第5章 神々は扇情と激情の間で
スカーヴァティー。
それは、我々が俗に「極楽」と呼ぶ場所である。すなわち、人間界において生を全うした者が行く場所だ。生命に関わる6つの世界の内の1つである。もちろん人間界も、その6つの世界に含まれている。
スカーヴァティーの中でも、死んだ人間が生活する地域を特にダシュトラと呼ぶ。
そこには人間界と同じような平原があり、丘があり、川があり、湖がある。
一方で、コンピュータやロボットのような文明の利器は存在しない。かなり原始的な生活環境と言っていいだろう。
貧富の差は無く、貨幣制度も存在しない。文明の利器に頼らなければ、死者は現世に近い生活を送ることが出来る。
スカーヴァティーの最奥にはシャムイ山がそびえており、その頂上には広大な庭園がある。
そこは死者の立ち入りが許されない、神々の場所である。
庭園は、四方を細い水路が取り囲むように整備されている。そこを伝う水は、美しく区画された花壇や果樹園に流れ込むようになっている。庭園には地上と同じ果物や草花だけでなく、そこでしか見られないような植物も生い茂っている。庭園の真ん中は広い芝生の区画となっており、そこには銀色の噴水が設置されている。
その庭園で、2人の人物が会っていた。
いや、人ではない。
神だ。
一方は、スカーヴァティーの支配者であるアミターバだ。薄紅色の一枚衣を身にまとい、長く伸びた亜麻色の髪を頭頂部にまとめている。黒目の部分が小さい三白眼と、長く下に垂れた耳たぶが特徴的だ。ただし、その2箇所を除けば、全体的には彫りの浅い顔立ちである。
生命に関わる6つの世界には、それぞれを支配する神がいる。
しかし、それ以外にも神は存在する。
アミターバが会っている相手が、その中の一人であるマハー・ヴァイローチャナだ。
マハー・ヴァイローチャナはアミターバのように統べる世界を持たず、各界の調整役を担当する神である。
そういう意味では、最も上位に存在する神と言っても良いだろう。
彼は紫色の衣をまとい、金色の宝冠や腕輪、首飾りなどで全身を飾り立てている。下膨れで団子鼻、各パーツの作りが大きい顔立ちだ。
「少し強硬すぎたのではないか」
ヴァイローチャナが、重々しく口を開いた。
「何がです、マハー様?」
妖艶な表情を浮かべて、アミターバが聞き返した。
「ナラカとの関係、つまりヤマラージャとの関係だよ」
「ああ、そのことですか」
白々しく、アミターバが言う。
「僕としては、特に問題があるようには思っていませんが」
「しかし、ヤマラージャは随分と憤慨しているようだぞ」
「ヤマ殿下は、血の気が多い方ですからね」
アミターバは微笑む。
「こちらとしては、何も間違ったことはしていません。あの方が怒るのは、見当違いというものですよ」
「とは言っても、スカーヴァティーとナラカの支配者が険悪な関係になるというのは、望ましいことではない。出来ることなら、穏便に解決してもらいたいものだな」
ヴァイローチャナが苦言を呈した。
「それは、あちらが怒りを静めれば済むだけのことでしょう」
「そのためにも、ちゃんと話し合いを持つべきだとは思わないか」
「話し合い、ですか」
アミターバが無表情で言う。
「実は今、ヤマラージャが来ている。お前を糾弾しようとしていたようだが、私がなだめて冷静に話し合うよう勧めた。すぐ近くに待機させている。だから、ここで彼と交渉を持ってはどうだ」
「ヤマ殿下が、ここへ来ておられるのですか」
静かな口調で、アミターバが言った。
「それでしたら、僕としては、話し合うことにやぶさかではありません。どうぞ、お呼びになってください」
「そうか、それは良かった」
ヴァイローチャナは安堵の表情を浮かべ、指をパチンと鳴らした。
その音に反応して、噴水がピタリと止まった。同時に、水面からヌウッと髭面の男が顔を出す。
