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第116章 転機



「国王陛下直々の親書だと……?」


フィオナが眉根を寄せながら、赤い法衣に身を包んだ聖職者へと視線を向ける。


「一体どんな内容なの?」


「申し訳ございません、詳細は存じ上げません」


聖職者が恭しく頭を下げた。


「ただ、デュヴァル様はこれは極めて重大な案件であり、一刻も早くルーン・ウィンスター様にお会いしなければならないと仰っておりました。それと……」


言葉を濁す聖職者。


「何か他にも?」


中年の騎士が問い詰める。


「はい……もう一方、大変な御身分の方もお見えになっております」


「大変な御身分?」


「密信会のマルゼルブ様でございます」


その名を聞いた瞬間、フィオナと中年騎士の表情が一変した。


マルゼルブ——国王が最も信頼を寄せる側近の一人。何年も前に表舞台から姿を消したはずの人物が、なぜ今ここに?


「……通して」


フィオナが短く告げる。


聖職者が一礼して退室すると、間もなく扉が再び開いた。


シルヴィアとデュヴァルが入室し、その後ろから白髪交じりの長身の老人が続く。深い紺色の長衣を纏い、腰には古びた佩剣。年齢を重ねているはずなのに、その双眸は鷹のように鋭い。


前内務大臣にして、現密信会の中核を担う人物——マルゼルブその人だった。


「フィオナ隊長、お邪魔するよ」


落ち着いた、しかし力強い声。


「マ、マルゼルブ様! なぜあなた様がこのような場所に……!」


フィオナが慌てて立ち上がり、深々と頭を下げる。


「この若者を引き取りに来た」


マルゼルブの視線がルーンへと注がれる。その目には明らかな審査の色が浮かんでいた。


「君がルーン・ウィンスターだね?」


「は、はい……」


ルーンは頷いたものの、頭の中は混乱していた。


マルゼルブ? 密信会? 一体何なんだ、これは……?


