溺愛する契約妻との離婚を回避するため、口下手侯爵が記憶喪失のフリをしたところ
「大丈夫ですか、旦那様!?」
「ウォルター様!」
「目を開けてください!」
頭上で心配そうな使用人たちの声が聞こえる。申し訳ないと思う――が、まだだ。まだ目を開けてはいけない。
「あっ、メリル様!」
と、使用人頭が言うのが聞こえてきた。彼は僕の妻メリルに事の次第――僕が階段から転落して気を失ったことを説明している。その途端、心臓がドキドキと高鳴りはじめた。
(うまくいくだろうか?)
正直言って不安は尽きない。成功する保証なんてひとつもない。……だが、やるしかない。
それがこれから先も僕がメリルと共にいられる唯一の手段なのだから。
そう自分に言い聞かせながら、僕はゆっくりと目を開けた。
「あっ、ウォルター様!」
「よかった! 気がついたのですね!」
周囲がざわつく中、一番に飛び込んできたのはメリルの泣き顔だった。大きな瞳一杯に涙をためて、僕のことを見下ろしている。
「――かわいい」
「「「……え?」」」
メリルは本当に、とんでもなくかわいい。心からの思いを込めてそうつぶやくと、メリルだけでなく、部屋中の人間が一斉に戸惑いの声を上げた。
「ウォルター様?」
「一体どうなさったのですか?」
「お気を確かに」
「誰か、お医者様を――」
「ロバート、こちらの美しい女性は?」
困惑している使用人たちをよそに、僕は使用人頭にそう問いかける。彼は「えっ!」と仰天しながら「もちろん、ウォルター様の妻であるメリル様でございます」と説明してくれた。
「僕の妻……? こんなに素晴らしい女性が?」
つぶやきながら上体を起こすと、メリルがそっと背中を支えてくれる。……嬉しい。本当は今すぐに抱きしめたい。
(いや、思うだけじゃダメだ)
なんのために、こんな嘘を吐くことにしたんだ? 今動かなければ――言わなければなにも変わらない。
心のなかで葛藤すること五秒間、僕はメリルを抱きしめた。
「ど、どうしちゃったんですか、ウォルター様!?」
僕の腕の中でメリルが声を上げる。周囲で使用人たちが「転落のせいで記憶が混濁しているのでは?」とか「奥様だけを忘れてしまったのでは?」と口々に考えうる理由を挙げてくれた。
(そう……それでいい)
僕はメリルを忘れてしまった――どうかそう判断してほしい。
口下手な僕がこれまでの歪な夫婦関係を精算して、もう一度彼女と一からやり直すには、こうするしかないのだから。
***
話は五年前に遡る。
僕――ウォルター・フィッツロイは二十歳のときにフィッツロイ侯爵家当主となった。先代が急病により亡くなったためだ。
元々僕は当主を継ぐ予定がまったくなかった。なぜなら僕は父と身分の低い女性との間にできた子どもであり、正妻との間に生まれた弟のリーマスが次期当主と決まっていたからだ。
けれど、父が亡くなった時点でリーマスはまだ十三歳。とてもじゃないが当主を務めることはできない。
おまけに、我が国では先代が亡くなってから半年以内に成人男性が爵位を継ぐ必要があったため、弟が成人するまでの間は僕が当座の当主を務める必要があった。
かくして、しがない文官として一生を終えるはずだった僕の人生がガラリと変わった。
慣れない仕事に忙殺され、当主としてのプレッシャーに押しつぶされ、義母の顔色をうかがいながら生活をする日々。正直言って苦痛だった。
けれど、なにより大きく変わったことは、当主を継いで数カ月のうちに、僕のもとに驚くほどたくさんの縁談が舞い込んできたことだ。
『ぜひうちの娘と結婚してください』
『娘が侯爵様を慕っておりまして』
自覚はなかったものの、僕はある程度容姿が整っているらしい。爵位を得たことで、これまで僕を結婚相手の候補から外していた高位貴族から、ぜひにと手紙が来るようになった。
それだけならまだいい。
僕を使って侯爵家を自分の懐に取り込みたい――そういう思惑を持つ有力貴族が、縁談を持ちかけてくるようになった。
『うちの娘と結婚してくれたら――我が家なら、弟さんが成人して以降もあなたを侯爵家当主に据え置いてあげられますよ』
『一度手に入れた権力を手放すのは惜しいでしょう?』
彼らはそう僕にささやきかけてきた。こう言えば僕が縁談に応じると思われたらしい。
当然、義母は焦った。このままでは自分の息子――リーマスの未来が奪われてしまう。
そうして義母は、僕の結婚相手を急いで見つけてきた。
侯爵家を乗っ取るような力を持たず、侯爵家の当主の妻として恥ずかしくない家柄の女性――それがメリルだった。
