03 il y a
孤独や静けさ、そして暗闇。
それらが恐ろしいのは自らを非人称化する第二の病気だからではなく、真夜中の成就であり、誰もが持っている無邪気な子供の情景、その追憶であるからに他ならない。
その道筋が読み取れたとしても、僕たちは不安を抱かずにはいられない。その裏側で暴かれぬまま広がっている実存の騒めき、無限によってしか終末し得ないものは決して空想の産物ではないのだから。
***
三月の週末、いつか約束した通り、僕は朔夜と共に離れた町の美術館を訪れていた。しかしそこには禅と瑠乃も居り、二人きりの外出という訳ではない。そも美術館に訪れることになったきっかけが、瑠乃の『見に行きたい絵があるの』という発言だったのでそちらが主な目的ではあるのだが。
その季節、美術館に来ていたのは、植物や蝶をモチーフに幻想的な黒と色彩の作品を手掛けたフランス人画家の絵画だった。
「油絵なんだけど、繊細で複雑な色の重なりが、幻のように薄っすらと光ってるみたいなんだよ。なんというか、文学的で、見れば見るほど味わいがあってね。表情や仕草も、余計なものから隔絶していて……」
或る王子の名を冠する絵を彼女はそう評して紹介してくれた。成る程その絵と僕たちの間には乗り越えることの出来ない線、手の届かない沈黙の集合があった。夜、そして夢想。それが剥き出しにした悲しげな安定。床面から天井まで広がる大きな絵は静かな距離で見下ろし、僕たちがそこに居ることに何も驚いていないようだった。
初めて美術館に来たという朔夜は寓意という題の絵を気に入ったらしい。赤い木と一組の男女が描かれたその絵について、シンボリックな意味が破綻し、事物の曖昧さの残存物とグロテスクな結合を繰り返しているような印象を受けた以外の感想を僕は述べないが、女性の表情の奇妙な疑わしさ、それが彼女の琴線に触れたようだった。
僕たちは美術館で行われている展覧会の絵をまとまって巡ることはしなかった。かと言って離れ離れになることもなかったが、僕と朔夜が並んで鑑賞に耽る傍で、瑠乃たちは好きなように歩き、壁の取り除かれた絵画の世界観に没入していた。
その最中、彼女が寓意に惹かれたように、僕も或る詩人の絵の前で足を止める。
「瑠乃も言ってたけど、奇妙な絵が多いね」
「でもこれはちょっとグロくない? 生首だよ」
「生きていたら、こうも幻想的にはならなかった」
「ふぅん……囲んでるのは蝶なのかな、花なのかな」
「その境界が曖昧だから、見える景色なのかもしれないよ」
「この人には見えていたの?」
「どうかな。だけど一つだけ確かなことがある」
「なになに?」
「画家は絵を描くしかないっていうことさ」
やがて別の絵画へ興味を移し、同一の局面を示さない螺旋階段を降りてこの世のどこでもない場所を覗く古めかしい窓のような絵画の並ぶ空間を抜けると、画集を販売する売店に辿り着く。そこを過ぎると海の底から浮上するように、がらんどうの青空の下で小さく口を開いた入り口へと回帰した。
斯くして明晢、明るさに動揺を与えるとは別の仕方で、極端に拮抗した暗示の余韻も冷めやらぬまま、僕たちは美術館探訪を終えたのだった。
しかし折角集まったのだからということで、その帰りに僕たちはチェーンの喫茶店で稀薄な星々の夢を見るように、灰とも散らぬ気楽な談笑に耽った。
「……私が信じているものは二足す二は四、四足す四は八ということです。そういう返事に対して彼はこう答えました。つまりあなたの宗教は算数ということですか、ってね」
「あはは、何それ。算数、算数って」
「朔夜さんは本当にすぐ笑うね」
「まぁ、沸点低いから。何がツボかはよく分からないんだけど」
「私も話し甲斐があるので助かってます。やっぱり話し相手は横柄な楽天主義のオーディエンスじゃなくて、ユーモアの分かるお友達に限りますね」
「それなら僕と瑠乃にも笑える話をして欲しいな」
「クラインの壺の中は泣くほど暗いん。笑いのツボだけに」
「……っ」
「止不河さん……」
「あんなこと言っておいて、この世で最も単純な人をして単純と言わしめるような単純さです。はぁ、やっぱり瑠乃が一番手強いですね」
「私は普通のお話だけで十分楽しいよ」
「そんなのだから瑠乃は私のハーレムの中で浮いてるんですよ」
「えぇ……分かった。私、禅のよく分からない話で笑えるように努力する」
「それはそれで調子狂いそうだから止めてくれませんかね」
「本当に禅、そういうところだよ」
生き生きとした親密さ。それは感覚出来るという意味において、幸福な思考であり、偶然の海に蠢く、賽の内側に書き込まれる空虚の養分となるものだった。
別れるまで僕たちはその動いて止まない生命の雰囲気に耳を澄ませ、公正な沈黙の底で、驚くほど確信を持たなかった。何の? それより力強い運命があるという、休みなき呼吸の。不幸、弱さ。
「ねね、止不河。今日も泊まりに行っていい?」
「明日も休みだし、構わないけど。家族の人は良いって?」
「お世話になってばかりいないで、そろそろまた家に招待しなさいってさ」
