第167章 血族とカバラ 中編
密室に重い沈黙が落ちた。
蝋燭の炎が揺らめき、壁に刻まれたヘブライ文字の符文が淡い光を放っている。だが、その神秘的な輝きも、今この場を覆う暗澹たる空気を払うことはできなかった。
コンラートは腕を組んだまま、老ラビを見ていた。
「続けてくれ、ラビ殿」
その声は平静だった。まるで、自分の死刑宣告を聞いているのではなく、天気の話でも聞いているかのように。
だが、アロンは気づいていた。
首領の左手が、微かに震えていることを。
老ラビは頷き、再び『暗夜年代記』を開いた。
「……呪いにかかった三人の祭司は、どうなったか」
ページをめくる音だけが、静寂の中に響いた。
「一人目は——」
老ラビの声が、少しだけ低くなった。
「血呪が発症してから、三ヶ月で死亡した」
アロンの心臓が跳ねた。
三ヶ月。
たった三ヶ月。
「死因は——」老ラビは続けた。「記録によれば、全身の血液が内側から沸騰したという。最期の三日間、彼は一睡もできなかった。血管という血管が焼けるように痛み、皮膚の下で何かが蠢き続けた」
「最期の瞬間、彼は自分の腕を噛み千切ろうとしていた。痛みに耐えられず、呪われた部分を切り落とそうとしたのだ。だが——」
老ラビは目を閉じた。
「血呪は、体の一部を切り落としても消えない。心臓に刻まれているからだ」
エリンが息を呑んだ。
マルクスの顔が強張っている。
後方のハンスは、もう顔を上げることすらできなかった。
「二人目は——」
老ラビはページをめくった。
「なんとか半年持ちこたえた。毎日、聖水で身を清め、祈りを捧げ続けた。カバラの秘術を駆使し、呪いの進行を遅らせようとした」
「だが——」
「免れなかったのだな」
コンラートが静かに言った。
「その通りだ」老ラビは頷いた。「記録によれば、死の間際、彼の全身の血管は黒く浮き上がっていた。まるで体の内側から腐っていくようだったと」
「彼は最期に、こう言い残した」
老ラビは本から目を上げた。
「『呪いは消えない。祈りも、聖水も、秘術も——何も効かない。彼女の血だけが、我らを救える。だが、彼女は決して血を与えない。なぜなら——』」
「『——我らは、彼女を裏切ったからだ』」
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「裏切った?」
アロンが眉をひそめた。
「どういう意味だ。我らカバラ派が、血族を裏切るなど——」
「黙れ、アロン」
コンラートの声が遮った。
アロンは口をつぐんだ。
老ラビは彼を見て、小さく溜息をついた。
「若いな、お前は。知らぬのも無理はない」
「ラビ様——」傍らの中年祭司が口を挟んだ。「これ以上は、部外者の前で話すべきではないのでは……」
「構わぬ」老ラビは手を振った。「どうせ、彼らはこれからヴィラに会いに行く。知っておいた方がいい」
「会いに行く?」
エリンが声を上げた。
「ラビ殿、それはどういう——」
「後で説明する」コンラートが遮った。「続けてくれ、ラビ殿。『裏切り』とは何だ」
老ラビは立ち上がり、壁際の棚に歩み寄った。
埃を被った古い箱を取り出し、中から一枚の羊皮紙を引き出した。
「これは——公式の記録には残っていない。我がカバラ派の恥部だ。代々の長老だけが知る、秘密の記録」
彼は羊皮紙を広げた。
「1687年の戦い——あれは、我々が一方的に仕掛けたものだ」
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密室がざわめいた。
「一方的に?」中年の祭司が唸った。「しかし記録では、ヴィラ・ナイトドーンが『カインの血』という危険な聖遺物を持っていたから——」
「その通りだ。彼女は『カインの血』を持っていた」
老ラビは頷いた。
「だが——」
彼は一拍置いた。
「彼女は、それを悪用していなかった」
沈黙が落ちた。
「三百年だ」老ラビは静かに言った。「記録によれば、ヴィラ・ナイトドーンは三百年以上、『カインの血』を守り続けていた。誰にも渡さず、自分でも使わず、ただ——守っていた」
「なぜだ」コンラートが訊いた。
「分からぬ」老ラビは首を振った。「彼女の動機は、記録には残っていない。ただ、事実として——彼女は聖遺物を悪用していなかった。人間を襲うこともほとんどなかった。ルーマニアの山奥で、ひっそりと暮らしていた」
「では、なぜカバラ派は彼女を襲った」
「それは——」
老ラビの声が、少し苦くなった。
「当時の大祭司たちが、聖遺物を欲しがったからだ」
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「欲しがった?」
アロンが眉をひそめた。
「『カインの血』は危険な聖遺物だと——」
「危険だからこそ、価値がある」老ラビは言った。「『カインの血』を手に入れれば、カバラ派の力は飛躍的に増す。血族に対抗する術も、大幅に強化できる。少なくとも——当時の大祭司たちは、そう考えた」
「だから、ヴィラを討伐するという『大義名分』を掲げて、彼女を襲った」
「待ってくれ」マルクスが口を挟んだ。「それは——要するに、強盗じゃないか」
老ラビは彼を見た。
「その通りだ」
密室が静まり返った。
「我らの祖先は、強盗だった」老ラビは静かに言った。「三百年間、誰も傷つけず、ひっそりと暮らしていた血族を襲い、彼女の守っていたものを奪おうとした」
「そして——彼女に返り討ちにされた」