メリルは義母の遠縁の娘で、古くから続く名家出身だ。けれど、家はすこぶる貧乏で政治的な力は皆無――つまり、侯爵家にとってとても都合のいい結婚相手だった。
『リーマスが成人するまでの五年間、ウォルターと夫婦として生活をしてちょうだい』
義母はメリルにそう要請した。
結婚の見返りに、メリルの実家への支援と、離婚後の生活を保証すると約束して。
こうして、僕はメリルと結婚することになったのだった。
***
「ウォルター様がわたくしを忘れてしまったの?」
メリルはそうつぶやきながら、僕のことをじっと見つめている。悲しそうな表情――いや、僕の願望でそんなふうに見えているのかもしれない。僕は思わず「すまない」と返事をした。
「それにしても、こんなにも美しい女性が僕の妻なのだろうか? ……本当に?」
言いながら、心臓がバクバクと鳴り響く。……どうか『そうだ』と肯定してほしい。契約で仕方なく一緒にいるとか、政略結婚だと返事をされたら悲しくなる。それが僕たちの実態だとわかってはいるが……。
「ええ、そうですよ」
願いは届き、メリルはあっさりとそう口にして笑ってくれた。
「……かわいい」
本当に。なんてかわいいのだろう。
これまで――この五年間言えずにいた本音をここぞとばかりに吐き出し、にやけた口元を手のひらで隠す。
鮮やかな桜色の瞳に、雪のように真っ白な肌、頬や唇は薔薇色に染まっていてあまりにも愛らしい。色素の薄い滑らかで美しい髪の毛に、折れそうなほど細く小さな体。けれどその中には春の日だまりのような温かくて大きな心が収まっており、僕の心を捕らえて離さない。
メリルは本当に愛らしくて優しい、素晴らしい女性だ。
それなのに、口下手な僕はこれまでメリルとまともに会話すらできなかった。必要最低限しか口をきかず、目を合わせることすらうまくできない。ともすれば『嫌われている』と受け取られても仕方のない行動だ。
けれど、メリルはそんな僕をおおらかな心で接し、受け入れてくれた。僕の態度を咎め正そうとする使用人たちにも『大丈夫だから』と微笑んでくれた。
そんな態度しか取れなかった過去の自分を愚かだと思うし、どうしようもないという自覚はある。
だからこそ、僕は自分を変えたかった。
メリルを忘れたふりをして、もう一度一から彼女との関係をやり直す。そうして、素直な気持ちをメリルに伝えたいというのが、僕が一世一代の嘘を吐くことにした理由だった。
「ウォルター様からそんなふうに言っていただける日が来るなんて……嬉しいです」
メリルはそう言って花のように笑った。そっと細められた瞳が、弧を描く唇が、あまりにも美しい。
「ロバート、僕のこのあとの予定は?」
「今日は――お仕事の予定は何も入っておりませんが」
僕の質問に使用人頭がそうこたえる。……実は少し前から、密かにスケジュールを調整してきたのだ。けれど、僕は知らんぷりをして「そうか」と相槌を打つ。
「それなら、これから街に出かけないか?」
「え? 街に、ですか?」
メリルは目を見開き、僕のことをまじまじと見つめた。
「ああ、君のことをもっとよく知りたいんだ」
「けれどウォルター様、体は大丈夫なんですか? どこか痛むところは? お医者様に見ていただいたほうが……」
「平気だ。ピンピンしている」
食い気味にそう返事をし、メリルの手をぎゅっと握る。
僕たちの契約終了まであと数日。それ以降、メリルを僕から縛るものは何もなくなってしまう。このままではメリルは僕の元からいなくなってしまうだろう。本当に時間がないのだ。
「でしたら、ぜひご一緒させてください」
返事をしながらメリルが笑う。あまりのかわいさに胸がドキドキと高鳴る。
(ああ、なんとかして、メリルを僕のところに繋ぎ止めなければ)
僕は心のなかでそう誓った。
***
意気込んで街に出た――はいいものの、僕は早速困ってしまった。
女性とデートに出かけた経験なんて、これまで一度もない。どこに連れていったら喜んでもらえるのか、どんな会話をすればいいのか、わからないことづくしだ。事前にプランを考えてはいたものの、いざ当日になってみると、自信がまったくなくなってしまう。
「ウォルター様、わたくしあちらのカフェに行ってみたいです」
と、メリルが僕の腕に手を添え、そう口にする。
「そ、そうか。それならメリルの行きたい場所に行こう」
助かった――こっそりそう思いながら、僕らは店へ向かった。