男はザバッと波を立てて飛び出し、そのまま空を滑るようにツツゥーと浮遊した。そして、ヴァイローチャナとアミターバの元へ到着した。
「ヤマ殿下、お久しぶりですね」
アミターバが、満面の笑みで挨拶をする。
「ああ」
一方の男は仏頂面を崩さない。
彼がヤマラージャだ。
ナラカ、俗に言う地獄の支配者である。
人間界で生を全うした者がスカーヴァティーへ行くと前述したが、あらゆる死者がそうなるわけではない。中には、ナラカ行きになる者もいる。
ヤマラージャは赤に黒のたすき掛けが入った礼服を身に着け、太いカイゼル鬚と揉み上げ、鷲鼻と窪んだ目を持っている。
噴水の中から出現したにも関わらず、彼は全く濡れていなかった。
「私はしばらく席を外すから、じっくりと話し合え」
ヴァイローチャナが言った。
「改めて忠告するまでもないが、ここで争いを起こすような馬鹿な真似はするなよ。特にヤマラージャ、お前は頭に血が昇りやすい性格だからな」
「分かっています。腸は煮えくり返っていますが、手を出すようなことはしません」
ヤマラージャは怒りを抑えながら答えた。
「では、また後でな」
そう言うと、マハー・ヴァイローチャナは顔の前で軽く手を振った。
刹那、その姿はスッと消えた。
仲介者の去った庭園に、緊迫した空気が流れる。
「さてヤマ殿下、話があるそうですが、どのような用件でしょうか。僕の方からは、何も話すことがありませんので」
アミターバは、丁寧な口調で告げた。
「こっちは大有りだ」
対照的に、ヤマラージャは荒っぽい物言いをする。
「一応、確認をしておくが、考えは変わらないのか」
「何のことでしょうか」
「白々しい奴め。俺とお前の契約のことだ。分かっているはずだぞ」
「ああ、あのことですか」
アミターバはすました顔でうなずく。
600万年前、アミターバとヤマラージャは、ある契約を結んだ。
それは、死んだ人間の扱いに関するものだ。
アミターバは、望む者は全てスカーヴァティーに迎え入れようとする考えを持っていた。一方のヤマラージャは、罪を犯した者は全てナラカに呼び込むべきだと考えていた。
そこでの意見の違いは、当然ながら対立を生じさせた。
そのため、ヴァイローチャナが間に入り、アミターバとヤマラージャは契約を結ぶことになった。
契約の内容は、死んだ人間が賽の河原を通って三途の川を渡る際、一定の基準を超えた罪人はナラカに送り、それ以外の人間はスカーヴァティーへ行かせるというものだ。
「欲望を満たすためだけに他人を深く傷付けた者、殺した者、犯した者、奪った者」が、ナラカ送りの基準と定められた。
この契約が結ばれて以降、トゥルダク(死鬼)と呼ばれるヤマラージャの配下達が三途の川で罪人を水中に引き擦り込み、ナラカへ連れて行く作業が行われることになった。
ただし契約締結の際、アミターバが譲らなかったことがあった。
それは、その契約が未来永劫に渡って続くものではなく、あくまでも期限付きにするということだ。
交渉の結果、その期限は600万年と決定した。それは、スカーヴァティーだけに生息するシュレンの花が咲いてから枯れるまでの時間である。
そして半年前、その期限は終了を迎えたのだ。
「あの契約なら、もう切れたはずですが」
アミターバが言う。
「そんなことは言われなくても分かっている。だから、それを見直すつもりは無いのかと、改めて確認しているんだ」
「見直す必要性がありません」
アミターバは穏やかに、しかし決然と言い切った。
「以前にヤマ殿下から契約延長について持ち掛けられた時にも、そうお答えしました。それから考えは変わっていませんよ」
「お前は頑固な奴だな。こっちが下手に出ているというのに、取り付く島も無しか」
ヤマラージャは苦々しげに告げる。
「頑固なのではなく、本来のスカーヴァティーの定義に基づけば、望む人間を全て迎え入れるというのは当然のことです。今までが、おかしかっただけのこと」