「なら春休みが終わる前に、遊びに行かせて貰おうかな」
「という訳で許可は得ているのだ」
「分かったよ。じゃあ帰ろうか」
「うん」
彼女が居なかったら、成り行きとか、確信とか、思い掛けない音響は全一性に絶対的に他なるものであり続け、肉體的な諸帰結とはなり得なかっただろう。その結び付きは首尾一貫して空虚を裏切り、何一つ疑わしいものなど無かった。
冷やかな夢が虚ろに羽ばたく袂、その夜も僕と彼女は、闇に沈下し、重みと影に絶息する眩暈の中で、脊髄の粟立つような涙の徴を求め合った。これ以上なく生きているという赤い血の色の快楽。消え去る形体が可能ならしめるもの、模糊として偏在する、偶然に喰い尽くされる。幽閉された悪夢の底へ降りて行く。
斯くして沈黙することの幸福の中で、真夜中の鐘は幾度目かの回帰を告示する。
***
目が覚めて、暗闇に慣れた目でじっと時計を眺めていた。寄せては返す波のように、過去と未来を重ね合わせる針の音は、未明の静けさに沈み込みながら、黙したまま、夜の余白を塗り潰していた。
明日が生まれるということ、昨日が死ぬということ、幾度目かの今日の訪れ、終わりへ向かう運動の諸相。戻らない針が示す先には天使のような寓意が躓くべき石のように転がっていて、涙が溢れるのを待っている。
「……夢か」
すぅ、と。隣から聞こえてきた寝息に彼女が居ることを思い出した。カーテン越しに薄い明かりが透けて見える部屋で彼女は穏やかに眠っている。
そちらの方をそっと向く。
朔夜、この世界でただ一人、僕が愛しいと想う人。他の人たちには抱かない、愛情や友情を抱く人。光と昼を切り離した影と沈黙の苑へ、僕を永遠に迷わせる人。宛ら登っても降りても同じ場所に辿り着く、螺旋階段のように。
眠っている彼女の首筋に指を添えると脈の打つ、生きている感じがする。厳しくも軽やかな脈動、繊細で確実な拍動、絶えざるところに命が明らかな鼓動。
眠りは諸人を無垢にする。彼女が起きる気配はなく、慎ましく上下する胸も、涼しく小高い鼻も、吐息の漏れる桜桃の唇も、月の翳りのような穏やかさを疑うこともない。
なんとなく目が冴えてしまったため、彼女を起こさないように部屋を出て、廊下の台所で珈琲を淹れる。外で飲もうと玄関の戸を開けると、侘しい露の匂いを含んだ涼しい風が入れ替わりに通り過ぎて行く。
街灯の明かりのせいで星の見えない三月の空を見上げ、ほうと息を吐いた。
──僕たちは蝋燭が消えるまでの短い時間に、長い夜を眠り続けなければならない。
いかなる力が人を夢から覚ますのか。眠りながら見る夢、目覚めながら見る夢、瞼の裏で色褪せることのない夢、頭蓋の奥で痙攣し続ける夢。夢々が輝かざる鎖に繋がれ、窒息し、沈んで行く様を黙って見続ける。その前触れのような孤独は、どのようにして次の居場所を探すのか。
見上げた先の星々の無い空はいつか辿り着く場所、或いはもう一つの始まりの場所のようにも思え、珈琲を飲みながら想いを馳せる。
今へしがみつくのに精一杯の腕では短すぎ、生きたまま行くには遠すぎる場所。越え行くものではなく辿り着けぬものとしての彼方。そこでは運命がむき出しになって僕たちを動揺させるのかも知れない。
孤独と運命のあいだで、僕たちは誰でも無い人になる。そうしていつか訪れる人々の道標となるのだろう。忘れられるときのために。
気晴らしを終えて部屋の中に戻ると身体が思ったより冷えていたことに気が付いた。台所を片付けてから毛布に包まって机の前に腰を掛ける。そして街灯の明かりを頼りにスタンドライトを点けて近場の本を一冊手に取り、ぱらぱらと頁を捲り始めた。
その音だけが静かに響く、外のまだ暗い時間。
「……止不河、何してるの?」
眠そうな声で、朔夜は僕が同じ布団の中に居ないことに気付いたようだった。
「本を読んでるだけだよ。起こしちゃった?」
「抱き枕がなくて……こっち来て」
「しょうがないな」
読みかけの小説を閉じ、毛布を椅子の背に掛けて、明かりを消すと、彼女の隣で横になる。僕が傍に来たのを確認すると、彼女は両手で僕の身体を抱き寄せた。
「ふふっ、あたたかぁい。ダメだよ、止不河は私の傍に居てくれなきゃ」
「はいはい」
「分かったならよろしい。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
啄ばむようなキスをして、僕たちは目を閉じ、暗闇と静けさの波間に埋もれるような眠りに落ちて行く。
「止不河」
「ん?」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
遠のいて忘却に燃え尽きた夢は墓の門扉を叩き、閉ざされたものを開いて、真夜中の成就として盲目の神に化身する。神は誘い、導き、解放する。偶然によって否定される変貌、必然、狂気の果て。
無限の底へ絶対を配する、浄福なる夜へ、闇へ。
読んでくださりありがとうございます。
2019.3.31
サブタイトルを変更しました。
2019.9.22
サブタイトルを変更しました。
改稿しました。




