02 眼球不安
チャイムの音が響く。残響に耳を傾ける時、満ち足りた重みを保持する力は崩壊し、退いた考えを探しに行くように、教師は立ち去り、周囲のクラスメイトたちは繁殖する言葉の息遣いに従って動き始める。
昼休みという区切りが有する必然性に促され、僕も弁当箱を片手に教室を後にした。多くの学生たちがそうするように、僕も彼らとすれ違い、穏やかな無関心さ、その漠然とした沈黙の中を歩いて行く。
互いに決して手の届かない確信、謙虚さや控えめさではない。沈黙はそういう形態で現前して、迎えに来るのを待っている。誰が? 誰でもない誰かが。故にこそただ通り過ぎる時、僕たちは誰にとっても取るに足らない誰かなのだろう。雑踏に不意を衝かれる人間は居ない。口数の少ない人間の沈黙が気付かれぬように。
恐ろしいことだろうか。自分と呼ぶべき何かが、誰にとっても無用な彼方へ、ありとあらゆる思考から外れて消えて行くかもしれないということは。底無しの沼に投げられた石の運命を必然と呼ぶような仕方で。賽子が偶然の中で振られるという狂気、何故一擲は投じられるか。
心臓の鼓動。それだけが何もない場所へ深い眼差しを向けている。
券売機に並んだ列の脇を通り抜け、学生食堂に着くと隅の方の空いてる席へと腰を下ろす。待つこと数分、人混みを抜け出して朔夜と彼女の友人たちが僕の座っているテーブルまで辿り着き、雑談もそこそこに僕たちは昼食を取り始めた。この白昼の関係は苦痛も無く想起される終油の秘蹟のようなものだった。
基本的に一人で居ることを好しとする僕と違い、彼女には幾らかの友人が居た。
かつて欺いたことのない言葉、咳払い。そうしたものは耳には分からない。僕と彼女が付き合い始めた数日後、彼女が僕に引き合わせた二人の少女は謂わば物静かな歌のような足音、遥かな遠さを以って響く足音だった。
それから共通の友人となった彼女たちの名前は禅と瑠乃という。星影を束ねたような黒髪と凛とした瞳が好く透る禅と、人形のように華奢だがコロコロ変わる表情が愛らしい瑠乃。二人とも純粋で愛らしい人だと思う。一度も夢を見たことのない頭蓋骨のように。
僕が彼女たちとそれなりの親交を築けたのは僕の僅かな躓きに彼女たちが注意を払っていたからか、それとも彼女たちの躊躇いが僕にとっての一つの果てであったのか。いずれにせよ、朔夜と彼女たちは概念を得ようとも思わなかった側面を覗く契機となった。
「どうして人間って笑うのでしょうね」
「どうしてって、楽しいからじゃないの?」
箸の先を舐めながら呟く禅に朔夜が答える。
「楽しくなくても、人間は笑えます。それなのに笑ってる人間を見ると楽しそうだと考える。不思議ですよね」
「禅はそう思わないってこと?」
「例えば、悪夢の記憶がある現実と、現実の記憶がある悪夢って違うものだと思いますか」
「んん? 記憶があるなら同じ……なのかな。いやしかし……」
どんな風に答えようか、言葉をまごつかせる朔夜を、禅は口元に小さな笑みを浮かべて待っている。瑠乃曰く悪癖だが、彼女にはそういうところがあった。食欲だけで食うというような幸福。血によって発光する百合の花の白さ。
「私たちは一体、死ぬまでの間にどれだけ笑うんでしょうね」
僕の隣では瑠乃が、二人の話を退屈そうに見つめていた。
夢で見たどれだけのことが現実に起きるのだろう。現実というものの仮借なさ、想像の余地さえない真実性。夢は空虚な無垢の荊棘に取り囲まれている。
悪夢のような現実。現実のような悪夢。