「マルゼルブ様、しかしこの者は反乱派との繋がりが疑われており、現在尋問の最中で——」


「承知している」


フィオナの言葉を遮り、マルゼルブは懐から一通の文書を取り出した。


「だが今、国王陛下には彼の力を必要とする、より重要な任務がある。これが陛下の親書だ」


フィオナが恐る恐る文書を受け取り、内容を確認する。


王室の印章。そして確かに国王の直筆署名。


内容は簡潔だった——『ルーン・ウィンスターを一時的に密信会の管轄下に置く。尋問は全て保留とする』


「ですが——!」


中年騎士が抗議の声を上げかける。


「聖堂騎士団が独立した組織であることは重々承知している」


マルゼルブが穏やかな口調で制した。


「だが、これは国王陛下御自らが下された命令だ。フィオナ隊長、調査を続けるのは構わない。しかし真相が明らかになるまで、この若者は密信会が一時的に保護させてもらう」


一拍置いて、二人の騎士を見据える。


「もちろん、彼がオルレアン派の人間だという確たる証拠があれば、即座にここへ送り返そう。だが現状は……」


視線がテーブル上の記録簿へ。


「君たちが持っているのは『疑惑』だけだろう?」


「……っ」


フィオナが唇を噛む。


言い返せなかった。確かに決定的な証拠などない。間接的な手がかりと推測だけ。


そして何より——国王の親書がある以上、逆らえるはずもない。


「……分かりました」


「賢明な判断だ。ただし、フィオナ隊長」


マルゼルブの表情が僅かに引き締まる。


「もし本当に彼がオルレアン公爵の反乱派と繋がっているのなら、騎士団が黙っていないことは理解している」


「当然です。もし証拠が上がれば——」


「その時は私自ら、火刑柱まで連れて行こう」


そう言い切ると、マルゼルブはルーンへと向き直った。


「さあ、行こうか。若者よ」


ルーンはフィオナを、それからシルヴィアとデュヴァルを見た。


シルヴィアが小さく頷き、目配せでついて来るよう促す。


「……はい、閣下」


深呼吸して、ルーンは立ち上がった。


◆ ◆ ◆


尋問室を出た瞬間、ルーンの全身から力が抜けた。


顔に降り注ぐ陽光。あの息苦しい圧迫感が嘘のように消え去っていた。


「ありがとうございます……お二人がいなければ、僕は——」


「礼を言われる筋合いはないさ」


デュヴァルが首を横に振る。


「マルゼルブ様が君に会いたいと仰ったんだ。俺たちは伝言役に過ぎない」


「マルゼルブ様が……僕に?」


白髪の老人を見上げるルーン。


「馬車で話そう」


マルゼルブが外に停めてある地味な黒塗りの馬車を指差した。


「ここは話をする場所じゃない」


四人が馬車へ乗り込む。


車内は意外と広く、座席には柔らかいクッションが敷かれている。カーテンはぴったりと閉じられ、外の様子は一切見えない。


馬車がゆっくりと動き出し、聖堂騎士団本部から離れていく。


「さて……」


向かいの席に座ったマルゼルブが、じっとルーンを見つめる。


「これでゆっくり話ができるね」


「あの……閣下は、なぜ僕を助けてくださったんですか?」


思い切って、ルーンが単刀直入に尋ねた。


「助ける?」


マルゼルブが小さく笑う。


「勘違いしないでくれ、若者よ。私は君を『助け』に来たわけじゃない。『勧誘』しに来たんだ」


「勧誘……?」


「そう。二日前、例の使節団事件が解決した。デュヴァルから君の活躍について詳細な報告を受けてね」


マルゼルブが一拍置く。


「君の推理力、観察眼、そして冷静な判断力……どれも素晴らしかった。デュヴァルは君を強く推薦してくれたよ。『自分が見た中で最も将来性のある若者だ』とね」


視線を感じて、ルーンがデュヴァルを見る。彼は無言で頷いた。


「それで……僕に何をさせたいんですか?」


「その前に」


マルゼルブが逆に問いかける。


「君は『密信会』を知っているかね?」


「いえ……」


首を横に振るルーン。


「密信会——国王陛下が秘密裏に設立した情報機関だ。メンバーは全員、王室に絶対の忠誠を誓うエリートたち。我々が扱うのは……表に出せない案件ばかりさ」


マルゼルブの目が細められる。


「潜在的な反乱分子の監視。朝廷内部の腐敗調査。そして……王国にとって重要な機密の保護」


「そして今」


声のトーンが一段と低くなる。


「我々が追っているのは、極めて重大な案件だ。オルレアン公爵とその娘ヘレナが、密かに反乱を企てている。彼らは旧勢力に忠誠を誓う貴族たちのリストを強奪し、武器を備蓄し、国王陛下の転覆を目論んでいるんだ」


ルーンの心臓が跳ねた。


これって……さっきフィオナが尋問で言っていた内容そのままじゃないか!?


「我々には有能な人材が必要だ」


マルゼルブが続ける。


「危険な場所へ潜入し、情報を収集し、必要な時には的確な判断を下せる人間が。そして君は……」


鋭い視線がルーンを貫く。


「使節団事件で見せた能力が、君こそが我々の求める人材だと証明してくれた」


「で、でも……僕はただの夜警で……」


「ただの?」


マルゼルブが声を出して笑った。


「使節団事件を解決できる人間が『ただの』だと? 若者よ、自分を卑下するものじゃない」


そう言って、懐から小さな手帳を取り出す。ページをめくり、ルーンを一瞥してから読み上げ始めた。


「十月十七日——ルーン・ウィンスター、シャトレ監獄にて推理により使節団事件の核心に迫る。偽使節団の真の狙いは王室旅行文書であり、外交書簡ではないと看破」


「同日——ヴァンセンヌ城に重要な囚人が収監されている可能性を指摘。調査官の捜索範囲絞り込みに貢献」


「十月十九日——事件解決。偽使節団、兵器工場にて全員逮捕」


手帳を閉じ、マルゼルブが微笑む。


「デュヴァルの報告は実に詳細でね。君の推理の一歩一歩、判断の一つ一つ、全て目を通させてもらった」


背筋に冷たいものが走る。


ずっと……監視されていたのか?


