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第3章 安登間武浪の最後の砦、それは心(2)

 「ご苦労だったな」

 俺が住処に戻ると、ダクーラが待っていた。

 「一応、言われた任務は果たすさ」

 そっけなく言葉を返し、俺は床に座る。


 俺の住処は、黄土色の無機質な立方体だ。10立方メートルの空間は、もちろん部屋と呼んでもいいのだが、それよりも立方体と表現した方がしっくり来る。

 そこには装飾品が何も無い。テレビやビデオはもちろんのこと、机や椅子、棚なども置かれていない。本当に、何も無い空間なのだ。

 だが、そのことに不満は無い。そもそも、ダクーラは色々と設備を整えてくれるつもりだったのを、俺が断ったのだ。


 どうせ今の自分は、楽しんで日々を過ごすような気にはなれない。だったら、眠ること以外、この場所には何の価値も要らない。むしろ何も無い方が、変貌してしまった自分に溺れず、自制心を持ち続けることが出来るような気がしていた。

 俺は特に意味も無く、壁を見つめた。住処には何の設備も無いだけでなく、窓さえ無い。それどころか、扉さえ付いていない。

 普通の感覚では、扉の無い部屋など有り得ない。なぜなら、中に入ることが出来ないからだ。しかし俺もダクーラも、扉が無くても中に入ることが出来る。それに、この立方体が存在する場所そのものが、普通の人間が持っている感覚を超えている。

 そこは地獄の一部なのだ。



 「派手な殺人だったな、ガル。今までとは大違いだ」

 ダクーラはニヤニヤと笑う。

 「もっと派手にやれと、お前が言ったんだろうが」

 「そうだ。アピールとしては、派手にやった方がいいからな」

 「何に対してのアピールなんだよ」

 それについて、俺は何も聞かされていない。ただ派手に殺せと命じられただけだ。

 「まあ、いいじゃないか」

 ダクーラは鼻を軽くこすりながら言う。


 「そう言えば、目撃者がいたようだな」

 「ああ」

 俺は短く答えた。しらばっくれるつもりは無い。どうせダクーラは、その気になれば俺の行動を全て把握することも可能なのだろうし。

 「別に、殺しても良かったんだぞ」

 ダクーラは、すました顔で口にする。

 「殺す理由が無い」

 「理由ならあるぞ。罪を犯した人間だから、ナラカへ送るには何の不都合も無い」

 ダクーラは地獄のことをナラカと呼ぶ。それが彼らの世界での正式な名称らしい。

 「あいつらは刑事だぞ。むしろ犯罪者とは真逆の立場にいる」

 「刑事だから犯罪者ではないという論理には、賛同しかねるな」


 「だったら、何か凶悪犯罪に加担しているとでも言うのか」

 「凶悪な犯罪者だとは言っていない。しかし、どんな人間でも必ず一生の内に何かしらの罪を犯すものだ。そういう意味では、あの連中も犯罪者と言える」

 「信号無視とか、その程度のことを言っているのか」

 「何かしらの罪という意味では、例えば蟻を踏み潰したり、小さな蜘蛛をトイレに流したり、そういうものも含まれる」

 「そこまで行ったら、誰もが犯罪者ということになる」

 「その通り」

 ダクーラは落ち着いた口調で認めた。


 「しかしダクーラ、お前が俺に指示したのは、凶悪な犯罪者、どうしようもない悪党を地獄へ送ることだったはずだ」

 「どうせ1人でやれる仕事など限られている。だから、ある一定の基準を決めておいた方がいいと思ってな。しかしナラカが罪人を裁く場所だと定義すれば、全ての人間が送り込まれて然るべきという考え方も出来なくは無いわけだ」

 平然と、ダクーラは恐ろしいことを語る。

 「本気で、そんなことを思っているんじゃないだろうな」

 俺は凄んだ。

 「だったら、水夕も地獄に落ちるのか。それなら、俺が言いなりになる意味も無い」

 「ハッハッ、慌てるな、ガルティラーマ」

 ダクーラは軽快に笑った。

 「あくまでも、1つの考え方を示しただけだ。実際、ナラカに軽微な犯罪者を迎え入れたことなど無い。それに、目撃者を殺しても構わないと言ったが、それも冗談だ」

 「冗談だと?」

 どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、それを判断することが俺には困難だった。ダクーラの心は深すぎる。何を考えているのか、未だに良く分からない部分が多い。


 「心配するな。水夕さんをナラカに迎え入れるようなことは無い。お前が我々の指示に従っている限りはな」

 「俺も約束を守っているんだ、そっちも裏切るなよ」

 「分かっている。そんなことよりも」

 ダクーラは話題を変える。

 「仕事の前に、ある場所へ行っていたな。ああいう余計な道草は、どうかと思うぞ」

 「あれは道草じゃない」

 俺はすぐに言い返した。

 「ガルよ、仕事以外で外出するなとは言わない。たまには羽を伸ばしたいこともあるだろうし、目立たない程度になら、どこへ行くのも自由だ。しかし、無意味な行動を取ることが、どうにも理解できなくてな」