夢の中で付けた傷はどのようにして消えるのか。恐ろしいほど罪がなく、底知れぬ鏡のような無謬の証人。それを他者と呼ぶならば。硝子窓の底なき底で微笑む青空の輝きに過ぎない。嗚呼、げに空しき孤独。
***
放課後。僕は図書室で読書に耽りながら朔夜の部活が終わるのを待っていた。彼女が入っているのは所謂美術部で学校行事に際してイラストを作成する他、年に二回の展示を行う以外にやるべきことは無いという。
彼女の絵は何回か見させてもらったことがあるが、日頃見せる長々とした入日の光の如く哀れな人柄に反し、好奇心と恐れに満ちた暗さに憑かれていた。人より優れた技量を持っていた訳ではなかったが、意図して描かれた線と色彩よりも病的な優美さ、恐るべき苦悩を起こさせる絵で、少なくとも彼女と同じ美術部員の瑠乃は彼女の絵に苦痛と恐れを抱いていた。
そんな彼女の絵であるが、ある種の人々を不思議に魅了して、その内の一枚は僕の部屋に飾られている。薔薇の叢と青空の絵だ。
書店でのアルバイトを言い訳に部活には入っていなかったが、興味はあったし、朔夜から誘われた時は美術部に入ってみようかとも思った。そうしなかったのは描きたいものが無いという諸帰結に耐えられなかったからだった。
斯くして今日のようにアルバイトの無い日は、彼女の部活が終わるのを待って一緒に帰るのが付き合い始めてからの習慣になっていたが、いつもは一人で本を開いている僕の向かいの席に、今日は禅が座っていた。彼女は本を読んでいる訳ではなく、僕の方を見てニコニコと笑っている。
ふと禅が口を開いた。
「止不河って、朔夜と付き合ってるんですよね」
そのことは既に朔夜が打ち明けていた。他の告白は用意されておらず、それと同時に不確実さだけがあり、二人は宛らその無関心さ、空虚さを埋めるための他者だった。
「僭越ながら」
「それで聞きたいのですけど、止不河ってレズなんですか?」
「まさかと思うけど、朔夜にも同じこと聞いてないよね」
「あはっ……蹴られました」
「それなら話は早い筈だけどな」
「焦らないで下さいよ。正味な話、止不河って見てくれはいいんですから、退屈を凌ぐのに特別な苦労は要らないでしょう。まぁ、性格に難はありますけど」
「君がそれを言うか……まあいいや。続けて」
「普通人は虫歯を解決する時、虫歯を抜くことによって困難を剔抉して見せます。痛みの根は絶たれず、見失っただけだと言うに」
「真剣さを問うてるなら、それなりの理由を聞かせて欲しいけど」
「……そうですね。私は友人の運命を案じているだけですよ。有史以来の先人たちが証明してきたように、愛こそ人間が楽園と引き換えに得たものだとするならば。林檎が万有引力に引かれるように、知恵の実は運命へと落ちて行く……その相応しさに足るか否か。如何でしょう」
「運命ときたか」
運命、石胎不毛の夢よ。誰が、誰が蒼褪めた胸の乳房を、喉が渇いた赤子の口に搾ってやれる? 悠々と流れ行く冷やかなる水、即ち恐怖の如何なりしか。
「禅の言うことに従うなら誰も愛さないことが正解に聞こえるけど」
「子供は子供です。愛なんて知らないくらいが丁度好い」
「大人になってから不幸になる人もいる」
「私が言いたいのもそういうことですよ。特に同性が相手なら」
頁を捲る手を止めて彼女の方を向くと、彼女は変わらず笑っていた。好奇心という犯すことの出来ない恐怖を彼女は愉しんでおり、まるで手探りに、僕に話しかけ、目に見えた期待の反対物を持って黙っている。
「別に深い理由なんてないよ。誰だって自分の傍に置くとしたら、自分にとって都合のいい誰かにしたいでしょ。欲望とはそういう風に出来ているんだから」
「やっぱり嫌いなんじゃないですか」