メリルが選んだカフェは、僕が事前にリサーチしていた店と同じだった。どこかレトロな落ち着いた雰囲気の店で、若者よりも年配者に好まれそうな店だ。けれど、コーヒーが美味しいともっぱらの評判だし、古き良きものを愛するメリルにも喜ばれるだろうと思っていたので、同じ店を選んでもらえて内心すごく嬉しかった。
店に入るとすぐ、窓際の席に案内される。僕はメリルをエスコートし、次いで自分の席に座った。
「こうしてウォルター様とお茶ができるなんて夢みたいです」
メリルが笑う。僕はドキドキしつつ、「以前の僕はどんな男だっただろう?」と問いかけてみた。
「そうですね……いつもお仕事で忙しくしていたので、ゆっくりお茶を楽しむ時間なんて取れないご様子でした。だけど、いつも私のために、いろんな産地から取り寄せた茶葉やコーヒー豆を用意してくれましたし、お茶菓子も季節に合わせてレシピを変えるよう使用人に指示してくださっていたんです。それも、ご自分で資料を取り寄せて、選んでくださっていたんですって」
「え? そ、そうだったのか……僕がそんなことを?」
返事をしながら、段々と頬が熱くなっていく。
(どうしてバレているんだろう?)
僕が指示をしていたと、侍女たちが伝えたのだろうか? そもそも、そんな内情は屋敷の極一部の人間しか知らないはずで、バレようがないと思っていたのに。
「すっごく優しいですよね」
「いや、そんなことは……」
恥ずかしい。僕を見つめて微笑むメリルから目を逸らしたくなる。
(いや、ダメだ)
それではメリルのことを忘れたと嘘を吐いた意味がなくなってしまう。僕は必死にメリルを見つめ返し、口角をあげた。
「だけど、メリルにそう言ってもらえて嬉しいよ」
そう返事をしたら、メリルはとても嬉しそうに笑ってくれた。
カフェを出たあとはメリルが新しい服を見たいと言うので、僕たちは店へ向かった。
「わたくしのお洋服は、いつもウォルター様が選んでくださっているんです。今着ているこちらのドレスも、ウォルター様からの贈り物なんですよ?」
「そ、そうなのか?」
返事をしながら思わず目が泳いだ。
おかしい。確かにメリルの服は僕が贈るようにしていたが、そんな裏事情を一体誰に聞いたのだろう?
「その……嫌じゃなかっただろうか? 本当は自分で選んだ服のほうがよかったのでは……」
「いいえ。わたくしには好みというものがあまりありませんし、結婚前は貧乏な生活を送っていましたから。ほんの数着、着心地のいい服があればそれでよかったんです」
「そうか」
メリルは実家では食うに困ることも多かったようで、結婚当初、ドレスは本当に数着しか持っていなかった。僕に嫁いでからも新しい洋服を欲しがることはなく、ならば……と僕からドレスを贈ることにした。
『こんな素敵なドレス、わたくしが着てもいいのですか?』
驚きながらも喜ぶメリルがかわいかったし、僕が選んだドレスに身を包んだメリルはたまらなく愛しかった。次はどんな服を着てもらおうか想像するだけで楽しくて、いつしか毎月デザイナーを執務室に呼び寄せ、ドレスを選ぶのが僕の趣味になっていた。もちろん、そんな事情はメリル本人に伝えられるわけもなく、使用人が勝手に発注をしていると説明がなされているものと思っていたが……。
「……けれど、ウォルター様がわたくしのために一生懸命悩みながらドレスを選んでくださったから、最近はオシャレが楽しいと思えるようになってきたんです」
メリルが言う。僕は思わず目を見開いた。
「悩んでなど……」
いない、と言いかけて、急いで口をつぐんだ。
この嘘がバレるわけにはいかない。元の口下手で冷たい夫のままだとわかったら、契約が終わり次第メリルは僕の元からいなくなってしまうだろう。僕はグッと拳を握った。
「いや、きっと以前の僕は着飾ったメリルを見るのが好きで、楽しくて、それでドレスを選んでいたんじゃないだろうか?」
――本当に、僕はただただ嬉しくて、楽しかったんだ。
次はどんな色合いのドレスにしようとか、生地の素材や触り心地、それからメリルの笑顔を想像しては、幸せな気持ちに包まれた。
『ウォルター様、新しいドレスが届いたので着てみたのです。似合っていますか?』
『……ああ』
ドレスが届くたびに僕に報告をして、着て見せてくれるメリルが大好きだった。気のきいた返事なんて一切できなかったけれど、それでも僕は嬉しかったんだ。
「わたくしもそう思います。それで今日は、ウォルター様に一緒にドレスを選んでほしいなって思って、誘ってしまいました」
「……そうか」
返事をしながら、目頭がグッと熱くなる。
