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第161章 準備


一月十五日、開業まであと三ヶ月。


ルーンが食堂の扉を開けると、石灰の匂いが鼻を突いた。少しツンとする。


新しく入れ替えた窓ガラスから斜めに日差しが入り、白い壁に当たって眩しいほどだった。初めてここに来た時のことを思い出す。あの時は窓に油紙が貼ってあって、隙間風も雨漏りもひどかった。壁の隅には黴が生えていて、その形がしゃがんだ猫に見えた。


今、その猫は消えている。


「ベッカーさん、いらっしゃいましたか」


ロランが厨房の方から歩いてきた。手には手帳を持っていて、表紙はもう毛羽立っている。この男は毎日何かを書き込んでいる。帳簿係より真面目だ。


ルーンは広間を見渡した。


壁は綺麗な白に塗り直されている。床の石板は七、八枚ほど補修されていて、色の濃淡はあるが、それがかえって素朴な味わいになっていた。


「進み具合は?」


「壁と床はほぼ完了です。窓はあと二箇所、明日には取り付けられます」ロランは手帳を開いた。「厨房の竈の改修も始まっています。サン・タントワーヌ地区の鍛冶屋が、明後日には新しい鉄板焼き台を届けてくれる予定です。竈と煙突の改修を合わせて、計九十リーブルです」


九十リーブル。ルーンが自分で交渉していたら、四十リーブルは高くついていただろう。


彼はロランを見た。


この男が老旦那から派遣された監視役だということは分かっている。だが認めざるを得ない——この監視役は、想像以上に使える。


「よくやってくれた」


ロランは軽く頭を下げた。表情は変わらない。ただ手帳を懐にしまう動作が、やけにゆっくりだった。


何かを待っているような仕草。


「言いたいことがあるなら言え」


ロランは顔を上げた。視線が広間を一周してから、ルーンに戻った。


「料理人の件ですが……少々厄介でして」


やはりそうか。


ルーンは続きを促した。


「この数日、七、八箇所ほど当たってみました。少しでも名の知れた料理人となると、月給十五から二十リーブルを要求してきます。住み込みの部屋と食事は当然として、祝祭日には心付けも」ロランは一拍置いた。「年間で三百リーブルを超えます。一人だけで」


三百リーブル。半年分の家賃に近い。


ルーンは黙っていた。


「安い者もいるにはいます」ロランは続けた。「場末の居酒屋で働いているような料理人なら、月五、六リーブルで雇えます。ただ、そういう者は……」


言葉を濁したが、意味は明白だった。


安かろう悪かろう。


ルーンはしばらく黙っていたが、ふと妙なことを訊いた。


「ロランさん、パリには貴族が何家ある?」


ロランは一瞬きょとんとした。「……二、三万家ほどかと」


「その中で、去年破産したのは何家だ?」


ロランは目を瞬かせた。それから、何かに気づいたように表情が変わった。


「つまり……」


「貴族が破産したら、抱えていた料理人はどうなる?」ルーンは塗り直したばかりの白壁に寄りかかった。口調はまるで天気の話でもするように淡々としていた。「主人がいなくなれば、使用人は散り散りだ。腕はある。だが行き場がない。価値がないんじゃない。ただ、今は誰にも必要とされていないだけだ」