「単なる帰結だよ。それに、それが分からない君じゃ無いだろう」
「それが同性を選択する理由になりますか?」
「骸骨は食卓に晒しておくんじゃなく、戸棚にしまい込んでおくものだから」
「一理ありますけど有益とも言い難いですね」
「それが聞きたかったんじゃないの?」
「本当、捻くれてる」
「君にだけは言われたくないな」
そう言って視線を手の中に開いていた本に落とすと、やがて彼女が立ち上がる音が聞こえた。彼女は最早不要な思考より以下の注意しか要求していなかった。そのまま別れようとした彼女を、本の文章から目を離さずに引き止める。
「恥ずかしい質問に答えてあげたんだから、僕も訊きたいことがあるんだけど」
「いいですよ。なんでしょう」
「禅は誰か好きな人とか居るの?」
「居ますよ。だけどその人は私より綺麗な顔の子に夢中です」
「救われないな、君も、僕も」
「命短し恋せよ少女ってことですよ」
禅が今度こそ立ち去ると、殆ど人気の無かった図書室は再び静かになり、他者を斥けた放心が借り物の沈黙を作り出して僕を取り巻いた。この空虚は密かな幸福、それとも忘却の表情か。
証人無き物語、即ち孤独とは忘却を要求する。僕がいずれ排除とは別の仕方で僕自身を考えなくなるような予感として。孤独の無名性。それが破られる時を、頁を捲りながら待っている。
***
微かな布擦れの音、裸体。その内を流る血の幸福は消え失せる音楽の響きか。冷めた肉體を湯槽に涵す時、悠々と渦巻いて渡る熱が骨肉に浸みて陶酔へ陥り行く。
夜の憂いを夢見るように息を吐いた僕のことを、同じ湯槽に涵っている朔夜が可笑しそうに観察していた。
「気持ち好さそうだねぇ」
「大分冷えちゃったからね、お湯を少し熱めにしておいて良かったよ。普段より窮屈なのが難だけど」
「二人で入るのは流石に無茶だったようじゃのう。お湯も結構溢れちゃったし、それに思うように身動きが……」
「だから言ったのに」
部活を終えた朔夜が図書室まで僕を迎えに来た後、僕たちは二人で夕飯の食材を買いに行っていた。部活があって帰りが遅くなる日、朔夜は僕のアパートで夕飯を済ませることがある。今日もそのような理由で最寄りのスーパーマーケットを訪れ、ハヤシライスにするかビーフシチューにするかを談義し、材料を買って帰路に就いたのだが、その途中で雨に降られてしまった。
天気予報では夜更けに降る筈の雨だったが、偶然とは常に賭けられており、不条理を含んでいる。その遂行として僕たちは帰り道を急いだが、降りしきる真冬の雨に打たれるままアパートに着く頃には、制服が身体に張り付くほど濡れてしまっていた。
「しかしこうして密着してみると、改めて止不河のおっぱいの柔らかさがよく分かる。生って凄い」
「急に黙ったと思ったら真面目な顔してそんなこと考えてたの」
「好きな人の裸だもん、そりゃあ神経を集中するよ」
「しなくていいよ。こら、くっつくな」
二人では肩まで涵ることの出来ない湯槽の中、彼女は器用に身体を動かして、香橙の葩のような乳房を僕の胸に押し付ける。その感触を愉しむように目を細めると、彼女はもう少しで唇が触れ合ってしまいそうになる寸前まで顔を寄せて来た。
「ねぇ止不河、私の身体は気持ちいい?」
「近いよ」
「こうすれば逃げられまい」
「逃げるつもりもないんだけど」
「それで、どうよ」
「……まあ、不快ではない、けど」
答えることから僅かに退いた僕の唇を、彼女がそっと塞いだ。彼女の唇が糸を引いて離れると、葉蔭に燃える夜のような瞳が真直ぐに僕を見つめていた。
「私は気持ちいいよ、止不河の身体。それにいい匂いもするし」