こんな僕を受け入れてくれるメリルのことを、僕はどうしようもなく愛していた。けれど、そんな優しさに甘え続けるわけにはいかない。もうすぐ彼女を縛る契約はなくなってしまうのだから。
(変わらなければ)
そう思ったその時、メリルがそっと僕の手を握った。心臓がドキッと大きく跳ねると同時に、体中の体温が沸騰したかのように熱くなる。
「せっかくのデートですから。……嫌ですか?」
「そんなまさか! その……嬉しいよ。すごく」
ダメだ。今は自分で自分をコントロールできない。メリルがこちらを見ているとわかっているのに、顔がニヤけるのを抑えられずにいる。
「ウォルター様、なんだかかわいいです」
「かっ……!? 僕は君にかっこいいと思われたいのに」
思わず唇を尖らせると、メリルはクスクスと笑い声を上げた。
「大丈夫、かっこよくて、かわいいですよ」
そう言って目を細めるメリルに、なんだか無性に泣き出したい気分に駆られる。
(メリルが僕のことを好きになってくれたらいいのに)
そう思わずにはいられなかった。
メリルと一緒に過ごす時間は、驚くほど早く過ぎていった。
どこに行っても、なにをしても楽しかったし、メリルは嬉しそうに笑ってくれた。この五年間温めてきた、メリルとしてみたかったことを時間が許す限りして、僕たちは屋敷に帰った。
「今日は一日楽しかったです」
僕の部屋の前でメリルが笑う。
契約結婚である僕たちは、互いの私室に入ったことがない。契約期間中は子を作らない、という約束になっているし、そもそもそんな関係を築けていないのだから当然だ。
けれどきっと、メリルの私室はメリル自身のようにかわいいだろうし、彼女の甘い香りで包まれているのだろう。僕にはただ、想像することしかできないけれど――。
「おやすみなさい、ウォルター様」
「ああ、おやすみ」
僕はそう言ってメリルを見送った。
***
その日以降、僕はできる限りメリルと過ごす時間を増やした。これまでなら伝えられずに飲み込んできた気持ちをできる限り言葉にし、メリルにぶつけてみた。そのたびにメリルは「ありがとうございます」と笑ってくれたけれど、実際のところ僕のことをどんなふうに思っているかはわからない。
と同時に、僕は多忙を極めていた。
「兄さん、引き継ぎの資料のことなんだけど」
「……ああ」
あとほんの数日で、弟のリーマスが成人する。そうすれば侯爵位はリーマスのものだ。
彼の誕生日当日は夜会を開き、そこで盛大に当主交代を祝うことになっている。
――つまり、その日がメリルと僕のタイムリミットだ。
(時間がない)
本当は、もっと早くにこうすればよかったのだろう。しかし、失われた時間は戻ってこない。残された時間、努力するしかないのだ。
「ねえ、俺に当主の座を譲ったあとはどうする気なの?」
リーマスがそう尋ねてくる。僕は資料をめくりながら、ちらりとリーマスを見た。
「王都にある侯爵家名義の屋敷を一つもらって、文官に戻るよ」
それこそが、僕が元々予定していた人生だ。父さえ早死にしていなかったら、僕はただの文官として、メリルに出会うこともなく王都で暮らしていただろう。
「それじゃあ義姉さんのことは? どうする気?」
リーマスがまた質問を投げかけてきた。こたえようとして――けれどなんと返せばいいかわからず、僕は押し黙ってしまう。そんな僕を見かねてか、リーマスはさらに質問を重ねてきた。
「ロバートから兄さんたちの結婚の経緯は聞いた?」
「ああ」
記憶を失ったふりをした翌日、使用人頭のロバートからメリルとの契約結婚について説明を受けた。他人から聞く僕たちの状況というのは中々に歪で、聞いててとても苦しくなった。
と同時に、誰も僕が記憶を失ったという話が本当か疑わなかったことに、僕は心底驚いていた。どうやら僕のメリルに対する態度があまりにも違うので『間違いない』と断定されてしまったらしい。
「ねえ、このままじゃ義姉さんは兄さんの元から離れていってしまうんじゃない?」
「……わかっている。けれど、元々そういう契約だろう?」
自分で言ってて悲しくなる。
名家の侯爵だから。
お金を持っているから。
契約があるから。
だから今は僕と結婚をするメリットがある。
だけど、もうすぐ僕はそれらすべてを失ってしまう。
(本当は僕についてきてほしい)
そう伝えられたらいいのに、まったくもって自信がない。今はまだ、断られる未来しか見えない。
「それじゃあ俺が義姉さんに求婚してもいいって――そういうことだよね?」
「……は?」
リーマスはそう言い残すと、執務室から出ていってしまった。
(リーマスがメリルを?)