ロランはルーンを見つめた。


その目つきが変わっていた。


部下が上司を見る敬意とは違う。もっと……複雑な何か。


「分かりました」彼は言った。「当たってみます」


「急がなくていい」ルーンは手を振った。「調べる時に、なぜ前の主人の元を離れたのかも確認してくれ。主人が破産したのか、それとも追い出されたのか」


「追い出された者は駄目ですか?」


「場合による」ルーンは薄く笑った。「手癖が悪くて追い出されたなら駄目だ。だが気性が荒くて主人に楯突いたとか……」


少し間を置いて、笑みが深くなった。


「そういう奴なら、むしろ話を聞いてみたい」


ロランはふっと笑った。


ルーンが初めて見る笑顔だった。仕事用の愛想笑いではない。本当に、心から笑っている。


「ベッカーさん」ロランは笑みを収めて、軽く首を振った。「あなたは……思っていたより面白い方だ」


「お互い様だ」ルーンは身を起こした。「料理人が見つかったらここに連れてきてくれ。実際に何品か作らせて、俺が味を見る」


「料理がお分かりになるので?」


「分かるってほどじゃない」ルーンは入り口に向かって歩きながら、背中を向けたまま言った。「ただ、美味いものは分かる」


---


外は日差しが眩しかった。


ルーンは通りに立って、しばらく空を見上げた。


もちろんロランには言わない。自分の頭の中に、数百年後の料理知識があることなど。


旨味とは何か。出汁の引き方。塩を入れるタイミング。火加減の調整——この時代の人間は、まだ何も知らない。


だが俺は知っている。


それが切り札だ。


「ベッカー!」


聞き慣れた声が街角から聞こえた。


振り返ると、シャルルが大股で歩いてくるところだった。紺色の上着に銀のボタン、髪もきっちり整えている。どこかの正式な場から来たのだろう。


「なんでここに?」


「商館の会議が終わって、ついでに寄ってみた」


「ヴィヴィエンヌ通りからここまで、どこがついでだ?」


シャルルは城壁より厚い面の皮で、へらへらと笑った。


「二千リーブル出資してるんだ、気にするなって方が無理だろ?」


ルーンは呆れて何も言わず、脇に避けて扉を示した。「勝手に見てこい」


シャルルは広間をぐるりと回り、壁を触り、床を踏み、厨房を覗き込んで職人たちがカンカンと作業しているのを眺めてから戻ってきた。意外そうな顔をしている。


「思ったよりいいじゃないか」彼は言った。「もっとボロボロかと思ってたけど、結構まともになるもんだな」


「ロランさんのおかげだ」


「ロラン?」シャルルは考え込むような顔をした。「父上が派遣した奴か?」


ルーンは頷いた。


シャルルは何か思案するような目つきでルーンを見て、ふいに声を落とした。


「ベッカー、あの男には気をつけろ」


「分かってる」


「いや、分かってない」シャルルの表情が珍しく真剣になった。「ロランって男、昔は商館の本部で働いていたんだ。三年前に何かやらかして、倉庫番に左遷された。父上があいつをお前に付けたのは、監視のためだけじゃない——」


