第4章 木陰の老人は警告と謎を残す
「どういうことですか?」
原田は課長室の事務机をドンと強く叩いた。
そこは転神署である。出勤早々、原田は同僚から捜査に関してあることを聞かされ、抗議するため課長室へ赴いたのだ。
「何を怒っているんだ、原田」
課長の北川浩が、どこか面倒そうな言い方をする。
「あの事件、三奈垣修が殺された事件のことですよ」
「それなら沖田達が捜査に当たっているじゃないか。何を怒ることがあるんだ」
「ありますよ。なぜ俺を担当から外すんですか」
「お前は個人的な感情が先走りすぎて、この事件の捜査には向かない」
北川はキッパリと言った。
「だけど、俺は事件を目撃しているんですよ」
あの怪物が去った後、原田は署に連絡を入れた。彼は目撃した出来事を北川に詳しく語ったが、怪物と言葉を交わしたことだけは黙っていた。捕まえようとしたら姿を消したと、そのように説明していた。
「事件を目撃したのだって、勝手に三奈垣を尾行していたからだろうが。そんな奴に担当させたら、また私情で行動するに決まっている」
「三奈垣が死んだことによって、もう個人的な感情は消えています」
原田は反論した。
その言葉は、ある意味では真実であり、ある意味では嘘だった。確かに三奈垣に対する憎悪は消えたが、別の個人的な感情が沸き出していた。
「私情が無いとしてもだ」
北川は眉をしかめる。
「犯人が怪物だと言い出すような奴に、捜査を任せられるか」
「課長、じゃあ信じてないんですか、俺の言ったことを」
「当たり前だ。何が怪物だ、馬鹿馬鹿しい」
北川は吐き捨てるように言った。
「昨日も言ったが、すぐに休暇を取れ。お前は働きすぎなんだよ」
「違いますよ。疲労やストレスで頭がおかしくなったわけじゃありません。本当に怪物が出たんです」
原田は必死に主張する。
「悪い夢か、あるいは幻覚でも見たんだろう」
「俺だけなら幻覚と言われても仕方ありませんが、村野も目撃しているんですよ」
「その村野だが、見舞いには行ったのか」
北川は話題を逸らす。
「ええ」
原田の表情が曇った。
村野は事件の衝撃が強すぎたのか、精神をやられて入院している。原田も見舞いに行ったが、村野は虚ろな目で何も無い宙を眺め、ほとんど会話も出来ない状態だった。しかも彼はショックの大きさから、事件当夜の記憶を全て失っていた。当然、怪物に関する証言など出来るはずも無い。
つまり、怪物を目撃したと言っているのは、現時点で原田だけなのだ。
「村野は元々、刑事としては心が弱すぎる部分があったかもしれん」
北川が重々しく言う。
「しかし、精神が壊れるぐらいだから、かなり恐ろしい殺人劇だったんだろうな」
北川は、ショックの原因が殺人行為の残虐さにあると考えているのだ。
「だが、どんな殺しであろうと、やったのは人間だ。怪物の仕業だなどと、そんな馬鹿な話で動くほど警察は暇じゃないぞ」
棘のある言葉を述べ、北川は原田を見た。
「その馬鹿なことが実際に起きたんですよ。確かに俺だって、この目で見なければ怪物が出たなんていう話は信じませんよ。でも、実際に見たんですから。それに課長、今まで俺が、事件に関して嘘偽りを言ったことがありましたか。無いはずです」
原田が熱く語る。
「そんなお前が馬鹿なことを言うぐらいだから、やはり働きすぎなんだよ」
北川は、なだめるように言った。
「だから違うと言ってるじゃないですか」
食い下がる原田。
「どうしても休暇を取るのが嫌なら、それは仕方が無い。だが、お前にこの事件を担当させるつもりは無い」
北川は強い口調で断言した。
「しかし課長……」
「もう話は終わりだ。仕事に戻れ」
鋭く言葉を発し、北川は手の甲で追い払うような仕草をする。
まだ何か言おうとした原田だが、北川の態度を見て無駄だと悟ったのか、溜め息をついて背中を向けた。
原田が課長室を出ると、同僚の刑事達が急にバタバタと動き出した。
ドアを開けた瞬間はざわついていたのに、急にお喋りがピタッと止まったことに原田は気付いていた。
(どうせ俺のことを話していたんだろう)
原田は思った。
犯人は怪物だと主張する自分を同僚が白い目で見ていること、そこに哀れみも含まれていることを、彼は分かっていた。
原田は同僚に話し掛けることも無く、そのまま早足で通り過ぎて廊下へと出た。どうせ何を言っても分かってもらえないのだと、原田は諦めの境地に入っていた。
