水道にて
運動部の部室は、グラウンドのネットの外側、普段生徒が使う校舎よりも離れた側にまとめて位置している。
体育倉庫はその連なった部室の奥にあるので、部活動の用具を出したり、靴を履き替える生徒たちの横を通りすぎるようにして、倉庫の方へ向かう。
倉庫の向かい側では、テニス部の男子達が、2面あるテニスコートでそれぞれ球を打ち合っていた。
「ふう」
荷物を戻し終わり、俺は乾いた喉を潤そうと、倉庫近くの水道の方へ歩く。
ここは体育の後に生徒がよく立ち寄っていく場所だ。
そしてそのまま小ホールへ続く、この学校に二つある校舎のうちの小さな方の棟へ入り、途中の売店に寄って何かを買っていくというのがよくある流れである。
なるべく日が当たらない日陰を選びながら寄っていくと、女子たちの話し声が聞こえてくる。
その声たちの主は、俺の向かう水道側にあった。
それでも特に意識する事もなく、そのまま立ち入ろうとしたその時。
「なんでさあ、ウチらがこんな事させられなきゃいけないわけ?」
ハッキリと耳に飛び込んで来たその言葉に、思わず足が止まり、咄嗟にコンクリート柱の陰に隠れる。
そして俺は、何となくこの言葉の意味を察した。
これは、さっきの事なんじゃないか。
となるとこれを話しているのは、自分のクラスの女子たちだ。
柱の陰から少し覗いてみると、名前は分からないにせよ、確かにこの3人には見覚えがあった。
何故ならば、彼女たちは山本の説明中、ずっと疑うような視線を送っていた張本人たちであるからだ。
要するにこれは、愚痴の現場だ。
聞き耳をたてる趣味も興味も無いが、ここから動いて姿を見られるのは何だか気まずいがして、もう少しここに留まるに至った。
「ホントね、正直迷惑だよね。別にウチらは勝ちたいなんか思ってないっての」
こうして愚痴が自分の耳にしっかりと刺さると、何か自分が悪く言われているような、そんな錯覚に陥る。
嫌な心臓の鼓動の速さが、体中を心地悪くさせた。
これは紛れも無い、迷惑とはつまり、山本の事だ。
「楓ちゃんてさ、ちょっと一人で突っ走りすぎだよね」
山本は確か、女友達からは「かえちゃん」と呼ばれているはずだ。
それがわざわざ「楓ちゃん」と呼んでいる所に、すでに彼女との距離感を感じる。
ちゃん付けは時に、友好の証ではなく、相手を遠ざけるためにも使われるのか。
何にせよ、その吐き捨てられた言葉たちには冷たさがあった。
山本にも"ちゃんと"敵がいたのだ。
人間は約2割の人間に好かれ、6割にどうでも良いと思われ、そして2割に嫌われる、というのはどこかで聞いたことがある。
山本ですらその例外では無いのだ。
ルックスに恵まれ、人当たりも良い人気者。
それでも、「誰からも好かれる」というのは彼女でも難しい。
どれだけ自分のステータスを磨いても、それは他人の評価を直接書き換えられものでは無い。
影響を与えこそすれど、誰がどう思うかは、結局その思う人次第という事だ。
右端の女子が、深いため息をつき呟く。
「なんで全員を巻き込む必要があるんだろうね」
その言葉にまるで喉元に刃物を突きつけられたような、そんな不味さを覚えた。
冷たい汗が、シャツの中を流れていく。
何故こうも俺は動揺しているのか。
それはきっと彼女の放った言葉が、自分も同じように思っていた事だから。
その感情とは真逆の、今こうして山本の行動に加担している自分がいる事に改めて気付かされたから。
そしてその感情は、その疑問は、今も確かにある。
そうだ。
俺も本当は、そちら側の人間なのだ。
彼女たちと違うのは、最近俺の身に起きたイレギュラーなイベントだけ。
それに伴って少し変化を見せた俺を取り巻く環境だけ。
だからこそ俺には、彼女たちの思う気持ちがよく分かる。
こんな事、本当はやる必要がない。
勝敗なんて知った事じゃない、別にどうだっていい。
そう思うのは、決して間違いじゃない。
だが集団でもしそういう雰囲気を出すとなると、悪者になるのは彼女たち側の方だ。
やる気がない事の何が悪い。
なぜ自分にとって興味のないものにまで注力しなければならない。
こうして行動をしているものの、本質的に彼女たちの思う所と俺のそれとでは、そう変わらない気がした。
山本に対して個人的な嫌悪は無い。
それでも何だか俺は、完全に山本の方だけを庇う気にもなれなかった。
確かに全員リレーという方針を決めているのは山本の責任では無いが、その方針に沿ってこうして彼女たちのような存在を巻き込もうとしているのは事実なのだから。
「ね、運動部でも無い私たちまでやらなきゃいけないなんてね、別にこれは楓ちゃんのせいってだけでも無いけどさ」
こんな事を思うのは失礼かもしれないが、確かに彼女たちは活発という印象は感じられなかった。
いや俺も人の事言えないけどね。
俺も側から見ればそう見えている事だろう。
文化部か、それとも部活に入っていない子たちだろうか。そう考えるとますます彼女たちへの同情のようなものが生まれる。
自分たちの苦手な事を強いられて、それで楽しむと言ったって無理があるだろう。
大してやりたくも無い事をやらされ、更には迷惑をかける可能性だってある。
本当は必要なかったかも知れないその責任を押し付けられる。
きっとこうした思いを持っているのは彼女たちに限らない。
今偶然こうして露わになっただけで、他にもどこかで同じような話をクラスメイトの誰かがしているかも知れない。
あるいは誰にも口に出す事なく、「空気の読めない奴」「白けた奴」だと思われないように、自分の胸の中だけに留めている誰かだって、いるかも知れない。
その数は決して多数派では無いにしろ、どこかでひっそりとその思いを、見えない様に隠している。
俺の心中は、そんな彼女たちへの理解と、それとは正反対の行動を取っている今の自分と、そして他人の悪口を確かに聞いている居心地の悪さとでごちゃ混ぜになっていた。
一度しっかりと息を吸い込む。
そうやって、誤魔化そうとした。
「戻ろっか」
一人の女子がそう言って、3人は小ホールのある棟の方へと入っていった。
彼女たちの行った後を確認し、吸った息を大きく吐き出す。
水道の向かいにある体育倉庫の扉を開け、持っていたものたちを戻す。
ふと考える。
俺は今、何をしているのだろうか。
あの日山本に吹き込まれ、彼女側に立つ事で自分の中にある答えを確かめようとして今こうしているものの、そもそも本当にそれを確かめる必要などあるのだろうか。
彼女たちのやり取りを見ていると、何故かそう思えてしまった。
仮に俺の中で何かが変わったして、今までの考えが間違いであったと、そう言ってしまえるのだろうか。
倉庫の中には、あらゆる用具が煩雑に積み上げられている。
今度はその扉を、雑に閉めた。