「十二人の大祭司のうち、五人が死に、四人が再起不能の重傷を負った。残る三人も血呪をかけられ、全員が五年以内に死んだ」
「それが、1687年の戦いの真実だ」
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長い沈黙が流れた。
やがて、コンラートが口を開いた。
「その『カインの血』は、今どこにある」
老ラビの表情が、わずかに曇った。
「……分からぬ」
「分からない?」
「戦いの混乱の中で、行方が分からなくなった」老ラビは言った。「生き残った三人の祭司が持ち帰ったという記録もあるが、その後の行方は不明だ」
「五十年後、聖遺物は『失われた』と公式に記録された。誰かが持ち去ったのか、破壊されたのか、それとも——」
老ラビは言葉を切った。
「それとも?」
「……何でもない」
老ラビは首を振った。
だが、その目には何かを隠している色があった。
コンラートはそれに気づいたが、追及しなかった。
今は、それよりも重要なことがある。
「ラビ殿」コンラートは言った。「解呪の方法を教えてくれ」
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老ラビはコンラートを見た。
その目には、奇妙な感情が宿っていた。哀れみ? 同情? それとも——
「三人目の祭司のことを、まだ話していなかった」
「三人目?」
「彼は、当時の副祭司長だった」老ラビは言った。「最も実力があり、最も意志が強かった」
「彼はどうなった」
「五年だ」
老ラビの声が、少し震えた。
「彼は、丸五年間耐え抜いた」
五年。
一人目の三ヶ月、二人目の半年と比べれば、遥かに長い。
「その間、我が派はあらゆる手段を尽くした」老ラビは続けた。「聖水での浸礼、献祭の儀式、ローマ教皇庁の大司教にまで助けを求めた。最も強力な退魔の秘術を試し、禁忌とされる古代の儀式にまで手を出した」
「結果は?」
「すべて——」老ラビは目を閉じた。「無効だった」
密室が静まり返った。
「五年後、血呪はついに彼の心臓にまで広がった」
老ラビは目を開けた。
「彼は死の間際に、遺言を残した」
「何と言った」
老ラビは深く息を吸った。
そして、静かに——まるで祈りを捧げるように——読み上げた。
「『ヴィラ・ナイトドーンという者、その実力は測り知れない』」
「『彼女が我らを殺そうと思えば、その場でできたはずだ。あの時、彼女は満身創痍だった。だが、それでも——我ら三人を殺すことは、造作もなかったはずだ』」
「『彼女がこのような、時間をかけて発症する血呪を残したのは——』」
老ラビの声が震えた。
「『——実は、我らに生き延びる機会を与えたのだ』」
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密室がざわめいた。
「生き延びる機会?」エリンが叫んだ。「どういう意味だ。呪いをかけておいて、生き延びる機会だと?」
「静かに」コンラートが言った。「続けろ、ラビ殿」
老ラビは頷いた。
「副祭司長は、こう続けている」
「『血呪には、必ず解呪の法がある。彼女はそれを知っていた。だからこそ、即死の呪いではなく、ゆっくりと蝕む呪いを選んだのだ』」
「『我らに時間を与えた。解呪の法を見つける時間を。そして——』」
老ラビはコンラートの目を見た。
「『——頭を下げて、血を乞う時間を』」
沈黙。
長い、長い沈黙。
「血を乞う?」
アロンが掠れた声で言った。
「彼女に——頭を下げて、血を乞えということか」
「その通りだ」
老ラビは頷いた。
「解呪の法は、たった一つしかない」
彼は立ち上がった。
「『呪いをかけた者本人の生き血を得よ。呪いをかけた者の血を、特定のカバラの儀式と組み合わせることで、血呪を解除できる』」
「『ただし——呪いをかけた者が、自らの意志で与えた血でなければならない。強奪したものでは、効果がない』」
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密室が凍りついた。
エリンの顔から血の気が引いた。
マルクスは拳を握りしめている。
ハンスは壁に寄りかかり、今にも崩れ落ちそうだった。
アロンは——言葉を失っていた。
頭を下げる。
血族に。
あの女に。
自分たちを呪った、あの女に。
「馬鹿な……」
誰かが呟いた。
「それは——それは無理だ。我らが血族に頭を下げるなど——」
「ならば死ぬだけだ」
コンラートの声が、冷たく響いた。
全員が首領を見た。
コンラートは腕を組んだまま、老ラビを見ていた。
「選択肢は二つしかない」
彼は静かに言った。
「誇りを守って死ぬか。誇りを捨てて生きるか」
「首領……」アロンが声を絞り出した。
コンラートは彼を見なかった。
「ラビ殿」
「何だ」
「あの三人の祭司は——最後まで、頭を下げなかったのか」
老ラビは頷いた。
「彼らは誇り高いカバラの祭司だった。血族に頭を下げることを、恥と考えた」
「だから——五年の時間があっても、誰一人、彼女の元を訪ねなかった」
「だから——全員、死んだ」
コンラートは目を閉じた。
「……そうか」
しばらくして、彼は目を開けた。
その目には、決意の色が宿っていた。
「俺は——生き延びる方を選ぶ」
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**(本章終)**
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