01 Minuit
おお女よ
色即是空に非ずとせば
一度の接吻も我を殺さむか
Stéphane Mallarmé
目が覚めて、暗闇に慣れた目でじっと時計を眺めていた。寄せては返す波のように、過去と未来を重ね合わせる針の音は、未明の静けさに沈み込みながら、黙したまま、夜の余白を塗り潰していた。
明日が生まれるということ、昨日が死ぬということ、幾度目かの今日の訪れ、終わりへ向かう運動の諸相。戻らない針が示す先には天使のような寓意が躓くべき石のように転がっていて、涙が溢れるのを待っている。
そんな午前三時のモノローグ。
すぅ、と。隣から聞こえてきた寝息に彼女が居ることを思い出した。カーテン越しに薄い明かりが透けて見える部屋で彼女は穏やかに眠っている。
そちらの方をそっと向く。
彼女は綺麗な人だ。うら寂しい光に浮かぶ姿は朧にあどけなく、深い赤みを帯びた鼈甲を溶かしたような長い髪は幻想的に敷布を流れ、血色の良い肌を優しく包んでいる。神秘的な呟きを含む寝顔に思わず吸い込まれそうになる。
彼女がここに居るのは大した理由でなく、今日が休みという理由で、友人であり恋人でもある僕のアパートの部屋に泊まりに来ただけだった。こういう日は何度もあって、僕の方も特に断らないためいつしか自然のやりとりとなっていた。
眠っている彼女の首筋に指を添えると脈の打つ、生きている感じがする。厳しくも軽やかな脈動、繊細で確実な拍動、絶えざるところに命が明らかな鼓動。
眠りは諸人を無垢にする。彼女が起きる気配はなく、慎ましく上下する胸も、涼しく小高い鼻も、吐息の漏れる桜桃の唇も、月の翳りのような穏やかさを疑うこともない。
なんとなく目が冴えてしまったため、彼女を起こさないように部屋を出て、廊下の台所で珈琲を淹れる。外で飲もうと玄関の戸を開けると、侘しい露の匂いを含んだ冷たい風が入れ替わりに通り過ぎて行く。
街灯の明かりのせいで星の見えない一月の空を見上げ、ほうと息を吐いた。
いかなる力が人を夢から覚ますのか。眠りながら見る夢、目覚めながら見る夢、瞼の裏で色褪せることのない夢、頭蓋の奥で痙攣し続ける夢。夢々が輝かざる鎖に繋がれ、窒息し、沈んで行く様を黙って見続ける。その前触れのような孤独は、どのようにして次の居場所を探すのか。
見上げた先の星々の無い空はいつか辿り着く場所、或いはもう一つの始まりの場所のようにも思え、珈琲を飲みながら想いを馳せる。
今へしがみつくのに精一杯の腕では短すぎ、生きたまま行くには遠すぎる場所。越え行くものではなく辿り着けぬものとしての彼方。そこでは運命がむき出しになって僕たちを動揺させるのかも知れない。
孤独と運命のあいだで、僕たちは誰でも無い人になる。そうしていつか訪れる人々の道標となるのだろう。忘れられるときのために。
気晴らしを終えて部屋の中に戻ると身体が思ったより冷えていたことに気が付いた。台所を片付けてから毛布に包まって机の前に腰を掛ける。そして街灯の明かりを頼りにスタンドライトを点けて近場の本を一冊手に取った。
夜が明けるまでしばらくある。彼女が起きるのは更に先になるだろう。もう一度眠るには余りにも遠のいた夢の後ろ姿を見送るように、読みかけの小説の項を捲り始めた。
***
溶いた卵を牛乳と砂糖と混ぜながら時間を確認する。朝としては早くもないが遅くもない時間。そろそろ客人が目を覚ますであろう頃合を見計らって、僕は朝食を作り始めていた。なんの工夫もないフレンチトーストだが、特別凝る必要もなく、大して手間もかからないためこういう日や少しだけ余裕のある朝には好く作っていた。
欠伸を隠さず二枚の食パンを四つずつ切り分け、先ほど作った卵液に浸していると、隣の部屋から寝惚けた声と掛け布団の落ちる音が聞こえてくる。程なくして居室と廊下を隔てる戸が開けられた。
「おはようー……何それ」
「お早う。いつものだよ。出来たら持って行くから、顔洗ってきな」
「分かったー……でもその前に、ちょっとこっち向いて」
「なに……」
彼女の方を向いた瞬間、僕の唇と彼女の唇がそっと触れ合った。
「ん……ふぅ。ふふ、目覚めのキス」
「いきなりだなぁ」
「えへへ、それじゃね」
そう言って彼女は洗面台のある浴室へ行き、僕はまた一人になる。微かに熱の残った唇に触れ、息を零すと、もうすっかり慣れてしまったなと思う。彼女に関する可能性の思考、こうして続いている関係に。
止め処なく仮定を並べたところで、出会いから半年以上も経てば、憂いや苦悩は蒸留され、未熟な善性と親しくなっていた。或いは彼女とこういう関係になって、悪い気はしないと思った時、未来は決定していたのかもしれない。
