風が吹けば桶屋が儲かる 1
「ねぇねぇ、あそぼ!」
少女が初めて彼と出会ったのはこの世に生を授かり、産まれてから3年目の春の日、病院のベッドの上で吐き気と脱力で苦しんでいた時だった。
白くてふわふわしていて緑色の目をした綺麗な子だった。
小動物の猫のようにとてとてと歩み寄って来て、純真無垢な瞳で少女を見つめている。
きっとこの世には綺麗なモノしか無く、夢と希望に満ち溢れていると言わんばかりの笑顔だった。
――――少女はそれが気に入らなくて、その顔を引っ叩いていた。
当然だった。
まるで世界から祝福されて産まれて来たとしか言えない彼と、短い時間ながらも世界から呪われてきたとしか思えないような人生を歩んできた自身。産まれながらに死に至る病に侵されて毎日苦しんできた少女にとって彼は一目見ただけで大嫌いとしか思えないような相手だったのだ。
薬の副作用で髪は抜け落ち、身体だって骨と皮しか無いかのように痩せている。顔は幽鬼のように痩せこけて目元はくまがある。
親だって見舞いに来ることは無く、むしろ自身のことを疎んでいる。
そんな少女の前に自分とは正反対の存在が現れたのだ。嫌いにならない方がおかしかった。
「びぇえええええええ!」
顔を叩かれた彼は泣き出してしまい、部屋から出て行った。
泣きながら逃げる様を見て、少女は鼻で笑う。
――――どうだ。オレはお前よりずっと強いんだぞ!
後になって「あれは無い」と自分で後悔したが、それでも当時の少女にとっては優越感に満たされた。
産まれてから毎日毎日苦しんで、実の両親は自身の事を疎んでいて、医者や看護師からは憐れられ続ける生活。毎日生きることすら精一杯の自分と親から愛されているあいつとでは違うんだ。
心の中にある罪悪感をそう思い込むことで目を逸らした。
顔を引っ叩いてやったのだからもうここに来ることは無いだろう。
「ねぇねぇ、あそぼ!」
その次の日、先日起こった出来事を全く学習していない様子で彼は再びやってきた。
相変わらず暢気な彼は少女に向かってそう言ったのだ。
少女は怒りに身を任せて殴りかかった。
流石に学習していたのか彼は少女の攻撃を回避する。ニコニコと能天気な笑みを浮かべている彼に更に腹が立ち、再び泣かせてやろうと躍起になった。
しかし何日も何日も同じような事を繰り返すことになり、少女は諦めるしか無かった。所詮根負けというやつだった。
嫌いな奴から訳の分からない奴、愉快な奴といった感じになっていった。
同情せず、憐れみもしない同年代の彼との関係は繋がりが無かった少女に光を与えてくれた。
そしていつのまにか、少女は彼の事を好きになっていた。
こんな化け物のような自分と天使のような彼とは不釣り合いだと分かっていた。
しかし、思いが実らなくても彼と一緒に生きたかったのだ。
――――少女はそこで初めて死にたく無いと心の底から思い、死ぬことに恐怖を抱いた。
泣きながらその事を伝えると彼は笑いながらこう言った。
「ぼくがなおしてあげるよ!!」
+++
「さて、ようこそと言ったところか。それとも初めましてと言ったところか。まぁそこはどうでも良いか。その椅子に座りなさい」
白衣を着た女性に促されるままに僕達三人は椅子に座る。
ついさっきまで怒鳴りちらしていた人とは思えない程に落ち着いている。いや、あれは僕等が悪かったけど。
そんな事を思っていると彼女はインスタントコーヒーを作り始める。
「すまないね。まさかこんな所に来客が来るとは思わなかったよ。ブラックで良いかい?」
「あ、僕はそれでお願いします。ブラックでもいけるので」
「私は砂糖とミルクを入れて下さいな。ブラックは苦手ですので」
「コーヒーとミルクは1対9の割合でお願い、シロップは10個くらいで」
「メーレは注文し過ぎだよ。それ殆どミルクじゃん。すいません、こいつ水だけで十分です」
少なくともそんな甘ったるい味で舌が台無しになったら大変だ。
特に今日の夕飯は僕が唐揚げを作る予定である為、舌をおかしくされたら溜まったもんじゃない。
採れたてのレモンと僕が作った特性マヨネーズを使って美味しく食べる予定だ。何も付けなくても美味しく、レモンの汁を掛けたら酸味が口の中をスッキリさせ、マヨネーズの旨味が唐揚げをよりおいしくする。
他の副菜には採れ立ての生野菜のサラダにドレッシング、大根と人参が入った根菜の味噌汁があるとまた良い。
そして胡瓜の浅漬け、これは欠かせない。典型的な日本男児である僕にとって漬物は決して忘れてはいけない代物だ。
大根や白菜を使った野菜の漬物以外にも松前漬けや河豚の卵巣。そのどれもが最高のご飯のお供と言えるだろう。
いかん、考えただけで涎が出始めた。
「…………この子、どうしたの? いきなり黙り込んでしまったけれど」
