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森を走ろう!  作者: あいうえお
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なんすかこれ

 鴨川沿いの桜が満開になり、鴨川デルタ全体が暖かな空気に包まれ、そよそよと川の水が流れる。吉田山付近では、少しへたっぴなウグイスの声があたりに響き渡り、哲学の道沿いの疎水では、きれいなピンクのじゅうたんが敷かれる。そんな春の京都の町は、観光客と大学へ入学する新入生でごった返し、東大路通を進むバスは遅々として進まず、いつもそこかしこに存在する路上駐車された自動車もあいまって、常に最適のルートを選んで目的地へ行かねばならない。

 

 ここ古都大学では、4月の初めごろに新入生のための健康診断が設けられており、古都大学を象徴する時計台内部で行われるその健康診断のために、彼らは入学式もまだ済ませていないのに古都大学までせっせと集まってくる。

 この健康診断が新入生専用の日程となっているため、この健康診断に参加する人がすなわち新入生なのであり、新入生勧誘に乗り出した各サークルは、ビラロードと呼ばれる、古くから伝わる神聖な誘導路を形成し、新入生を優しく迎え入れるのだった。すべての道は健康診断につながる。

 紳士淑女の先輩方は、決して手荒な真似はしない。ビラロードをずんずん進んでいく新入生に対して、鬼のような形相で我先にと、彼らが両腕で抱えている大量のビラの上に自分のサークルのビラをねじ込む、などという野蛮な行為は決してしない。にっこりと、笑顔で、優しくねじ込むのだ。


 健康診断を終えて下宿に戻った安田敦は、本日の獲物を前に広げ、腕を組んであぐらをかいて座っていた。本日の獲物とは、もちろんビラロードで自分の腕の中につっこまれたサークルのビラである。

 数あるビラの前で安田が悩んでいるのは、どのサークルを回るかということである。もちろんどのサークルがおもしろそうか、ということではない。どの順でサークルを回り、食いつないでいくか、ということである。新入生歓迎会、略して新歓に行けば、晩ご飯をおごってもらえるというのが専らのうわさで、うまいこと組み合わせれば、1か月は食べていくことができる。安田は、センター試験の時にこの噂を友人から聞いていた。

 大学受験を経たため、安田は、入学現在、大学に仲の良い友人がいない、というのは嘘で、もともと仲の良い友人はほとんどいなかったが、唯一仲の良かった友人は、新都大学へ行ってしまったのである。東京とかいう都会に魂を売ったのだ。


 その日の5限の講義はなぜかいつも10分早く終わるのだが、それが終わると、安田は、あるサークルの説明会に行く予定だった。しかし、古都大学の時計台前にあるクスノキ付近に行くと、あたりは、新入生を呼び寄せようといろいろ声を掛けている上回生と、説明を聞きに、又は晩ご飯を求めてさまよい集まった新入生で一杯で、薄暗い中遠くから少し背伸びをし、目を凝らして看板を探すしかない。ようやくクスノキの西側の方で看板が見えたと思ったらそれは人の頭に沈んでいくので、安田は、看板を見失うまいと、とにかくその看板の方へ行こうと群集の中に分け入ろうとした。しかし、どの集団がどのサークルのもとに集まっているのか、もはやその境界は定かではなく、新都大に行ったあの友人から聞いた朝の通勤ラッシュ時の満員電車のような混雑の中では、自分の意思で自分の進路を決めることなど到底できず、あれよあれよという間に反対側へ押し流され、彼は、いつの間にか「オリエンテーリング」と書かれた看板を持った人の近くにおり、どうやら彼は、その集団の一人になっているようだった。

 安田は、オリエンテーリングとかいうサークルのビラなど見覚えはなかったが、とにかく晩ご飯さえ食べられればそれでよいのだという当初の方針を思い出し、さらば例のサークルよと胸の中で独り別れのあいさつを唱えた。