熱したフライパンにバターを溶かし、卵液に浸った食パンを入れると香ばしい匂いが立ち昇ってくる。両面に適度な焼き目を付けてから皿に取ってシナモンを塗し、部屋に向かうと眠気を落としてすっきりとした様子の彼女がベッド脇の座卓で寛ぎながら待っていた。
「お待たせ」
持っていた皿を座卓に置き、僕も彼女の傍に腰を下ろす。
「ありがと。止不河の家に泊まると朝食が付いてくるのがいいよね」
「抜く理由が無いから」
「私の分まで作ってくれてありがたい……」
「一人分も、二人分も、変わりやしないさ」
音楽代わりに何でもないテレビ番組を流す部屋で、彼女、朔夜と二人で取る朝食は、丁度窓から差し込んでいる仄かに白んだ日差しのように、飾り気のない平穏に満ちていた。その落ち着きについて行くように、時々の呟きに耳を傾け、語り、所在ない空虚に近付きかける。立ち尽くすことしか出来ない場所へ。
朝食を済ませて食器を片付けた後、珈琲とココアを淹れ、食後の時間を過ごしていると、思い出したように彼女が口を開いた。
「そういえば結構前から工事してた、隣駅の前にあるショッピングセンターの水族館、この前ついにオープンしたんだってさ、行かない?」
「いいよ」
「そっかぁ。まあ、急すぎたもん……いいの?」
「折角の休みだし。天気も良いし」
「なんと。腰の重さに定評のある止不河が」
「……否定は出来ないか。ところでどんなところなの?」
「んっと、なんか光と音を融合させた癒しがコンセプトの水族館らしい」
「それはまた若い人に受けそうなところだね」
「私たちも花の女子高生なんですけど」
「ふふ、そうだね。もう少ししたら準備して行こうか」
「やった。止不河とお出かけだ」
程なくしてマグカップを片付け、それぞれ身支度を整える。必要なことを終えて玄関から外に出る頃には日も大分上がっていて、玄関に鍵をかけると、今日の予定をぼんやりと組み立てながら彼女と一緒に歩き始めた。
「うぅ、やっぱ一月は寒いね。それにしても、今日も止不河は可愛いなぁ」
「……可愛くないし、何を急に。寒さで認識のレンズの度が狂ったの」
「ちょっと可愛いって言っただけでそれかい。大体、そんな可愛いコートを着といて何を言うか」
「それは、その、まあ、女の子らしくと意識していたのは認めよう」
僕が着ていたのは、先日彼女と洋服を見に行った際に二人で選んだ、花模様の刺繍されたケープを羽織るようなデザインの、襟と余り気味の袖にあしらわれた白いファーが特徴的なベージュのコートだった。
似合わぬ装いでそれらしくしようと背伸びをしたような僕とは対照的に、隣を歩いている彼女は長い髪をサフランのヘアバンドで緩やかに纏め、鳶色のボタンがアクセントになっているダークブラウンのフレアコートを軽く着こなしている。
こと装いに関して、必要以上に気にかける意味はないと思う一方、年相応の興味もあって、それが過ぎたるものだという自覚があったからこそ、少なくとも周囲には控えて見せていた。
彼女もそれを分かっているからこそだろう。
「やっぱり可愛いね、止不河は」
「……」
「ごめんごめん、テンション上がっちゃって」
「別に悪い気分にはならないけど、もう」
そう言って手を差し出すと、彼女の指が岩陰に隠れる魚のように絡み付いた。繋いだ手を通して伝わってくる混じり気の無い熱に、一つの秘密の符号が結び付き、絶え間ない呼吸の中で涙のような血の流れに変わる。
生き生きとした親しみのありようは語られぬことであり、僕に微笑みかける、彼女の眼差しは翻訳された極点のようなものだった。
信じられた心象、行く末のない期待。そういったものが僕たちの間に横たわる言葉であり、今僕たちを包んでいるのではない別の空、別の大地が一つの集中した世界のように今日という一日を突き動かしていた。
***
エスカレーターを登り、人混みで賑わう通路を往き、案内図に従ってショッピングセンターの中を歩き続けると、やがて崩れた筆記体のような魚のシルエットが描かれた壁とチケット売り場、自動ドアに仕切られた水族館の入り口が目に入る。
「高校生、二枚」
家族連れや若い成人のカップル、同年代くらいの少年少女のグループに紛れてチケットを買い、自動ドアを潜ると、アコースティックな音楽が静かに流れる薄暗い通路の両側で、ライトアップされた水槽の中を、見たことがあるようにも、無いようにも感じられる小魚が泳いでいた。
「綺麗なもんだね」
「うん、色々な魚がいるね。それに、思ったよりロマンチックかも。美術館みたい」
「行ったことないでしょ」
「まあね。いやぁ、有名な絵とかは見てみたいと思うんだけどさ。知らない絵はどうにも。魚みたいに絵が泳いでたら飽きないで眺められそうなんだけど」