「しかし600万年前には、それを受け入れたはずだぞ」
「600万年前も、本来は契約などしたくなかったのです。しかし、あのままではヤマ殿下がスカーヴァティーに戦争を仕掛ける勢いでした。マハー様は、そのことに胸を痛めておられた。そこで仕方なく契約しただけのこと。600万年も良く我慢したと、むしろ誉めていただきたいぐらいです」
「黙れ、勝手なことばかり言いやがって」
ヤマラージャが怒鳴った。
「大体、やり方が汚いぞ。三途の川に行き着くまでの地点に、スカーヴァティーへの一本道を作るとは。おかげで、トゥルダク達は何も出来なくなってしまった」
契約期間満了の数ヶ月前から、ヤマラージャはアミターバと何度か交渉の席を持った。しかしアミターバは延長の申し入れを拒否し、契約終了の翌日にはトゥルダクが立ち入れない地域にスカーヴァティーへの道を作った。
「そうしなければ、頭の悪いトゥルダク達は契約終了を理解せず、死者をナラカへ落とし続けるでしょうからね。実力行使に出るのも仕方がありません」
アミターバは淡々と告げた。
「軟弱そうな顔をして、やることは強硬だな」
皮肉っぽく言うヤマラージャ。
「そちらだって、実力行使に出ているじゃありませんか」
「何のことかな」
今度は、ヤマラージャが白々しい表情で返した。
「僕の口から言わせたいのですね」
アミターバが微笑む。
「あの男のことです。罪人処刑係とでも呼べば良いのでしょうか」
「まあ、そんなところかな」
ヤマラージャは挑戦的な言い方をした。
アミターバがスカーヴァティーへの一本道を作ったと知った時、ヤマラージャは激昂した。すぐにアミターバの元へ乗り込み、どういうことかと詰め寄った。
するとアミターバは平然と対応し、
「もうナラカへ人間を送ることはありませんから、そちらに続く道を歩かせる必要も無いでしょう」
と返答した。
苛立ちを募らせたヤマラージャだが、それは正論と言えば正論である。その時は、とりあえずスカーヴァティーを立ち去った。
しかし、おとなしくアミターバのやり口を受け入れたわけではなかった。ヤマラージャは対抗手段として、死んだ者が賽の河原に来る前の段階で、ナラカへの直通便を作ろうと考えた。
彼は配下を人間界に行かせ、罪人を処刑してナラカへ送り込ませる計画を立てた。
ただし初めてのことなので、想定外のトラブルやハプニングが起きる可能性もある。
そこで、いきなり多くのハンターを送り込むのではなく、まずは実験台として1人だけ誕生させることにした。
ヤマラージャは側近のダクーラを呼び寄せ、適任者についての意見を求めた。
ダクーラに相談したのは、最も信頼する側近ということもあるが、人間界との関わりの深さもあった。
かつてダクーラは小野篁という人間であり、その頃からヤマラージャに仕えていた。そして自ら望んで人間の姿を放棄し、ナラカに属する者となったのだ。
そして、そんなダクーラの推薦によって実験台に選ばれたのが、安登間武浪、すなわち現在のガルティラーマであった。
既存の配下を使わなかったのは、アミターバが動くことも考慮しての判断だ。
人間を直接的にナラカへ送り込む者が現われたとなれば、アミターバも黙っていないだろう。場合によっては、実力行使で排除しようとするかもしれない。
所詮は実験台だということも含めて、使い捨てに出来る存在がいいとヤマラージャは考えたのだ。
「あの男は、いわゆるテストケースだ」
ヤマラージャは不敵な態度で告げた。
「今後は、同様の役割を果たす者を増やしていこうと思っている。それを非難する権利は、そちらには無いぞ。最初に仕掛けてきたのは、そっちだからな」
「非難はしませんよ」
アミターバは冷静な口調で言った。