「匂い?」
「うん。香水とは違う、軽やかな苦味のある木みたいな甘い匂い」
「そんな匂いの石鹸は使った覚えないんだけどな」
「だから止不河の匂いだよ」
「分かったから、嗅がないで。変態っぽいよ」
「もう少しだけ……」
それから交代で身体を洗い、特に僕は念入りに身体を清めて入浴を済ませた。彼女の服は予備が一通り僕の部屋に仕舞われているので、彼女はそれに着替え、僕も部屋着を着ると夕飯の支度を始めた。献立は彼女の希望が通りハヤシライスになった。
「止不河、今日もう雨止まないみたいだから泊まってっていい?」
「別にいいけど、明日の授業の準備は?」
「ロッカーに無いものはパパに朝イチで持って来てもらいます」
「僕その内怒られないかな」
「迷惑かけるなって口酸っぱく言われてるの私の方だから大丈夫だよ」
「……まあ、朔夜がそれでいいなら僕は何も言うまい。家族を大切にするんだよ」
「もちろん」
やがて夕食も穏やかに終わり、僕たちはそれぞれの仕方で、今日という日の終わりを待ち始めた。とは言え大した事はしない。テレビを見たり、雑談したり、流行りの雑誌を見たり、一喜一憂したり。
数え上げればきりが無く、無限と偶然の結合として停止することない諸点、即ち現在。空虚の実相はその儚さであり、故にこそ運動は終わりへと向かわねばならず、秒針の音は夜々を運び、沈黙に閉じた過去へ落ちて行く。
今や聞き取れないような或る匿名の叫び。夜を通して見るべき夢などなく、目覚めている理由さえも何一つない。外では雨が降っているか、窓には風が吹き付けているか。剥き出しになる夜の顔、他所から響く耳障りな声。疲れ、倦怠。全人格の棄却としての空虚。僕たちと夜の間にある黙契の病的な眼差し。
愛情や希望が意味を持つのは、きっとそれらから目を背ける時だろう。
「そう言えば、朔夜はどうして僕なんかのことを好きでいてくれるの?」
「どうした藪から棒に」
「……別に、ただ気になった」
「それは私に愛され足りないという事ですな」
「そんなことは無いよ、朔夜は僕の傍に居てくれる」
「疑問が湧くって言うことは不十分ってことでしょ? だったらもっと愛してあげる」
「質問の答えになってないよ」
「強いて言うなら、この想いの先に居たのがあなただったから。死ぬことが人生なら、斃れることこそ愛なのだ」
「その知恵を得て、狂ったか」
「私たちは必然的に狂っているんだよ。この世界は狂人の集団開放場なんだ。狂っていないものは愛じゃない……さあ、覚悟しろっ」
「うわぁっ!」
不意にカーペットの上に押し倒され、パジャマに着替えた彼女の姿が視界を覆う。僕を見下ろす彼女の目は、生温い夜空の無限の深さに埋もれる星を彷彿とさせた。
「あの……するならベッドの上で、電気も消してもらえると」
「いいけど、今夜は寝かさないぞ?」
「学校の友達にこんなことして、両親が悲しむよ」
「恋人だからいいの。それにもう何度もしてるでしょ」
「それはそうだけど……乱暴にだけはしないでね」
「世界で一番大事にする」
部屋の明かりが消されると、間を置かずしてベッドで横になった僕の上に彼女の身体が覆い被さった。手折るような口付けを交わし、パジャマのボタンがゆっくりと外される。雨と闇に紛れる涙の旋律が流る終わりに一切は瓦解して。後には心臓の鼓動が残るばかり。
蝋燭の消えたところに闇がある。それこそ一切があったことの証明だった。
読んでくださりありがとうございます。
2019.3.31
サブタイトルを変更しました。
2019.9.19
サブタイトルを変更しました。
改稿しました。




