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第134章 食の砂漠



パリの朝の日差しは穏やかで、通りはもう賑やかになっていた。ルーンはセーヌ川沿いを歩きながら、行き交う人々を眺めていた。


フランスに来てもう数ヶ月。この国の生活リズムにはとっくに慣れていた。


だが一つだけ、どうしても慣れないものがあった――


フランスの食べ物だ。


前世で日本料理や中華料理に慣れ親しんでいたルーンにとって、18世紀フランスの食事は正直言って拷問に近かった。香辛料の使い方は雑だし、野菜は茹ですぎてグズグズ、肉は焼きすぎてパサパサ。そして何より、庶民の食事に至っては「食べ物」と呼ぶのも躊躇われるレベルだ。


街角に小さな屋台があり、痩せた中年男がパンとスープを売っていた。ルーンは近づいて、屋台の品物を見た。


カチカチの黒パン。煉瓦代わりに使えそうなほど硬い。濁ったスープには、何の野菜かも分からない葉っぱが数枚浮いている。いつもの光景だ。


「何かお買い求めですか、旦那様?」店主が訛りの強いフランス語で尋ねた。その目は謙虚で、おどおどしていた。


「パン一つとスープを一杯」とルーンは言った。


店主は手際よくスープをよそい、パンを渡した。ルーンは銅貨を数枚払って、近くの石段に腰を下ろした。


パンを一口齧る。


硬すぎて噛み切れない。しかも酸っぱくて渋い。味なんて全くない。


スープも同じだ。薄くて味がなく、辛うじてお湯と呼べる程度。たぶん塩すら入っていない。


ルーンは無表情で食べながら、別のことを考えていた。


やっぱりな。ここで中産階級向けのレストランを開いたら、かなり儲かるんじゃないか?


この数ヶ月で、パリの食事情は把握していた。貴族には精緻な宮廷料理があるが、値段が馬鹿高くて庶民には手が出ない。一方、平民が食べているのは、こんな喉を通らない黒パンとスープだけ。


その間に、ほとんど選択肢がない。


適度な価格で、味も悪くなくて、雰囲気もそこそこのレストラン。そんな店がないのだ。


もしそういう店を開いて、小金を持っている職人や小商人、下級官吏を相手にしたら……


きっと人気が出るはずだ。前世の知識を活かせば、簡単な中華料理や和食の要素を取り入れることもできる。フランス人が知らない調理法、知らない味付け。それだけで十分な差別化になる。


資金も、やり方次第では何とかなるだろう。


その時、ルーンは店主と隣の客の会話を耳にした。


「……子供が病気になって、医者に診てもらわないといけないんだが……」店主の声は低く、諦めが滲んでいた。


「医者なんて俺たちに呼べるわけないだろ?」客が溜息をついた。「うちもそうだ。女房が三ヶ月も咳をしてるが、我慢するしかない」


「そうなんだよ」店主が苦笑した。「俺たちみたいな小さな商売じゃ、一日稼いだ金も税金で消えちまう。先日も王室衛兵が来て、増税だって言うんだ。俺は……どうすればいいか分からないよ」


「しっ、声を落とせ」客が声を潜めた。「誰かに聞かれるぞ」


「分かってる、分かってるさ」店主が溜息をついた。「でも子供の病気が……はぁ」


ルーンは黙って聞いていた。手の中のパンが、急に飲み込みにくくなった。


彼は店主の忙しそうな姿を見た。痩せた体、日焼けした肌、曲がった背中。長年働き続けても、まともに食べられない様子が一目で分かる。


こういう光景は、この時代では珍しくもなんともない。むしろ当たり前だ。


医療費が払えない。税金が払えない。明日の食事すら保証されない。


そんな人々が、パリの街には溢れている。


ルーンはパンとスープを食べ終えて立ち上がり、屋台の前に歩いて行った。


ポケットを探る。ここ数日、本を売って稼いだ金がまだかなり残っていた。これから色々と金が要るだろうが……まあいいか。


「これ、やるよ」彼はポケットから銀貨を数枚取り出し、屋台の上に置いた。


店主は固まった。「旦那様、これは……多すぎます! もう代金はいただきましたよ!」


「取っとけ」とルーンは言った。「子供の治療費に使え」


「でも……」


「でももクソもない」ルーンは手を振った。「機嫌がいいんだ。多めに払って何が悪い? それに、大きなことをする人間は、こんな小銭なんか気にしないもんだ」


彼は踵を返して歩き出した。


「旦那様! 旦那様!」店主が後ろから叫んだ。その声は涙声だった。


ルーンは振り返らず、そのまま歩き続けた。片手をコートのポケットに突っ込む。中ではまだ小銭や銅貨がジャラジャラと音を立てていた。


数歩進むと、背後から抑えた泣き声が聞こえてきた。


それは成人男性の泣き声だった。堪えているが、感謝の気持ちが溢れ出ている。


ルーンの足は止まらなかった。


自分一人では何も変えられないことは分かっている。一人の善意では、この時代の残酷さは変わらない。


でも少なくとも、少なくとも一つの家族の絶望を減らすことはできる。


それに結局のところ、彼は銀貨数枚でケチケチする人間じゃない。前世も今世も、一つの道理を理解していた――金は稼ぐものであって、節約するものじゃない。


パリの通りを歩きながら、初冬の冷たい風を受けて、ルーンはこれからやるべきことを考えていた。


今はヴィラに会って、あの件を相談しないと。


昨夜の戦闘で分かったことがある。この世界には、自分が思っていた以上に危険な存在が潜んでいる。 猟魔人という組織。吸血鬼を専門に狙う、訓練された戦闘集団。


彼らがどれほどの規模で、どんな目的で動いているのか。それを知る必要があった。


そして、ヴィラならその辺りの情報を持っているかもしれない。


彼の胃が鳴り始めた。


昨夜の 猟魔人との戦闘以来、まともに食べていなかった。吸血鬼は普通の食べ物への需要が減るが、完全に不要というわけじゃない――少なくとも彼のような新生吸血鬼の段階では、まだエネルギー補給が必要だった。


あの黒パンとスープだけじゃ、明らかに足りない。


「まずどこかで何か食べよう」ルーンは決めた。「腹を満たしてから、次の面倒事に対処すればいい」


彼は周囲を見回し、適当なレストランを探した。


この辺りは貴族街ほど華やかではないが、パリでは比較的普通の街区だ。通りの両側には様々な小さな店が並んでいる――パン屋、雑貨屋、仕立て屋、居酒屋……


看板を掲げた店もあれば、ただ軒先で商売している店もある。人々の服装も様々で、立派なコートを着た商人もいれば、つぎはぎだらけの服を着た労働者もいる。


ルーンの視線が、比較的きれいそうな小さなレストランに止まった。窓ガラスが磨かれていて、中には数組の客が見える。少なくとも、さっきの屋台よりはマシな食事が出てきそうだ。


そちらに向かおうとした瞬間、見覚えのある人影が目に入った。


ダークグレーのロングコートを着た、背の高い男が向こうの通りから歩いてくる。


ルーンの動きが止まった。


昨夜のあの 猟魔人だ!


首領と一緒に現れた、あの男の 猟魔人!


距離は約五十メートル。相手はまだこちらに気づいていない様子だ。普通に歩いている。武器を抜いている様子もない。


だが、油断はできない。


昨夜の戦闘で、彼らの実力は十分に分かった。訓練された動き、的確な判断、そして吸血鬼に対する深い知識。


もしここで鉢合わせたら――


いや、鉢合わせる前に、どうするか決めないと。


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