ただし、そう達観したところで、心に溜まった不満の渦が無くなったわけではない。
その苛立ちが、歩くスピードを速めていた。
真一文字に口を結んだまま、原田は転神署を出た。
原田は、単独で捜査をするつもりだった。とりあえず三奈垣修の殺された現場に戻り、周辺で聞き込みをしようと考えていた。
「原田刑事」
脇目も振らず歩いていた原田に、木陰から声を掛けてくる者がいた。
原田は立ち止まり、声の方向へ顔を向ける。
紳士然とした面持ちの老人が、裾を引きずるほどのロングコートを着て、後ろで手を組んで立っていた。
ダクーラだ。
原田は少し考え、その男と面識が無いことを自分の中で確認する。
「どうして俺の名前を?」
「初対面の相手に対して、最初の言葉がそれですか。刑事というのは、その辺りの礼儀を持ち合わせていないようですな」
ダクーラは笑いながら言う。
侮辱された気がして、ただでさえ不機嫌だった原田は、さらに苛立ちを強めた。
「誰だ?何か用なのか」
無愛想に尋ねる原田。
「あの事件からは、手を引いた方が賢明だと思いますよ」
穏やかな口調で、ダクーラが告げた。
「あの事件?」
原田の目が一瞬にして鋭くなった。
「それは、どの事件のことだ」
「聞かなくても、想像が付いているんじゃありませんか」
「いや、分からんな」
相手を探るような視線を向けながら、原田が言う。
「ハッハッ、私の腹を覗こうとしても、それは無駄なことですよ。ただの刑事に見抜かれるほど、私は落ちぶれちゃいない」
ダクーラは余裕の笑みを浮かべた。
「しかし、いいでしょう。何の事件かは、こちらから言いましょう。貴方が想像している通り、三奈垣修という男が殺された事件ですよ」
「俺がその事件を調べていると、なぜ知っているんだ?」
「当然の質問ですね。しかし、それに答えるつもりはありません。まあ、貴方に関して知っていることは、それだけに留まりませんがね」
「手を引けというのは、穏やかじゃないな。何か事件について知っているのか。それとも、お前自身が関わっているのか」
原田は強気な態度を崩さずに聞く。
「それも、お答えしかねます」
ダクーラは淡々と言う。
「犯人のことを知っているんだな。教えろ。奴は何者だ?」
原田が詰め寄った。
「世の中には、知らなくていいこともあるのですよ」
ダクーラが説くように告げた。
「とにかく、身を引いた方が賢明です」
「脅しのつもりなら、俺には通用しないぞ」
「そのような勘違いをするとは思っていましたがね」
小さな溜め息が、ダクーラから漏れた。
「その気になれば、貴方を始末することなど容易い。しかし、そんなつもりは毛頭ありません。私は貴方の身を案じて警告しているのですよ」
「身を案じるだと?」
「いえ、厳密に言うと、私の知人が貴方のことを気にしていましてね。ですから、普通はこんなことをしないのですが、あえて説得に来たというわけです。面倒に巻き込まれる前に、早く手を引いた方がいい」
「その知人とは、誰のことだ?なぜ俺のことを気にするんだ?」
「やれやれ、質問の多い人だ。やはり、余計なお節介だったかな」
ダクーラは苦笑する。
「それらの質問に答えるつもりはありません。とにかく、無駄なことはやめた方がいい。幾ら頑張ったところで、事件の解決には繋がりません。貴方だけでなく、警察如きの捜査では、何も突き止めることは出来ませんよ」
「どういうことだ?ひょっとして事件の背後には、大きな陰謀でも隠されているのか」
「陰謀とは、人聞きの悪い」
「まさか、政府の人間でも関わっているのか」
「政府?これは面白い」
ダクーラは冷笑した。
「何が面白いんだ?」
「政府などと、小さいことを。そんなレベルの話ではないのですよ」
「そんなレベルじゃない?」
原田は、額に皺を寄せた。
「とにかく、手を引きなさい。身の安全のためには、そうすべきです」
そう言ってダクーラは、木の陰にスッと隠れた。
「おいっ」
原田は慌てて捕まえようとする。
しかし彼が木の向こう側に回り込んだ時、そこにダクーラの姿は無かった。
「何っ?」
驚いて原田は周囲を見渡した。
だが、野良犬がのんびりと歩いているだけで、どこにもダクーラはいなかった。
「どうなってるんだ、あの怪物と言い、今の爺さんと言い……」
原田は、額に手を当てて考え込んだ。