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第168章 血族とカバラ 後編

「生き延びる方を選ぶ」


コンラートの言葉が、密室に響いた。


誰も、何も言えなかった。


エリンは目を見開いている。マルクスは拳を握りしめたまま、石像のように固まっていた。ハンスは壁に背をつけ、呆然と首領を見つめていた。


アロンは——


アロンは、自分の耳を疑っていた。


コンラート。


ヨーロッパ最強の狩人と呼ばれる男。


生涯で百を超える血族を狩り、一度も退いたことのない男。


その男が——


血族に頭を下げると言っている。


「首領……」


アロンの声が掠れた。


「本気ですか」


コンラートは彼を見た。


その目は、いつもと変わらなかった。冷静で、鋭く、何の迷いもない。


「本気だ」


「しかし——」


「勘違いするな、アロン」


コンラートは腕を組んだまま言った。


「俺は彼女に屈服するつもりはない。膝を折るつもりもない」


「だが、死ぬつもりもない」


「まだやることがある。倒すべき血族がいる。守るべき人間がいる」


「ここで死ぬわけにはいかない」


彼は老ラビに向き直った。


「ラビ殿。彼女は今、どこにいる」


老ラビは少し驚いたような顔をした。


「……知っているのではないか。お前たちは彼女を追っていたのだろう」


「追っていた」コンラートは頷いた。「パリで、彼女を見つけた。だが——」


彼は言葉を切った。


「だが?」


「あの夜、俺たちは彼女の住処を突き止める前に見つかった」


コンラートの声が、わずかに苦くなった。


「アロンが、ある少年を追いかけていた。路地裏で、彼女と一緒にいた少年を」


老ラビの目が、すっと細くなった。


「少年?」


「ああ。黒髪の、若い男だ。二十歳前後に見えた」


「彼女と、どのような関係だった」


「分からない」コンラートは首を振った。「だが、彼女はあの少年を庇っていた。俺たちがあの少年に近づいた瞬間——彼女が現れた」


密室が静まり返った。


老ラビは顎に手を当て、何かを考え込んでいる。


「少年を……庇っていた、と」


「ああ」


「千年血族が、人間の少年を庇う……」


老ラビは呟いた。


「興味深いな」


---


「ラビ殿」コンラートは言った。「彼女の居場所を知る手がかりはあるか」


「パリにいることは確かなのだな」


「ああ。少なくとも三日前まではいた」


老ラビは頷いた。


「ならば、手がかりは一つだ」


「何だ」


「その少年を探せ」


コンラートは眉をひそめた。


「少年を?」


「彼女が少年を庇ったということは、少年は彼女にとって重要な存在だということだ」老ラビは言った。「少年を見つければ、彼女も見つかる」


「だが、あの少年が何者かも分からない」


「アロン」


老ラビはアロンを見た。


「お前は、あの少年を見たのだな」


アロンは頷いた。


「はい。路地裏で……」


「どんな少年だった。詳しく話せ」


アロンは記憶を辿った。


あの夜のことを。


「黒髪で……背は普通でした。服装は質素で、裕福には見えなかった。どこかの使用人か、あるいは……」


彼は言葉を切った。


「あるいは?」


「孤児院の関係者かもしれません」


老ラビの目が光った。


「なぜそう思う」


「あの路地の近くに、孤児院がありました。少年はその方向から来たように見えた」


「孤児院……」


老ラビは顎をさすった。


「セーヌ川の南岸か。サン・ジャック通りの辺りだな」


「ご存知なのですか」


「カバラ派は、パリにも情報網を持っている」老ラビは言った。「あの辺りには、いくつか孤児院がある。教会が運営しているものが多い」


「では、そこを当たれば——」


「待て」


コンラートが遮った。


「闘雲に飛び込むようなことはしない。彼女は俺たちを警戒している。下手に動けば、また見つかる」


「ならば、どうする」


コンラートは老ラビを見た。


「ラビ殿。あなたに同行を願いたい」


---


密室がざわめいた。


中年の祭司が立ち上がった。


「コンラート殿、それは——ラビ様をパリに連れて行くおつもりか」


「そうだ」


「馬鹿な!」祭司は叫んだ。「ラビ様はカバラ派の長老だ。万が一のことがあれば——」


「黙れ、イサク」


老ラビの声が、静かに遮った。


中年の祭司——イサクは、口をつぐんだ。


老ラビはコンラートを見た。


「なぜ、私に同行を求める」


「理由は二つある」コンラートは言った。「一つ、彼女は千年を生きてきた。俺一人で交渉するには、荷が重い。あなたの知恵が必要だ」


「二つ、あなたは彼女のことを知っている。古文書に書かれていないことも、知っているはずだ」


老ラビは答えなかった。


だが、その目には何かが閃いた。


「……鋭いな、お前は」


「当然だ。俺は狩人だ。獲物のことを知らずに狩りはできない」


「彼女は獲物ではないぞ」


「分かっている」コンラートは頷いた。「だからこそ、あなたが必要だ」


老ラビは長い間、沈黙していた。


蝋燭の炎が揺らめいている。壁の符文が淡い光を放っている。


やがて、老ラビは立ち上がった。


「いいだろう」


イサクが声を上げた。


「ラビ様——」


「黙れと言っている、イサク」


