第166章 血族とカバラ 前編
胸の焼けるような痛みが、また始まった。
アロンは心臓の辺りを押さえた。皮膚の下で何かが蠢いているのを感じる。見なくても分かる——あの黒い印がまた広がっている。
三日前のパリの夜。
あの女の微笑みが、まだ目に焼き付いている。紅い瞳。蒼白い指先。そして、血霧となって消え去る直前の、あの冷たい眼差し——
「アロン」
低い声が前方から響いた。
「ぼんやりするな」
アロンは顔を上げ、首領の背中を見た。
コンラート。
猟魔人団の首領にして、ヨーロッパ最強の狩人と呼ばれる男。白髪を後ろに撫でつけ、鷹のような眼光を持ち、五十を過ぎてなお現役で血族を狩り続けている伝説の人物。
その背中は相変わらず真っ直ぐだった。黒いローブが夜風に微かになびいている。足取りも確かだ。
だが、アロンは気づいていた。
首領が時折、左手で胸元を押さえていることを。
そこにも、同じ印があった。
「首領、お体は……」
アロンの隣を歩く女狩魔人が低い声で言った。エリン。黒い短髪に鋭い眼光、腰には二振りの銀の短刀を佩いている。隊で唯一の女性であり、追跡術において右に出る者はいない。
「問題ない」コンラートは振り返らずに言った。
嘘だ、とアロンは思った。
あの夜、コンラートは自分を庇って前に出た。だから首領の方が、より深い呪いを受けている。
自分のせいだ。
自分があの少年——路地裏にいた、あの黒髪の少年を追いかけなければ。あの女に見つかることもなかった。
「ここか」
別の声が響いた。
長身の男、マルクス。巨大な銀の弩を担ぎ、目の前の目立たない会堂を見上げている。
「カバラ派の拠点にしては、随分と地味だな」
「見た目で判断するな」コンラートは言った。「彼らは千年以上、闇の中で戦ってきた。派手な看板を掲げる連中は、とうに滅びている」
首領は会堂の木戸に手をかけた。
「入口は地下だ。ついて来い」
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地下への階段を降りるにつれ、空気が変わった。
冷たく、重く、そして——何か得体の知れない力が渦巻いている。
没薬と乳香の香りが鼻を突いた。
階段を降りきると、広大な密室が現れた。
十二本の石柱が中央の円形祭壇を取り囲んでいる。それぞれの柱には「生命の樹」——カバラの象徴——が刻まれていた。壁一面にヘブライ文字の符文が並び、揺らめく燭光の中で淡い金色の光を放っている。
祭壇の周りには、黒いローブを纏った祭司たちが座していた。
中央の聖水盆から銀白色の煙が立ち上り、空中で複雑な紋様を描いている。まるで生き物のように蠢いていた。
「来たか」
声は正面から聞こえた。
筆頭に座る老人。痩せた体躯に、鷹のような眼光。白い髭が胸元まで伸びている。
老ラビ。
カバラ派の長老にして、ヨーロッパで最も古い知識を持つ男の一人。
コンラートとは旧知の仲だと聞いている。かつて共に、ある強大な血族を討伐したこともあるらしい。
「ラビ殿」コンラートは軽く頭を下げた。「急な訪問を許されたい」
「構わぬ」老ラビは手を振った。「飛脚の知らせは受け取っている。パリの件……我らも耳にしておる」
パリの件。
その言葉だけで、密室の空気が張り詰めた。
祭司たちの視線が、コンラートとアロンに集中する。
「見せてもらえるか」老ラビは静かに言った。「その……印を」
コンラートは頷いた。
無言で胸元の衣を開いた。
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息を呑む音が、あちこちから聞こえた。
黒い印。
それは心臓の位置から外側へと広がっていた。紋様は古い呪詛の符文のようでもあり、とぐろを巻く毒蛇のようでもある。
だが最も恐ろしいのは——
その印が、微かに蠢いていることだった。
脈打つように。呼吸するように。
まるで、生きているかのように。
「アロン」コンラートが言った。「お前も見せろ」
アロンは唾を飲み込み、襟元を開けた。
彼の胸にも、同じ印があった。首領のものより少し小さいが、形は全く同じだ。
「二人同時に……」
老ラビの傍らに座る中年の祭司が呟いた。顔から血の気が引いている。
「これほどの血呪を、二人同時にかけられる血族など……少なくとも伯爵級、いや——」
彼は言葉を切った。
その先を言うのが、恐ろしかったのだ。
「解けるか」
コンラートが直接訊いた。
沈黙。
長い、長い沈黙。
エリンが腰の刀の柄を握りしめた。マルクスの顔が険しくなる。後方に控えていた若い狩魔人ハンスは、唇を噛んで俯いた。
その沈黙こそが、最も恐ろしい答えだった。
「この血呪は……」
老ラビがようやく口を開いた。
「古文書の記録でしか見たことがない」
「古文書?」
「三百年以上前の記録だ」老ラビは目を閉じた。「それ以降、この呪いを実際に目撃した者は——誰もおらぬ」
コンラートの目が細くなった。
「どういう意味だ」
「意味は一つしかない」
老ラビは目を開けた。
その瞳には、深い闇が宿っていた。
