8話 恋は必須ですか?
『人を愛したことのない残念な人』
なんとひどい言葉だろう。
いや、辛辣と言えるのでは?
どんなに親しい仲であっても決して口に出してはならない部類だ。
レイチェルは私が少なからず衝撃を受けたと確信したのか、さらに続ける。
「ローザさんは誰かに熱烈に愛されたり、誰かに恋したことなんてないでしょう? ずっとエクセターの公爵令嬢でしたものね。アーチはあなたのことは政略結婚の相手としか思っていなかったと言っていたわ。あなたはただの都合の良い人形だったって」
私は声も出なかった。
(図星ね、痛いところついてくる)
レイチェルは間違ってはいないのだ。
アーチボルトとの結婚は政略的なものだし、恋愛という面に関しては全くその通り。
幼い頃からアーチボルトの婚約者と見られていた私は、身を焦がすような恋愛とは無縁だった。機会も必要もなかったからだ。
(恋愛よりも事業や家門を維持することの方が大事だもの)
ーーーー優先せねばならないのは家門の利益。
そう教育されてきた。
名門貴族としては正しい認識だから。
だけど。
真正面から現実を突きつけられると心が落ち着かないのはなぜだろう。
レイチェルは両手を胸にあて、
「愛を知らない人は心が乏しい人です。そんな人は他人の真心を信じることはできないし、信用も置けません。ローザさん、あなたのことビジネスの相手としては尊敬しているけど、女性として、いいえ、人として淋しい人だと思っています」
「レイチェルさん。黙って聞いていたけれど、失礼にも程があるのではないかしら。あなたにそこまで言われる筋合いはないと思うのだけど」
「いいえ、あります。だってローザさんにも裏心があってのこの契約なのでしょう? それなら私の気持ちをお伝えする権利はあるはずです」
私だけ損するのは不公平だわと捨て台詞を残してレイチェルは席を立った。
足早に館へ戻る背中を見送りながら、私はため息をついた。
(なんて気の強い人……)
自分が正しく、間違いがないと信じている。
独善的ではあるけれど、だからこそ強い。
貴族制度のない国の女性は、こうも逞しいのか。
気弱なところもあるアーチボルトでは一生尻に敷かれそうだ。
「あの……お嬢様……」
事務官がおずおずと声をかけてきた。
彼らは気まずそうに身を縮こませている。
雇い主の醜聞とまではいかないが、私的な争いを目にすることになったのだ。
気の毒なことをしてしまった。
「ああ、ごめんなさいね。見苦しい姿を見せてしまったわ。もう事務所に戻っていいわよ。さっきの件、契約書のたたき台を作っておいてくれる? 後で確認するから」
私は苦笑し、すっかり冷めた紅茶をすすった。
◆◆◆◆◆◆
レイチェルの嵐のような来訪から数日。
端正な顔から放たれた『あなたは淋しい人だ』という一言が私を悩ませることになった。
忙しくしている時はいい。
ふと手を止めた時や一人の時に頭をもたげてくる。
そうか。
私は愛を知らない寂しくて残念な人なのか。
だけど恋愛をしないとどうしてダメと思われるのだろう。
私だって興味がないわけではない。
いつかそういう相手と巡り合うこともあればいいなとうっすらと考えることもある。
ただ。
それは今ではない。
いつか、だ。
今すべきことは家業の利益を守ること。
公爵令嬢のローザ・ヴァーノンとして生きることであって、ローザとして幸せになることではないのだ。
わかっている。
なのに、なぜこんなにも悩むのだろう……。
(考えても仕方ないわ)
目の前の仕事を片付けることに集中しなくては。
私は再び書類に目を落とし、ペンでチェックを入れていく。
我が家と王家間の婚約を契機にした合同事業は、数年にわたり検討に検討を重ねたものだ。
それを水面下で、しかも数ヶ月でエクセターに移譲せねばならない。
容易いことではないだろうが、エクセターの事務官達は優秀だ。
特に問題なく解決するだろうと考えていたが……。
(甘かったわ。王室との事業はお父様が直接関わってるから、書類に抜けがない……これでは誤魔化しようがないわ)
我が父は商売の才能に関しては疑う余地もなく、天才だ。
お父様が練りに練ったプランは経営の教科書にしていいほどに整っている。
こうしてお父様の足跡を辿るだけでも、その才能の大きさが身に染みてくる。
「うーん。困った……」
これを秘密裏に事を行うのは骨が折れそうだ。
(事務官だけでは難儀しそうね。お父様の秘書の協力も不可欠だけど……)
お父様は今は商用で隣国だ。
自分の力でなんとかしなくては。
「今帰ったぞ!」
聞き覚えのある声とともにドアが勢いよく開く。
「騒がしい! 何事で……え?」
振り返るとスエードの旅装のままの白髪混じりの紳士が、微笑んでいる。
「お父様?!」
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吉井です。
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では次回、週末にお会いしましょう。