「な、なぜ僕なんかを……? 僕はただの——」


「小物? 違うな」


マルゼルブが遮る。


「デュヴァルが推薦したからだ。彼が『自分が見た中で最も優秀な調査員だ』と太鼓判を押した。そして密信会は、まさにそういう人材を必要としている」


一拍。


「もちろん、我々が君に注目したのは主に使節団事件の期間中だ。その後のことについては……」


マルゼルブの目が僅かに細められる。


「例えば、君が孤児院を訪れたこと。キラという女との揉め事。それも全て把握している」


ルーンの心臓が跳ねた。


キラのことまで!?


「あの夜……突然現れた城防軍も」


恐る恐る尋ねる。


「あれも、あなた方の……?」


「聡いな」


マルゼルブが満足げに頷いた。


「その通り。我々の差し金だ。キラとその背後にいる『ミラクル・ガーデン』——あれは危険な組織でね。将来有望な若者を脅かすわけにはいかなかった」


ルーンが息を呑む。


「じゃあ……三日前の孤児院襲撃事件も?」


「ああ、知っている」


マルゼルブが淡々と答える。


「そして君が『血族』に救われたことも、な」


車内が静まり返った。


心臓の音が耳に響く。


ヴィラのことまで……!?


「そんなに緊張しなくていい」


マルゼルブが穏やかに言った。


「赤月の女伯爵ヴィラ——古き血族の末裔だね。彼女はパリに数十年住んでいるが、一度たりとも人間を傷つけたことはない。実に控えめに暮らしている」


視線がルーンを捉える。


「密信会の方針は単純だ——秩序を乱さず、無辜の民を害さない限り、血族であろうと我々から手を出すことはない。ヴィラはその条件を満たしている」


「じゃあ……彼女に危害を加えることは……?」


「ないさ」


即答するマルゼルブ。


「むしろ、君を救ってくれたことに感謝すべきだろう」


だが、次の瞬間——


「ただし、若者よ。一つ警告しておく」


声のトーンが変わる。


「あの夜現れた『銀色仮面の刺客』——あれはオルレアン派の人間だ。二度も君を狙った。これは決して偶然じゃない」


「銀色仮面……あなた方は、あいつが誰だか知ってるんですか?」


「ある程度はな」


マルゼルブが頷く。


「我々の情報によれば、銀月魔法を操る刺客——君たちの言う『銀色仮面』は、長年我々が追跡している人物だ」


「最古の記録は二十年前に遡る。当時まだ若かったが、既に悪名高い刺客として知られていた」


「二十年前……!?」


「ああ。その頃、先代オルレアン公爵——現公爵の父親——がまだ存命だった。我々は、銀色仮面がその時代から既にオルレアン家に仕えていたと見ている」


マルゼルブが腕を組む。


「つまり、この刺客はオルレアン家に二代にわたって仕えている可能性が高い。希少な銀月魔法の使い手で、腕は一流、行動は神出鬼没。この数年だけでも、少なくとも十数人のオルレアン家に不都合な人間が彼の手にかかって消されている」


「だが……決定的な証拠を掴めなかった」


ため息をつくマルゼルブ。


「奴は慎重すぎる。痕跡を一切残さない。三ヶ月前の兵器工場襲撃で、ようやく初めて物証を得た——銀色仮面の紋章が刻まれたマントの切れ端だ」


ルーンの全身に鳥肌が立った。


二十年もオルレアン家に仕えてきた刺客……そんな人物が、なぜ自分のような無名の人間を?


「僕には……分かりません」


正直に答えるしかなかった。


「本当に理解できないんです。なぜあんな人物が僕を殺そうとするのか。僕はただの孤児院の夜警で、何の価値も……」


マルゼルブが長い間、じっとルーンを見つめていた。


そして——


「……いいだろう」


小さく頷く。


「今は言いたくないなら、無理に聞き出すつもりはない。誰にだって秘密の一つや二つはあるものだ」

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