「この呪いをかけられる血族は、この三百年間——一人しかおらぬということだ」
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密室が凍りついた。
誰も、何も言えなかった。
老ラビは傍らの祭司に顎で合図した。
「『暗夜年代記』を持って参れ」
中年の祭司は頷き、隅にいた若い弟子に命じた。弟子は弾かれたように走り去り、数分後、腕に古びた羊皮紙の典籍を抱えて戻ってきた。
その顔は蒼白だった。
「見つけました……この巻です」
老ラビは典籍を受け取り、黄ばんだページをめくった。
やがて、ある箇所で手を止めた。
「……ここだ」
彼は深く息を吸い、読み上げ始めた。
「『西暦1687年、秋。カルパチア山脈』」
「『我がカバラ派は情報を得た。ある古い血族がルーマニアの山岳地帯に身を潜めており、禁忌の聖遺物「カインの血」を手にしているという』」
「『我が派の十二名の大祭司は協議の末、先手を打つことを決めた。その血族が単独でいる隙を突いて討ち取り、聖遺物を奪取する——』」
老ラビは顔を上げた。
「この血族の名を、記録はこう記している」
彼は一字一字、刻むように言った。
「『千年血族。紅月の女伯爵。ヴィラ・ナイトドーン』」
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その名が発せられた瞬間、密室の温度が下がった気がした。
中年の祭司が椅子から立ち上がりかけた。
「ヴィラ・ナイト——」
「黙れ」
コンラートの声が遮った。
低く、冷たい声だった。
「続けろ、ラビ殿」
老ラビは頷き、ページに目を戻した。
「『戦いは黄昏から深夜まで続いた。ヴィラは一人で十二人を相手取った』」
「『我らは彼女を追い詰めたと思った。何度も、あと一歩で仕留められると思った。だが、そのたびに彼女は立ち上がった』」
「『月光の下、白銀の髪を血で染めながら、彼女は何度でも立ち上がった』」
老ラビの声が低くなった。
「『深夜零時。戦いの果てに、五人の同胞が地に伏していた。四人が瀕死の重傷。立っていられるのは、わずか三人だった』」
「六時間で九人……」エリンが呟いた。「十二人の大祭司のうち、九人が——」
「最後の三人は、全ての力を振り絞った」老ラビは続けた。「己の寿命すら捧げて、封印陣法を極限まで発動させた。あと一歩で、ヴィラを完全に鎮圧できる——」
「そう思った瞬間」
老ラビは本から目を上げた。
「ヴィラは、血核の半分を自爆させた」
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「血核を自爆……」
マルクスが呻いた。
「正気か。それは——」
「修為と生命力の半分を捨てるに等しい」老ラビは頷いた。「下手をすれば、そのまま死ぬ」
「だが彼女は死ななかった」
コンラートが静かに言った。
老ラビは彼を見た。
「……その通りだ。ヴィラは血核爆発の衝撃波で封印陣を引き裂き、強引に陣を破って脱出した」
「去り際——」
老ラビの声が、さらに低くなった。
「彼女は振り返った。片目を潰され、右腕を失い、全身から血を流しながら——それでも、彼女は笑っていたという」
「そして、三人の祭司に血呪を施した」
「こう言い残して」
老ラビは本を閉じた。
次の言葉は、本を見ずに言った。暗記しているかのように。
「『お前たちは、私から大切なものを奪った』」
「『だから私も、お前たちから大切なものを奪う』」
「『命だ』」
「『ただし——ゆっくりとな』」
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密室は死んだように静まり返った。
アロンは自分の胸を見下ろした。
黒い印が、微かに蠢いている。
あの女の——ヴィラ・ナイトドーンの呪いが、今も自分の体の中で這い進んでいる。
中年の祭司の顔から血の気が引いた。
「ヴィラ・ナイトドーン……」
その名を口にした瞬間、彼の声は震えていた。
伝説だ。あれはただの伝説のはずだった。
千年を生きる血族。中世の暗黒時代、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた不死の女伯爵。超常者たちの間で「紅月」と呼ばれ、その名を口にすることすら禁忌とされた存在——
だが、それは数百年前の話だ。
彼女はとうに滅びたはず。歴史の闇に消えたはず。
なのに——
中年の祭司はコンラートとアロンの胸元の印を凝視した。その黒い紋様は、古文書の記述と寸分違わない。心臓に向かってゆっくりと這い進むその様は、まるで獲物を締め上げる毒蛇のようだった。
「……まさか」
彼は老ラビの方を振り向いた。
「本当に、彼女がまだ——」
老ラビは答えなかった。
ただ、その沈黙が全てを物語っていた。
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**(本章終)**
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