 安田は、このサークルにはどんな人が集まっているのだろうと辺りを見渡して、よく分からないみょうちきりんなやつらばかりがいると思った。しかし、最後に自分の右隣に目をやったところ、今、自分の隣にいるのは女子であり、しかもとても爽やかで、いい匂いのする女子であることに気づいて、この世にこんな人がいたのかと驚き、ひどく動揺し、顔がにやけ、彼女と目が合ってしまったので、とりあえず「あ、どうも」と会釈をして挨拶をした。こんなことなら美少女に会うための心の準備をしておくべきではなかったか、そもそも古都大生たるもの、常に美少女に会ったときのために心の準備をしておくべきではないのか、ラノベやアニメの主人公は、しばしば、突然に美少女と出会うではないかなどと考えたが、それよりも、4月も終わりだというのに最近光栄ある孤立体制に入りつつある安田にとっては、この人混みは大変厳しく、早く抜け出せないかという思いが彼の頭の中を席捲し、美少女との出会論は中止を余儀なくされた。


 18時10分を過ぎると、それぞれのサークルは散り散りになり、オリエンテーリングクラブも、BOXへ移動し始めた。周りの人が楽しそうに話していたが、移動している時もさきほどの美少女が隣にいるので、安田は、「これは声を掛けた方がいいのか」と考えた。しかし、特に話しかける話題もこれといって見つからない。見つからないなら無理して声を掛ける必要もないだろう。

 時折、電灯のある辺りに行くとその人がよく見えた。豊かな長い髪がゆったりと揺れているのが分かる。彼女は、オーバーニーソックスを履いていた。そしてミニスカートである。太もものお肉がオーバーニーソックスのゴムで締めつけられて、押し上げられた部分が裾に乗っている。安田は、目が悪かったが、それだけは見ることができた。


 いつの間にかオリエンテーリングのBOXに着いていた。中に入るとまず漫画やら何やらが目に入ってくる。床の上に折りたたみ椅子が何個か設置してある。安田が一番後ろの列の一番右端の椅子に座ると、隣にあのニーソ美少女が座った。オリエンテーリングクラブの男性の先輩らの視線が彼女の太ももに注がれている。いや、むしろ見ていない人の方がいなかったのではあるまいか。説明会が終わって外に出たときには、電灯や満月でさえも、彼女の太ももを見つめ、それを明るく照らし出さんとしていた。彼女の周りには、ガーベラの花が咲いていた。

 安田は、そんな彼女の隣に座っていたので、まるで彼女の彼氏のような立ち位置にいる気分になり、得意げな態度をとろうと思ったが、彼女の左隣の人を見たら、その人も彼氏面した態度をとっていたのでアホらしく思ってやめた。



 「では、そろそろ説明会を始めたいと思います」

 その言葉で当たりはしんと静かになった。安田たちの前には、体格の良い男性が立っていた。

「私は、2回生の仲野です。62期です。今日は、説明会に来てくださってありがとうございます。さっそくですが、みなさんは、オリエンテーリングって聞いて、なんすかそれって感じだと思うので、まずはこの動画を見てもらいたいと思います」

 彼らが用意していたのは、オリエンテーリングの紹介動画で、スポーツウェアを着た人たちが森の中を颯爽と駆け抜けていく姿が映っていた。斜面を下ったり、ガツガツと上っていったり、倒木をくぐったり、飛び越えたり。安田は、これは大変なところに迷い込んだと思った。自分のようなヒョロガリ眼鏡では、スタートする前に森に撥ね返されてしまう。しかし、ふと横を見ると、例のニーソ美少女は目をキラキラさせて見ていた。いったい何が彼女を惹きつけたのかは分からないが、安田は、なんだか負けたような気がして、焦って真面目に説明を聞き始めた。

 彼らの説明を要約すると、次のようであった。

1 オリエンテーリングは、スポーツであり、スタートからチェックポイントを順にたどってゴールに到達するまでのタイムを争う競技である。

2 森のような場所だけでなく、公園などでも大会は開催されている。

3 オリエンテーリングに必要な物は、紙の上に表示された地図、コンパス及びEカードであり、いろいろな方法があるが、チェックポイント(コントロール)に設置されたパンチにEカードをかざすと通過証明ができる。服装は自由。