老ラビの声は穏やかだったが、有無を言わせぬ重みがあった。


イサクは口を閉じた。


老ラビはコンラートに向き直った。


「私も——一度、会ってみたいと思っていたのだ」


「ヴィラ・ナイトドーンに?」


「ああ」老ラビは頷いた。「千年を生きた血族に。我が先祖を殺し、それでいて殺しきらなかった女に」


「先祖?」


老ラビの目が、遠くを見るように細められた。


「1687年の戦いで死んだ十二人の大祭司——その中に、私の曾祖父がいた」


密室が静まり返った。


「副祭司長、エリヤフ・ベン・ソロモン。五年間耐え抜いた末に、血呪で命を落とした男だ」


「私は、曾祖父の遺言を聞いて育った」


老ラビは杖を取り上げた。


「『ヴィラ・ナイトドーンを敵に回すな』」


「『もし出会っても、決して剣を向けるな』」


「『逃げろ。ひたすら逃げろ』」


「『そして——』」


老ラビは密室にいる全員を見回した。


「『——祈れ。彼女の機嫌が悪くないことを』」


---


沈黙が落ちた。


誰も、何も言えなかった。


やがて、コンラートが口を開いた。


「……で、あなたは祈るのか」


老ラビは彼を見た。


「何?」


「彼女の機嫌が悪くないことを、祈るのか」


老ラビは一瞬、きょとんとした。


それから——


笑った。


声を上げて、笑った。


「ふ、ははは……」


密室にいる全員が、呆気にとられて老ラビを見た。


この厳格な長老が、声を上げて笑うなど——誰も見たことがなかった。


「いや……すまぬ」老ラビは笑いを収めた。「お前は面白い男だ、コンラート」


「質問に答えていないが」


「そうだな」老ラビは頷いた。「答えよう」


彼は杖を床に突いた。


「私は——祈らない」


「祈らない?」


「ああ。祈りは、自分ではどうにもできないことに対してするものだ」


老ラビはコンラートの目を真っ直ぐ見た。


「だが、今回は違う。彼女の機嫌が良いか悪いかは、我らの態度次第だ」


「我らが誠意を見せれば、彼女は応じるかもしれぬ。我らが傲慢に振る舞えば、彼女は我らを殺すだろう」


「つまり——結果は、我らの手の中にある」


「祈る必要などない」


コンラートは老ラビを見つめた。


それから、口元に薄い笑みを浮かべた。


「……気が合いそうだ、ラビ殿」


「そうか。それは光栄だ」


老ラビは踵を返した。


「出発は明日の朝だ。今夜は休んでおけ」


「了解した」


老ラビは密室の出口に向かって歩き始めた。


だが、途中で足を止めた。


「そうだ。一つ、言い忘れていた」


「何だ」


老ラビは振り返った。


その目は、先ほどまでの穏やかさとは違う——深い、底知れぬ闇を湛えていた。


「彼女に会った時——決して、『カインの血』のことを口にするな」


コンラートは眉をひそめた。


「なぜだ」


「あれは、彼女の逆鱗だ」老ラビは静かに言った。「我らの先祖が彼女から奪い取ったもの。彼女が三百年守り続けたもの」


「あれに触れれば——」


老ラビの声が、さらに低くなった。


「彼女は、二度と我らと話そうとはしないだろう」


「そして——」


「我らは、死ぬ」


---


密室が凍りついた。


コンラートは無言で頷いた。


「分かった」


「ならばいい」


老ラビは再び歩き出した。


その背中が、薄暗い通路に消えていく。


コンラートはしばらくその場に立っていた。


やがて、部下たちを振り返った。


「聞いた通りだ。明日の朝、出発する」


「はい」エリンが答えた。「準備をしておきます」


「アロン」


アロンは顔を上げた。


「お前が一番重要だ。お前だけが、あの少年の顔を覚えている」


「はい」


「パリに着いたら、お前が先行して少年を探せ。見つけたら、すぐに報告しろ。絶対に、単独で接触するな」


「分かりました」


コンラートは頷いた。


「では、解散だ。今夜はしっかり休め。明日から——」


彼は言葉を切った。


「明日から、俺たちの命がけの旅が始まる」


---


一人、また一人と、密室から出ていった。


最後に残ったのは、コンラートだけだった。


彼は祭壇の前に立ち、揺らめく蝋燭の炎を見つめていた。


胸の印が、また疼いた。


手を当てると、心臓の鼓動と同期するように、黒い紋様が脈打っているのが分かる。


三ヶ月。


半年。


五年。


自分に残された時間は、どれくらいだろうか。


「……くだらんな」


コンラートは呟いた。


「いつ死ぬかなど、考えても仕方がない」


彼は手を下ろした。


「俺は生き延びる。何があっても」


その目には、鋼のような決意が宿っていた。


だが、同時に——


別の光も、ちらりと閃いた。


あの少年。


ヴィラ・ナイトドーンが庇った、あの少年。


千年血族が、なぜ人間の少年を庇う。


そこには、何か理由があるはずだ。


何か——利用できる理由が。


「……楽しみだな」


コンラートは低く笑った。


「パリで何が待っているか——楽しみだ」


彼は踵を返し、密室を後にした。


蝋燭の炎が揺らめき、やがて——


一本、また一本と、消えていった。


---


**(本章終)**


---


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