一拍置いて、さらに声を潜めた。


「俺は思うんだが、父上はあいつにチャンスを与えているんだ」


ルーンは黙った。


ロランにチャンスを。


もしこの店を成功させれば、汚名返上で商館の中枢に戻れる。


もし失敗すれば……


「だからあいつは必死でやる」シャルルはルーンの肩を叩いた。「必死な奴は一番危険で、一番使える。まあ、上手くやれよ」


ルーンは思わず笑った。


「お前、今日はやけに頭が回るな」


「うるせえ!」シャルルは殴る真似をしたが、ルーンにあっさり避けられた。「俺は元々頭がいいんだ! 使ってなかっただけだ!」


二人は軽口を叩き合ってから、シャルルは用事があると言って先に帰っていった。


去り際に、また振り返って叫んだ。


「ベッカー! 開業の日は俺が客として来てやるからな! 恥かかせるなよ!」


「分かってる」


ルーンはシャルルの背中が街角に消えるのを見届けて、ゆっくりと笑みを収めた。


ロラン。


なるほど、そういうことか。


どうりであの男は必死なわけだ。


だがルーンにとっては、むしろ好都合だった。


立身出世を狙う人間は、ただ言われたことをこなすだけの人間より百倍使える。


ルーンがやるべきことは一つ。この店を成功させて、全員に利益を分け与えること。


そうすれば、ロランが腹の中で何を考えていようが、最高の協力者になってくれる。


---


孤児院は食堂からすぐ近くだった。


門をくぐった途端、中庭から悲鳴が聞こえた。


「あああああ足がぁ——!!」


声のする方を見ると、ルナが地面に這いつくばっていた。手足を投げ出して、周りには薪が散乱している。何人かの子供たちが呆然と彼女を見下ろしていた。


「何やってんだ?」ルーンは近づいた。


ルナは歯を食いしばりながら起き上がった。スカートが泥だらけだ。


「薪を運んでたの!」彼女は怒ったように言った。「そしたらこのクソ地面に穴があったのよ!」


ルーンはその「穴」を見下ろした。


それは地面からわずかに盛り上がった石板だった。せいぜい指二本分の高さしかない。


「……お前、目が悪いんじゃないか?」


「あんたこそ目が悪いわよ! あんたの一族全員目が悪い!」ルナは土を払いながら怒鳴った。「私の視力は完璧なの! この石が私を狙ったのよ!」


横にいた子供が思わず口を挟んだ。「ルナお姉ちゃん、さっき空の鳥を見てて——」


「黙りなさい!」


ルーンは彼女の土まみれの姿を見て、ふと気づいた。少し痩せたんじゃないか。


健康的な痩せ方じゃない。頬がこけている。


「いつからまともに飯を食ってない?」彼は眉をひそめた。


「食べてるわよ!」ルナは腰に手を当てた。「朝はパンを一個食べたわ! お昼も食べた! 半分!」


「半分?」


「もう半分は地面に落ちたのよ!」彼女は当然のように言った。「三秒ルールなのに、拾うのが遅かったの!」


ルーンは二秒ほど黙った。


それから懐から紙包みを取り出して、彼女に差し出した。


ルナは目を瞬かせた。「何よ?」


「パンだ」


「いらない!」彼女は一歩後ずさった。「私は物乞いじゃないの!」


「二スーだ」ルーンは紙包みを彼女の手に押し付けた。「受け取らないなら借りってことにする。利子付きで、来月三スー返せ」


「火事場泥棒!」


「いるのかいらないのか」


ルナは彼を睨みつけ、それから手の中の紙包みに目を落とした。


パンはまだ温かかった。紙越しにもその温もりが伝わってくる。腹が裏切り者のように、ぐうと鳴った。


「……高利貸し」彼女は小声でぶつぶつ言いながら、それでも紙包みを開けた。


粗塩がまぶされた白パンだった。表面はきつね色に焼けて、カリッとしている。ルナは大きく噛みついた。頬がハムスターみたいに膨らんだ。


「んー……」


「美味いか?」


「普通!」彼女はもごもごと言いながら、もう一口かじった。「超普通!」


ルーンは彼女がかっ込む様子を見て、口の端がわずかに上がった。


「ゆっくり食え、誰も取らない」


ルナは聞いていなかった。三口か四口でパンを平らげて、名残惜しそうに指を舐めた。それからようやく彼を睨んだ。


「何見てんのよ! 人が食べてるところ見たことないの!」


「こんな汚い食べ方は初めて見た」


「あんたねえ——!」


ルナが拳を振り上げたが、ルーンはあっさりとかわして、本館に向かって歩き出した。


「三スー、忘れるなよ」


「この吸血鬼! 搾取者! 資本家!」


ルーンは手を振って、振り返らなかった。


背後からルナの怒鳴り声と、子供たちの笑い声が聞こえた。


ふと思った。今日の陽射しは、さっきより少し暖かい気がする。


---


神父は書斎で待っていた。


「四月中旬に開業ですか?」神父はペンを置いて少し考えた。「問題ないでしょう」


「では、そのように」


ルーンは書斎を出て、廊下の窓辺に立った。空がゆっくりと暗くなっていく。


装修は順調。日程も決まった。資金も足りている。


あとは腕の良い料理人だけだ。


目を閉じて、深く息を吸った。


本当は、表に見せているほど確信があるわけじゃない。


昨晩、夢を見た。開業初日、店には誰もいなかった。ルーンは一人で厨房に立っていて、鍋の底でスープが焦げ付いていた。焦げた匂いが喉を突いて、息ができなかった。助けを呼ぼうとしたが、声が出なかった。


目が覚めた時、手のひらは冷や汗でびっしょりだった。


でも、あれはただの夢だ。


目を開けて、窓の外に沈んでいく最後の光を見つめた。


あと三ヶ月で、この店は開業する。


あの夢がどれほどリアルだったとしても、笑い話にしてやる。


孤児院の門を出ようとした時、背後から声が飛んできた。


「ちょっと——!」


振り返った。


ルナが中庭に立って、両手を口に当てて叫んでいた。


「三スーは覚えてるわよ! 来月絶対返す! 利子は一厘も多く払わないからね!」


ルーンは薄く笑って、何も言わずに、夕闘の中へ歩き出した。


---


**(本章終)**


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