4 地図は、人工衛星から得た画像データなどを解析し、その結果得られた地形などの情報がデータとして紙に伝達され、地図として紙に表示される。

5 スタートからチェックポイントを通ってゴールに向かうまで、全部自分でルートを決断して進んでいかなければならない。

6 足が速いだけでも地図を読むのが得意なだけでもダメで、両方の能力が必要である。

7 大学から始める人が多く、また少し前まで競技人口は増加傾向にあったが、最近では、また人が減ってきたので、全国大会も目指しやすいし、世界大会も狙える。


 仲野さんは、最後にこう言った。

「本気で取り組んでいる人から、森林浴気分で楽しみながら活動している部員まで幅広くいます。運動が苦手! というような人でも、オリエンを楽しむ気持ちさえあれば大丈夫なので、ぜひ体験会に来てください!」

 結論を先に言うと、最終的に安田はこの言葉にまんまと乗せられた。


 説明会が終わると、安田にとっては待ちに待ったご飯の時間である。その日は、古都大学を南に行ったところにある定食屋に行くことになっていた。

 先輩方に囲まれて新入生が座り、先輩方はなぜか全員モモのチリソース煮を頼んだ。安田は、注文が済むと、それぞれが勝手にしゃべり始めた。


 「少し前の話なんだけど、日本の中で前からテレイン、あっ、オリエンテーリングする場をテレインって呼んでるんだけど、日本オリエンテーリング連盟の会長が大富豪だったらしくて、その人が、前からテレインだった土地のほとんど全部をもとの所有者から買い上げて、その人から土地を借りるっていう形で、今までオリエンの大会運営とかやってたらしいんだよね。最近は、その人が引退することになったから、連盟に土地を寄付したとかいう噂があって、今はそっから土地を借りてやってるらしい。人工衛星とかも、その人が借りてくれてるらしいよ。知らんけど。オリエンやってると木とか折っちゃったりして、土地を借りてるわけだから普通はそういうのはまずいんだけど、オリエン用に貸してくれてるからセーフってことに、今は、なってるらしい」

 「地図の内容は変わるよ。まぁ分かりやすいのだと、地震とかの災害とかでいろいろ変わったりするんだよね。あとは植生が変わったり。そういうのがすぐ地図に反映されるってわけ」



 下宿に戻った安田は、迷っていた。今度はご飯を食べに行くかどうかではなく、オリエンテーリングの体験会に行くかどうかである。ご飯に連れていってもらった時に、ビラをもらってない気がすると言ったところ、じゃあ後であげるよと言われ、断ることもできず、帰り際にBOXへ寄ってビラをもらって帰ったのだった。ちなみにその次の日、講義に出席したところ、同じビラは大量に見つかった。

 そのビラには、4月の終わりから5月にかけてのオリエンテーリングクラブの新歓予定が記載されており、今週末の土曜日も日曜日も体験会があるらしかった。土曜日は吉田山で、日曜日は、円山公園で行われるとのことである。13時までに、4共前の大きな木の下に集合せよ、と記載されていた。

 ひょんなことから迷い込んでしまったオリエンテーリングクラブであったが、運動が苦手でも大丈夫! というあの言葉はどうも誘惑的である。

 安田は、中学高校と運動をしてこなかったわけではない。帰宅部という立派な部活に所属しており、毎日、自宅までの最短ルートを発掘し、最速タイムを出すことに精を出していたのである。部活を辞めた人、していない人が勝手に、自動的に入ることになる部活だが、それはどうでもいい話である。

 もしかしたらあの最短ルート発掘の日々は、このオリエンテーリングをするための前準備だったのではないか、という気がしてきた。いやむしろ、そういう意味しかない、そうでなければ、友人と最短ルートの割出しのために毎日研究の成果を話し合ったあの日々が、おそろしく無意味なものであったことになってしまう。人生に無意味なものなどないのだ。そう思った安田は、これはきっと神様の思し召しにちがいないと自分に言い聞かせ、オリエンテーリング体験会に行くことに決めたのだった。

 どうせなら、公園よりも山の回に参加した方が楽しいだろうと、安田は考えた。あのニーソ美少女のことも気になるが、あの目のキラキラさせ具合から考えると、どうも山の方に参加する感じがする。むしろ全部に出席するかもしれない。物好きもいたものだと思った。


 その週の土曜日と日曜日、4共前の大きな木の下に、安田の姿があった。

読んでいただいて、ありがとうございました。

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