「僕は望む人間全てを迎え入れるべきだと考えている。ヤマ殿下は罪人全てをナラカに落とすべきだと思っている。一方の考えが正しく、一方が間違っているということはありません。どちらも正しいのです。しかし、残念ながら双方の考えは衝突する。そうなれば、互いの行動が相手にとって不都合なものとなるのも当然と言えましょう」
「お前の態度は、常に見下すようなところがあって気に食わんな」
ヤマラージャが、しかめ面をする。
「おや、そうですかね。僕はヤマ殿下を尊敬しているつもりなのですが」
「いけしゃあしゃあと。まあ、それはいい。それよりも、こんな対立が望ましいとは、俺も思っていない。お前が契約の復活を飲めば、こっちも罪人の処刑を中止する」
「中止の必要などありませんよ。まだ始めて間も無いのですし、せっかくの実験ですから、お続けになるべきです」
「嫌な言い方をする奴だな」
ヤマラージャは眉を吊り上げた。
「本当に、考え直す気は無いんだな」
「ええ」
アミターバは短く返答した。柔和な表情だが、その両目には強い意思が浮かんでいる。
「そうか、分かった」
ヤマラージャは諦めたように言った。
「それなら、もう俺から言うことは無い。今後も罪人の処刑は続けさせてもらう。それでいいんだな?」
「ええ、どうぞお構いなく。ただし」
アミターバが笑みを浮かべながらも、鋭い口調に変わる。
「そろそろ、こちらもスカーヴァティーの定義に基づいた行動を取るつもりです。すなわち、望む人間を全て迎え入れるための行動です。分かっておられますよね?」
「ああ、覚悟は決めている」
ヤマラージャは、いかめしい面構えでうなずいた。
「では、またいつか会おう」
「お互いに、良い立場で再会できるといいですね」
「どちらも良い立場というわけには行くまい」
不快感に満ちた言葉を残し、ヤマラージャは宙を滑ってアミターバの元から去る。彼は噴水の池にスウッと沈み、そして姿を消した。
それを見送り、アミターバはフッと小さく息を吐いた。
そのタイミングで、マハー・ヴァイローチャナが眼前に出現した。
「交渉は不調に終わったようだな」
ヴァイローチャナは、渋い表情で告げる。
「ええ、そうですね」
「ハンターを人間界に送り込むというヤマラージャの挑発的行動は、誉められたものではない。だが、お前の意固地な性格も何とかならないのか」
「性格というのは、簡単には変わりません。しかし、私はそれほど意固地ではないつもりですが」
アミターバが涼しげな表情で言った。
「それで、これからどうするんだ」
「これから、と申しますと?」
「どうせヤマラージャに対して、何か行動を起こすつもりなのだろう」
「さすがはマハー様ですね。何でもお見通しだ」
大げさな感嘆を示すアミターバ。
「茶化すのはよせ」
ヴァイローチャナは、やんわりと注意した。
「こうなることを避けるために話し合いをさせたのだが、どちらも譲る気は無かったか。予想はしていたものの、どちらかが妥協してくれるかと期待したのだが」
「お諦めください、マハー様。ヤマ殿下と私は、存在そのものが対立によって成り立っているようなもの。遅かれ早かれ、こういう形にならざるを得なかったのです」
「出来る限り先延ばしにしてきたが、その時が来てしまったということか。来る時には、あっさりと来るものだな」
妙に感慨深げに、ヴァイローチャナは遠くを見つめた。
それから彼はアミターバに向き直り、険しい顔付きになって告げた。
「こうなっては、もう仕方が無い。しばらくは様子を見るとしよう。ただし、神の掟だけは絶対に守るのだぞ」
「ええ、分かっています」
緩やかに頬を撫でながら、アミターバが深くうなずいた。
「調和を崩さぬよう、人間界において神力を直接には行使しない。その掟は必ず守ります。それに関しては、ヤマ殿下も守っておられますしね」
「うむ。分かっていれば、それでいい。絶対に忘れるなよ。掟を破れば、私も黙ってはいないぞ」
ヴァイローチャナが念を押す。
「ええ」
微笑むアミターバの目の奥で、冷酷な光が妖しく輝いていた。