寄木職人と蝦蟇形の話
栄州の水霊という地にある小さな邑に、吾爾という名の若者がいた。吾爾は手先が大層器用で、寄せ木で小物を作っては、町で売って生計を立てていた。
町と邑の間には深い森が広がっていた。その一帯はしばしば霧が深くなるので、森に入った者がそのまま帰らなくなるのは珍しいことではなかった。しかし邑と町を結ぶ道はその森を通る一本きりで、吾爾は商いに出る度に、そこを行き来せねばならなかった。
吾爾が森を通る度に思い出すのは、そこで迷い込んだきり、とうとう邑に帰らなかった友人の伊里のことである。伊里は櫛職人であった。町に恋仲となった娘がいた。行商の時に知り合った娘である。ある時、縁組みを申し込むと言って邑を出て、それきりだった。後日、吾爾が件の娘にそれとなく訊いてみたところ、この暫くは伊里の姿を見ていないと大層心を痛めていた。縁組みを申し込まれた様子もなかった。それで吾爾は何となく、嗚呼あいつはもう帰ってこないのか、と悟ったのである。霧にやられてしまったのだろう。
望みなどあるはずもないが、娘は伊里を待ち続けた。なまじ伊里が娘を大事にしていたことを知っていただけに、吾爾はどうしても放っておくことができず、町へ出る度になにくれとなく世話を焼いていた。娘が哀れだったのもある。しかしそれ以上に伊里が吾爾の立場であればそうしただろうという確信があった。伊里は気の良い男であった。
その日も、吾爾は作り貯めていた小物を幾つか荷に包み、娘のいる町へと向かうところであった。森を入って少ししてから、いつになく霧が濃くなった。この辺り一帯の天候はころころと変わる。どれほど気をつけていても運が悪ければ目を眩まされてしまう。もうもうと白く煙る霧が晴れる頃には、吾爾は道を失っていた。
一度方角を違えれば、元の道に戻るのは難しい。吾爾が途方に暮れて佇んだ時である。
「何だ何だ、迷ったのかい」
すぐ背後から話しかけてくる者があった。ぎょっとして振り返ったが、人の姿は見あたらない。声だけが尚も吾爾に語り掛けてくるのである。
「右手を見な。そう、そっちだよ。うっすらと獣道が見えんだろ。そこを辿んな」
声は甲高く耳についたが、話しぶりはどこか懐かしいような気を起こさせた。それでこの姿の見えない声に従ってみようかという気になった。
生い茂る草木を手探りで掻き分けながら、およそ道とも言えぬ道をそろそろと進んでいる間、声は賑やかしく吾爾に語り掛けてきた。
先日この森を通った僧侶の霊力が恐ろしく高かったこと。僧侶が言うにはこの森には古い呪いが掛けられており、迷った者が度々別のものへと姿を変えられてしまうこと。仕方ないからこの声が迷った旅人の道案内をしてやって森の外へ送り届けてやっていること。声には大層愛らしい恋仲の娘がいたが、事情があって今はもう会いに行けないこと。故郷の友人が娘の面倒を見てくれているらしいので安心だということ。
先の見えない道中、とにかくあれやこれやと延々話しかけてくるのである。お陰で普通なら心細くなるところを、まるで古い友人と話をしているような気がして吾爾は随分と慰められていた。
「友があいつが娶ってくれりゃあ俺は安心なんだがなぁ。義理堅いが生真面目な男だからきっとそんなこと考えもしねぇだろうよ」
意中の娘の話をしていた声は、ふいにぽろりとそんなことを言った。吾爾は内心ぎくりとした。伊里が生前、自分に万一のことがあったら娘と夫婦になってくれと冗談混じりに言って寄越したのを唐突に思い出したからである。その時はそんなことできるはずがないだろうと一蹴したが、いざ伊里の言葉が現実のものとなってしまった今、やはり娘を娶ろうなどという気持ちはこれっぽっちも湧かないのだった。娘の心は伊里のものである。吾爾にできることはと言えば娘が不自由せぬよう気遣い、その悲しみが癒えるのを見守ることくらいのものだ。
声の話を聞きながら、黙々と言われた通りの道を辿る。どれ程歩いた頃であろうか。唐突に視界が開け、広い沼の前に出た。見覚えのある沼であった。沼の反対に、いつも町へと向かう景色が見えた。
吾爾が沼の周りを辿ろうとした時である。
「おっと、ちょっと待ってくれ」
例の声が吾爾の歩を遮った。
「この辺りだと思うんだけどよ。風呂敷包みが落ちてると思うのさ。そいつを探していってくれないかい」
姿は見えぬが恩人の頼みである。吾爾は一も二もなく頷いた。
声に指示を仰ぎながら言われた通りに辺りを探すと、岸辺に近い沼の縁に小さな風呂敷包みが沈んでいた。見たことのある柄である。
「おお、こいつよ、こいつ」
声が嬉しそうに言った。吾爾は急いで風呂敷包みを引き上げた。見た目も小さければ、持った感触もさほど重たいものではなかった。心臓が早鐘のように鳴っている。
「町に着いたらそいつをお前からだと言って渡してやってくれ。こっからなら、もうお前一人で行けんだろ」
「誰に渡せばいいんだ」
吾爾は震える声で訊ねた。
「何、中を見りゃあわかる。じゃあな。達者で暮らせよ」
声がいとまを告げると同時に、吾爾が背負っていた荷の中から何かがぴょんと跳ね降りた。それは沼にどぼりと飛び込むと、あっという間に水の底に消えてしまった。一瞬だけ見えたその姿は蝦蟇だった。
吾爾が風呂敷を広げると、見覚えのある小箱が顔を覗かせた。汚れてはいたが、間違いなく吾爾が、伊里に頼まれて作ってやったものだった。慌てて中身を確認すると、そこには櫛が収められていた。奇跡とも言うべきか、水は一滴たりとも滲みておらず、櫛は作られたままの美しさを保っていた。
吾爾は困惑した。それは伊里が縁組みを申し込むはずだった娘のために、丹誠込めて作ったものであった。これを自分からなどと偽って渡すことなどできるはずもない。櫛は求婚の品である。
しかし伊里からと言って渡すことも躊躇われた。近頃ようやく笑顔が戻りつつある娘である。形見としてこの櫛を届ければ、娘は再び泣き暮らすであろう。かと言って捨て置くわけにもいかぬ。
伊里は丁寧に箱の蓋を閉めた。水気を拭って荷の中にしまい、どうすべきか迷いながら町へ向かった。
無事に今日の商いを終え、娘の様子を見に立ち寄ったが、結局とうとうあの櫛を渡すことはできなかった。