「シュールなことを言うね」
「見てて楽しいのが重要なのだ」
「大事なことだね。でも美術館か、折角だし今度行こうか」
「え、ほんと?」
「止めとくかい」
「なんというか、止不河とお出かけ出来るのは嬉しいけど、絵とか全然わからないし。退屈させちゃいそうなのが……」
「分かる必要は無いよ。絵は、見ればいいだけのものだから。僕だって分からないし、その方が楽しめることもあるさ。きっといい時間になるよ」
「そ、そこまで言うなら、しょうがないなぁ」
「そしたらその日の天気で決めようか。とりあえず今は泳いでる魚を見よう」
「りょーかい」
美術館に展示されている絵画の多くにはタイトルがあるが、壁に埋め込まれた目の前の水槽には泳いでいる魚の名前があるだけだ。その必然性と彼女の『美術館みたい』だという喩えが奇妙に擦り合わさって、少し可笑しかった。
どの水槽も水中に揺らぐ光を丁寧に折り畳んでいて、その透明な構造を崩して過ぎる魚たちの姿を鮮明に映し出している。静かな音楽の聴こえる通路を歩きながら、僕たちはふとした瞬間に立ち止まって、その影を捉えようとした。
僕たちの他の様々な人々も、注意は同じように惹かれ、不確かに揺れる足音のリズムを乱さず進む。
少しの無関心さと余剰の間を踏み分け、水槽に挟まれた通路を歩いていると、海鼠や海星に触れることの出来るコーナーがあり、その体験に華やぐひと時もあった。濡れた手を伝う潮水のような会話と広がる波紋のような肯定の感情の幸福と。こういう過ごし方が僕は嫌いでは無かったし、そうしている間は漠然とした途方の無い虚しさを忘れることも出来た。
やがてヒレの長い縞模様の魚が悠々と泳いでいる前を横切り、しばらく進んだ先の角を曲がると、数段も照明が落とされた暗い空間に入った。辺りの壁や天井にはガラス窓に戯れる雪ような電飾が散りばめられている。
そこには巨大な試験管やシャーレのような水槽が並べられ、青や緑の光で淡く満たされたその中には色々な海月が浮かんでいた。水槽ごとに海月の種類も分けられていて、その間を歩いていると、海月の非現実的な形態と生々しく喘ぐような運動の不釣り合いな明証性が不思議に思え、思わず嘆息が漏れる。
「うわぁ……幻想的」
「沢山居るね」
「うん、なんか星が踊ってるみたい」
「星が手で掴めるものだったら、きっとこんな形だったのかもね」
「海月を掴んだら刺されちゃうよ」
「触らぬ神に祟りなしってところかな」
「空に漁船を放てば」
「夢も希望も無くなるね」
いつしか音楽はノスタルジックな旋律に切り替わっていて、暗闇を寂しげな音色で満たしていた。覗き込むように水槽に近付くと、氷のようなアクリル硝子の薄い壁の向こうで大人と子供の海月が静かな散逸を泳いでいる。その冷たい硬直は、星のように、雪のように、暗黒を目指す絶えない退きで、不分明であるが乱れることのない忘却の素描だった。
「ね、止不河。今なら誰も見てないよ」
極些細な光の中へ消え失せるような海月の身震いを見つめていると、そっと袖を引いた彼女が、悪戯っぽく僕の耳元で囁いた。
「人前なんだけど」
「みんな海月に夢中だし、こんなに暗いなら気付かれないって」
振り返った僕と彼女の視線が交わり、数秒間、無言で見つめ合う。
それが合図だった。
「……分かったから。早くしてね」
そう言って恥ずかしさで目を逸らした次の瞬間、唇が優しく塞がれた。音楽が遠のいて、重なった箇所から広がる残酷な熱に思考がぐずぐずと離散して行く。目の前の現前へのある確信、完全かつ不完全な方法で疑いをさしはさまないという排他的な肯定。
何度としても慣れない粘膜のやり取りは、嫌いではなかったけれども、なんだか少し苦手で。ある圧倒的な幻想の欠如を感じながら、結局息が苦しくなるまで僕たちはキスを続けていた。
「ごちそうさまでした」
「こんな場所でするかな、普通」
「へへ、嫌だった?」
「そんなことないけど」
「刺激的だったでしょ」
「全く……もう」
僕たちの関係は単純な事実だったが、それは何も意味しない。では意味の無い関係かと問われればそういう訳でもない。しかし誰かが考える以上に孤独で、誰の目に見えるものでもない。一つの終末だけが僕たちをそれから解放する。それは安易な結末と混同することの出来ない無数のパンドラの箱の一つのようなものだった。
先程までよりも楽しげな様子で海月を見て回る彼女の後を追い、付いて行く。
彼女について考える時、彼女は僕が思ってもみない寓意であるのは確かだった。
読んでくださりありがとうございます。
2019.3.31
サブタイトルを変更しました。
2019.8.29
サブタイトルを変更しました。
改稿しました。




