段を上がってきたのは、ふくよかな体型の修道女だった。
アニエス修道女。孤児院で最古参の人だ。俺が赤ん坊の頃から世話になっている。
「立派になったねえ!」
肩をバンバン叩かれる。
痛い。この人、昔から力加減を知らない。
「この店、モンマルトル中で評判だよ!」
「ありがとうございます」
「この内装、この雰囲気!老舗より立派じゃないか!」
……この台詞、今夜だけで何回聞いただろう。
まあ、悪い気はしない。
孤児院の面々が続々と上がってくる。
ブラン神父、テレーザ、そして子供たち。
人数は多くない。
でも俺にとっては、この人たちが全てだ。
「ガストン、下は頼む」
「了解です」
部下——もとい従業員のガストンが階下へ向かう。
さて、宴の始まりだ。
……
二階の個室。
二つの大きなテーブルに、子供たちがわいわいと座っていく。
「こっち空いてる!」
「俺、窓際がいい!」
「押すなって!」
賑やかだ。
ブラン神父は上座に座り、穏やかな目でその様子を見守っている。
テレーザとアニエス修道女は、秩序を保とうと奮闘中。
……まあ、無理だろうな。子供相手に秩序とか。
「ルーン兄ちゃん!」
袖を引っ張られた。
見下ろすと、八歳くらいの男の子。目がきらきらしている。
ジョゼフ・フーリエ。
孤児院で一番頭のいい子だ。
「ここ、すっごく綺麗だね!」
彼は天井を指さした。
「あのシャンデリア、蝋燭が何本あるか分かる?」
「……さあ」
「十二本!三列で、一列四本ずつ!」
即答かよ。
「数えるの早いな」
「だって並び方が規則的だから!」
フーリエは得意げに言った。
「いろんなものって、規則性を見つければすぐ計算できるんだ」
彼は今度はテーブルの食器を指さした。
「このお皿、一テーブルに八セット。二テーブルで十六セット。もう一つ足したら——」
「はいはい、フーリエ」
テレーザが彼を引っ張っていった。
「ルーンを困らせないの」
「困らせてないよ!数字の話してただけ!」
ぶつぶつ言いながら席に戻っていく。
……あの子、やっぱり普通じゃないな。
数字に対する感覚が鋭すぎる。
「最近、算術に夢中なんです」
テレーザが戻ってきて、小声で言った。
「一日中、紙に何か書いてて。私たちには何を計算してるのか分かりません」
「才能があるんだろう」
「ええ……でも」
彼女は言葉を濁した。
何か引っかかる。
だが今は聞かないでおこう。
「料理、出してくれ」
俺は階下に声をかけた。
……
料理が次々と運ばれてくる。
クリームマッシュルームチキン。
赤ワイン煮込みビーフ。
タラのポワレ。
野菜のポタージュ。
子供たちの目が輝いた。
「いい匂い!」
「うわ、肉だ!肉!」
「おかわりある?」
まだ食べてないだろ。
中産階級の客にとっては普通の料理だ。
でも孤児院の子供たちにとっては、夢のような食事。
俺も昔はそうだった。
美味いものを腹いっぱい食べたい——それだけが夢だった時期がある。
今はその夢を叶える側になった。
悪くない気分だ。
「ゆっくり食べな、誰も取らないから」
アニエス修道女がスープをよそいながら笑う。
子供たちは夢中で食べている。
ブラン神父が料理を見渡した。
「これだけの料理、原価は安くないだろう?」
「大したことありません。店の看板メニューですから」
俺は肩をすくめた。
「昔、孤児院にいた頃、美味いものを食べるのが夢でした。今はその力があるので、弟や妹たちにも味わってほしくて」
神父は頷いた。
「お前は良くやっている。私の予想以上だ」
「神父様たちのおかげです」
「いや」
神父の目が真剣になった。
「お前自身の努力と才覚だ。それは認めなければならない」
少し照れくさい。
「ただ」
神父は続けた。
「商売の世界は複雑だ。お前はまだ若い。用心するに越したことはない」
「……肝に銘じます」
忠告として受け取っておこう。
前世の経験があるとはいえ、この時代特有の罠もあるはずだ。油断は禁物。
隣でテレーザが目を潤ませていた。
「ルーン、ありがとう」
「何が」
「こうやって皆を招いてくれて」
「家族に飯をおごるだけだ。当然だろ」
テレーザは何も言わず、俺の手をそっと叩いた。
……この人、昔から泣き虫だな。
……
宴もたけなわ。
子供たちは満腹になって、テーブルに突っ伏している子もいる。
幸せそうな顔だ。
ブラン神父が杯を置いた。
「ルーン、一つ話がある」
その声に、少し重いものを感じた。
「何でしょう」
「最近……孤児院の資金繰りが厳しくてな」
予想していなかった話ではない。
でも、神父の口から直接聞くと、やはり重い。
「教区からの配分が去年より二割減った。冬が近い。子供たちの衣服や暖房が問題だ」
「いくら必要ですか」
単刀直入に聞いた。
「金をせびりに来たわけじゃない」
神父は手を振った。
「お前も開業したばかりだ。ただ、状況を知っておいてほしかった」
「神父様」
俺は真っ直ぐ彼を見た。
「孤児院には十八年間育てていただきました。その恩は忘れていません。遠慮なくおっしゃってください」
神父は黙って俺を見つめた。
しばらくして、口を開いた。
「……五十リーヴルあれば、この冬は越せる」
五十リーヴル。
小さな額じゃない。
でも、出せないわけじゃない。
「来週届けます」
神父は目を見開いた。
「……本当にいいのか」
「当然です」
俺は肩をすくめた。
「やるべきことをやるだけですから」
神父の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。
「お前は……本当に良い子だ」
テレーザがまた泣きそうになっている。
だから泣き虫だって。
……
宴が終わった。
子供たちは修道女に連れられて、孤児院へ帰っていく。
俺は入口に立って、その小さな背中を見送った。
「ねえ、ルーン」
隣にルナがいた。いつの間に来たんだ、こいつ。
「フーリエの件、聞いた?」
「……何の話だ」
「ある貴族があの子に目をつけてるらしいよ」
ルナは腕を組んだ。
「勉強の援助をしたいんだって」
「それは良いことじゃないか」
「条件付きでね」
彼女は肩をすくめた。
「フーリエを自分の屋敷で小姓として働かせること。名目上は援助、実際は——まあ、分かるでしょ」
……なるほど。
この時代の「援助」ってやつか。
孤児で後ろ盾もない子供を、貴族が「善意」で引き取る。
聞こえはいいが、実態は使用人。下手すりゃもっと悪い。
「神父様は?」
「迷ってるみたい」
ルナは言った。
「断れば、あの子は一生まともな教育を受けられないかもしれない。受け入れれば、あの貴族が何を考えてるか分からない」
難しい選択だ。
俺はさっきのフーリエを思い出した。
シャンデリアの蝋燭を数えていた時の、あの目。
規則性を見つけて喜んでいた、あの表情。
あれは本物の才能だ。
歴史を知る俺には分かる。
あの子は将来、とんでもない数学者になる。
——もし、才能を伸ばす機会があれば。
「この件」
俺は言った。
「何とかする」