「ああ大丈夫ですよ。多分夕飯の献立の事を考えているだけですから」
「夕飯か…………ここ最近栄養剤で済ませてたわね」
「栄養剤だけで済ませるのは身体に良くないですよ。美味しい物を食べることでストレスが発散されますし、何より胃が退化しちゃいますから」
僕が夕飯の事を考えていると西瓜と白衣を着た女性は会話をしながらコーヒーを飲み始める。
コーヒーに毒が入ってるとか疑った方が良いんじゃないか、と思ったが流石に入れていないか。
この人も同じコーヒーを飲んでいるし。コップの内側に薬を塗られてたら一発でアウトだけど、それをする理由も無い筈だし。
最も僕には毒は効かないのだが。メーレに至っては毒が本当に効果を表すかも不明だし。
「さて、っと…………何から話したら良いかしらね? あの子以外に他人とこうして会って話すのなんて本当に久しぶりだから」
女性は困ったように首を傾げる。
西瓜はそんな女性の様子を見てから僕達の方に視線を向ける。
「一先ずは自己紹介をしたいと思います。私は竜胆西瓜と申します。こちらに居る金髪の女子はメーレ・フェレスタ、イタリアからの留学生です」
「どうもよろしくお願いします」
「そしてこっちに居る日本人離れの容姿をしたのが藤原柘榴と言います。全く見えませんがこう見えて男です」
「…………男の子なのにそんな恰好をしていて恥ずかしくないのかしら」
白衣の女性が西瓜の説明を聞いて僕の方に視線を向ける。
どことなくその視線が奇妙な物を見るような目になっていた。
「…………その子、本当に男の子なの? 骨格と体格からして男に見えないんだけど」
「控えめに言っても幼児体系ですわね。ついでに同い年なんですよ」
「………………流石に声変わりくらいはしてないとおかしいわよ。少し身体を診た方が良いんじゃないの?」
「一応大丈夫だと思いますよ。病院に行って診てもらった事もありましたがいたって健康でしたし、一応小学校六年生の時ぐらいに精通だって来ていますので成長が遅いと言うだけらしいですわ」
「待って、一寸待って。なんで、どうして西瓜が僕のそんなことまで知ってるの!?」
病院に行ったことは兎も角、何で僕の精通の情報を知っているのか。僕ですらすっかり忘れていたというのに。
さらりと僕のプライバシーに関わるような事を口走った西瓜の発言に戦慄する。
「いやいや、別に幼馴染なんだから普通じゃ無いですか」
「幼馴染だからって普通は知らないからね!!」
それが普通だったらこの世界はあまりにも怖すぎる。
「それにたかが精通如きでそんな風に慌てなくても良いじゃないですか。女の子に生理というものがあるように、男の子にとっての生理現象なんですもの。別にそこまで気にする必要なんかありませんわよ。貴方が夜中一人トイレに行っていることだって知ってますわよ」
「ピィッ!?」
西瓜の発言に僕は思わず上ずった悲鳴を上げてしまう。
まさか秘密にしていたと思ってたのに、知られていたなんて…………はっきり言って恥ずかしすぎる。
「そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないですか。別に汚いことであるわけじゃ無いんですし」
「いや、駄目でしょ。少なくともそれを西瓜が知ってるのは駄目でしょ。私はシスターだから姦淫に繋がることを良い目では見れないけど、思いを寄せている女の子にそんな事を知られてたら同情するよ。本当に」
「こんな状況で一時の感情に流されて子どもが出来ちゃうよりはずっとマシですわ」
「…………ああ、うん。正論だね、正論かもしれないけどさ…………柘榴からしてみれば笑い話じゃすまされないからね」
女子二人の視線が痛い。実際に痛みがあるわけじゃ無いし、蔑視される訳でも無く同情的な視線だからマシなのかもしれないがそれでも辛い。
「えっと、貴方達っていつもこんな感じなの?」
「そうですわね。風が吹けば桶屋が儲かるという諺があるようにちょっとした話の内容から二転三転と全く意味の無い会話に繋がりますから」
「そう、よくわかったわ。これ以上貴方達に話をさせていたら時間が無駄になってしまうと言う事が」
女性は溜め息をつき、コーヒーに口を付ける。
「私は北条百合子よ。見ての通り医者をしているわ。もしくは科学者でも良いわ。白衣を着ているからそういった仕事をしているというのは分かるわよね」
「そうですわね。何故こんな所に居るのか、ということについて疑問を抱いていますがね」
「それも今、説明するわ。でもその前に一つだけ言わなくちゃいけないことがあるわね」
百合子さんはそう言うと手に持っていたコーヒーカップをテーブルの上に置き、語り始める。
「私は今地上で起こっている異常事態、それを引き起こした元凶の一人よ」