そんなこと、ありえない――とは言えない。
メリルはリーマスをとてもかわいがっていたし、リーマスはリーマスで彼女によく懐いていた。加えて、メリルは侯爵夫人としての役割を立派に果たしてくれたし、男ならばメリルに惹かれるのは当然のことだ。メリルのほうが五歳年上だなんて些細なこと、なんの障壁にもならない。
(メリルが他の男のものになる)
そんなこと、考えたこともなかった。僕が心配していたのはもっぱら、メリルが僕の元からいなくなってしまうことで、その後に別の誰かがメリルを――なんてことは思い至らなかったのである。
(嫌だ)
苦しくて、気持ち悪くて、体をかきむしりたいような衝動に駆られた。
心優しいメリルのことだ。きっと誰と結婚しても、その人を春の日だまりのような温かさで包み込むのだろう。僕にそうしてくれたように。
リーマスと結婚したほうがきっと、メリルは幸せになれるだろう。僕なんかと結婚するより、よほど。
(嫌だ)
嫌だ。
嫌だ――。
胸が苦しくてたまらなかった。
***
あっという間に契約の履行期限――リーマスの誕生日が来てしまった。
その日は僕もメリルも朝から準備に奔走し、ようやく会えたのは夕方のこと。夜会の準備が整った後のことだった。
「ウォルター様」
プラチナシルバーのドレスに身を包んだメリルが、笑顔で僕のことを出迎えてくれる。
「メリル、綺麗だ」
本当に、涙が出そうなほど美しい。
メリルはクスクス笑いながら「ありがとうございます」と返事をした。
「新しいドレスや宝飾品をありがとうございます。どれもとても素敵で、すごく気に入ってしまいました」
「それはよかった」
メリルに僕を覚えていてほしい――そんな気持ちを込めて、僕は今夜のドレスを選んだ。僕の髪と同じ色のドレスに、瞳の色の宝石。そんなものにはなんの意味もないかもしれないけれど、それでも。
「ウォルター様、わたくしたちは二人でたくさんの夜会に出席したんですよ。ウォルター様は夜会が大好きで」
(違うよ)
僕が好きなのは夜会じゃない。メリルだ。
夫婦として夜会に出席すれば、思う存分着飾ったメリルを堪能できる。ずっとメリルの隣りにいられる。ダンスを踊れば、メリルに触れること、見つめ合うことができる。周囲に『夫婦』だと見てもらえる。
だから僕はできるだけ夜会に出席してきた。ただただ、メリルと一緒にいたかったから。それが僕の願いだったからだ。
「行こうか」
「はい」
いつものように、メリルが僕の腕を取る。泣き出しそうになるのを必死でこらえながら、僕は夜会会場へと向かった。
会場はお祝いムードに包まれており、たくさんの人々がリーマスの元に集まっていた。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます、フィッツロイ侯爵」
飛び交う祝福の言葉。笑顔を浮かべるリーマスのことを、メリルが微笑みながら見つめている。
(リーマスはもう、メリルに想いを伝えたのだろうか?)
考えながら、胸がチクチクと痛む。
僕だって記憶を失ったと嘘を吐いたあの日から、ずいぶんと自分の気持ちをメリルに伝えられるようになった。
かわいい。
綺麗だ。
嬉しい。
楽しい。
幸せだ。
けれど、本当に言うべきことはずっと、胸の奥にしまい込んだまま。言葉にできないままでいる。
(メリル、君を愛している)
どうしようもないほど、君が愛しい。
そう伝えられたなら、どれだけよかっただろう?
ずっと側にいたいと――いてほしいと、そんなシンプルで短い言葉を、僕は口にすることができない。
もどかしくて、情けない。
けれど、これが僕という人間だ。
『記憶を失った』と嘘を吐いて、少しだけ変われた気がしていたけれど、根本的な部分については微動だにしていない。周囲の人間は騙せても、自分自身を騙すことはできない。
招待客と挨拶を交わしながら、僕は必死で自分の気持ちに嘘を吐いた。
苦しくない、辛くない、すべてはメリルのためだ。彼女が幸せになれるなら――
「ウォルター様、踊りませんか?」
と、メリルが僕に声をかけてきた。
これが最後になるかもしれない。もう少しメリルと一緒にいられる時間を引き伸ばしたい――そう思いながらも「そうだね」と僕はこたえる。
僕たちはダンスホールの隅へと移動をした。
手を取り合い、見つめ合い、音楽が鳴りはじめるときを待つ。いつもならば無言の――けれど、とてつもなく幸せなひととき。だが、今夜はメリルがおもむろに口を開いた。
「先ほど『ウォルター様は夜会が大好きだ』ってお伝えしましたけど……本当は違うんです」
「え?」
どういうことだろう? 僕はまじまじとメリルを見つめる。
「わたくしなんです。わたくしのほうがずっと、夜会が大好きだったんです」
メリルはそう言って僕を見上げると、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「だって、夜会の日は、思う存分ウォルター様のことをひとりじめできるから。ずっと見つめ合うことができるから。手を握ってもらえて、抱き寄せてもらうことができるから。だから、いつもすごく嬉しくて……特別だったんです」
「メリル……」
夢だろうか? メリルがそんなことを考えてくれていただなんて、にわかには信じられない。
メリルは意を決したような表情を浮かべると、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「だからわたくしは、今日が最後だなんて嫌です。絶対、嫌です。だって、ウォルター様もわたくしのことを愛してくださっているでしょう?」
メリルが顔を埋めたあたりが、じわりと温かくなっていく。僕の瞳にも涙が滲んだ。
「ウォルター様はずっと、行動でわたくしへの愛情を示してくださっていましたもの。いつだってわたくしのことをたくさん考えて、心からの贈り物をしてくださいました。ずっとずっと、わたくしのことを忘れてしまったと嘘を吐かれるもっと前から、愛されていると感じていましたもの。今更『違う』と言われても困ります」
「……! どうして嘘だと……」
驚きのあまり、僕は思わず『嘘』を肯定してしまう。メリルは少しだけ笑いながら顔を上げると、僕のことをじっと見つめた。
「デートのあと、部屋の前で『おやすみ』と挨拶を交わしたでしょう? あのときに確信したんです。だって、普段わたくしたちが夜をどう過ごしているか、一切お尋ねにならなかったんですもの。もちろん、その前から『嘘』だろうって思っておりましたけど」
「メリル……」
「わたくしは――ウォルター様のお部屋に入ってみたかったのに」
泣きぬれた瞳に赤く染まった頬で、そんなことを言われた日にはたまらない。
「メリル、それは反則だろう……!」
今すぐ夜会会場から抜け出したくなってしまう。心のなかで苦悶の叫びをあげる僕をよそに、メリルは意地悪く微笑んだ。
「反則上等です。これから先もウォルター様と一緒にいるためなら、なんだってします」
これから先も一緒にいたい――そう思っているのは僕だけじゃなかった。そのことがあまりにも嬉しい。けれど――
「メリル、僕は今日を境に地位も名誉も財産も失ってしまうし、君を縛り付ける契約だってなくなってしまう。おまけにとんでもない口下手で、君への想いを半分も伝えきれないようなどうしようもない愚か者だ。……それでも、僕と一緒にいたいと思ってくれる?」
本当に、僕でいいのだろうか? 後悔はしないだろうか?
不安と期待を胸にそう尋ねれば、メリルは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! わたくしはそんなウォルター様が大好きなんです」
一番伝えたかった言葉が――五年間温めてきた想いが溢れ出す。嘘を吐いてもなお、言葉にできなかった大事な大事な想い。僕はメリルの額にそっと口付ける。
「メリル、僕は君を愛している」