 「無意味だと?」

 「そうだ。こっそりと水夕さんを観察するのは、無意味だとは思わないか?」

 ダクーラが、ズバッと俺の心に切り込んだ。

 俺は、しばし沈黙する。

 確かに俺は、水夕を見に行った。微笑む顔、しなやかな腕、美しい足、豊満な胸、突き出た尻。彼女の全てを、離れた場所から静かに眺めていた。


 「それの、何が無意味なんだ?」

 俺は憤りを抑えながら尋ねた。

 「とっくに別れた奥さんを密かに覗き見て、そのことに意味があるというのなら、それを教えて欲しいものだな」

 冷淡に言うダクーラ。

 俺は反論の言葉を探したが、脳内の引き出しを全て開けても見当たらなかった。

 「まだ会えるのならともかく、お前は彼女に姿を見せることさえ出来ないんだぞ」

 ダクーラが次の矢を放った。それは俺の心の真ん中を的確に貫く。


 そんなことは、言われなくても分かっている。すっかり醜く変貌した今の俺は、彼女の前に現れることなど不可能だ。

 いや、どうせ変貌する前から、彼女に会うことなど諦めていた。その気持ちは、変貌する以前も以後も変わっていない。

 何しろ、彼女と別れた後の俺は、ずっとホームレスをしていたのだから。

 そりゃあ、そんな姿を見せられるはずも無い。



 水夕と別れたのは、5年前のことだ。それまでの俺は、ITベンチャー企業を設立し、社長として会社を大きく成長させていた。起業の直前に結婚した水夕には、随分と苦労も掛けた。会社を立ち上げた当初は業績が上がらず、多額の借金を抱えることになったからだ。しかし、苦しい時期を共に乗り越えることで、夫婦の絆も深まった。

 起業から3年が経った頃、会社は大口の契約を掴み、そこから一気に業績が上向きになった。その半年後には借金の返済にもメドが付き、それ以降はトントン拍子だった。予想以上の急成長に、笑いが止まらないとはこのことだと実感したものだ。

 だが、調子に乗っていた俺は、すぐ近くに潜んでいた罠に気付かなかった。俺が全幅の信頼を置いていた専務が、その機会を伺っていたとは全く気付かなかった。気付いた時には、もう遅かった。彼は中国資本の大手企業と手を組み、俺の会社を乗っ取ったのだ。

 その男は、大学時代からの親友だった。会社が軌道に乗った頃に、別のIT企業で働いていた彼が「一緒にやりたい」と熱心に売り込んできたのだ。


 男の申し出を、俺は喜んで承諾した。それ以前から彼とは頻繁に会っており、共に頑張ろうと励まし合った仲間だったからだ。

 俺にとって、彼は何でも話せる一番の盟友だった。だから完全に信用し、会社の重要ポストを任せたのだ。それだけに、裏切られたショックは生半可なものではなかった。そこに怒りは無かった。ただ、ひたすら悲しかった。虚しかった。

 地位も財産も一気に失った俺は、誰も信用できなくなり、そして何をやる意欲も失ってしまった。俺は印鑑を押した離婚届を残し、家を出た。俺を知っている人々の前から、姿を消したかったのだ。

 今後どうするかなんて、何も考えていなかった。

 ただ、今いる場所から逃げ出したかったのだ。


 一銭も持たずに飛び出したため、初日から俺は公園で夜を過ごすことになった。

 それまでの人生で、俺は野宿さえ経験したことが無かった。しかし自分でも意外なほど早く、俺はホームレス生活に順応していった。

 今になって考えると、あの程度のことで、なぜ逃げ出したんだろうと思う。また一からやり直せば良かっただけのことだ。人生なんて、何度でもやり直しが出来るのだ。

 あの頃の自分は、あまりに心が弱すぎた。皮肉なことに、人殺しの怪物と化したことによって、それを痛烈に感じている。

 きっと水夕だって、俺を見て苦しんでいたはずなのだ。

 しかし、そんな彼女を置き去りにして、俺は情けなくも逃げ出してしまったのだ。

 水夕のことは、ホームレス生活に突入してからも、もちろん完全に忘れることなど無かった。しかし時が経つにつれ、彼女の顔や姿が、記憶の中で徐々に薄れていったのも確かだった。もう心の中から存在を抹消してしまおうと思うようにさえなった。

 そう、ダクーラが現われるまでは。



 「俺は……水夕が心配なだけだ」

 引き出しの隅に、俺はようやく言葉を見つけた。

 「彼女がずっと元気でいるかどうかを、確認したいだけだ」

 「それは、私を信用していないという意味にも取れるな」

 ダクーラは眉間に皺を寄せる。

 「契約は守ると言ったはずだ。彼女の命を救うのと引き換えに、お前が我々に従うというのが契約内容だ。だから彼女は何の心配も無いし、病気の再発も無い」

 「絶対に、再発はしないのか」

 「ああ、大丈夫だ」

 ダクーラは大きくうなずいた。


 俺はペンダントに視線を落とした。

 外見において、かつての自分が残っている唯一の場所が、そのペンダントだった。

 視線の向こう側に、俺は水夕の幻影を思い浮かべていた。

 彼女が病院のベッドで苦しんでいた、あの時の姿を。


 ***


 ダクーラが俺の前に現れたのは、半年ほど前の夜だった。その時は裾を引きずるほどのロングコートを羽織って足を隠していたため、普通の人間に見えた。

 彼は開口一番、別れた奥さんが不治の病で苦しんでいる、難病で医者もお手上げだ、余命は1ヶ月だと俺に説明した。

 最初、俺はただ戸惑うだけだった。いきなりやって来た見知らぬ男にそんなことを言われても、信じられるはずもない。だが、水夕が病気で死ぬと言われれば、もちろん心穏やかでもいられない。

 するとダクーラは、証拠を見せてやろうと言った。


 彼は俺を連れて病院へ赴き、担当医に引き合わせた。なぜか医師は、ダクーラを水夕の親族として認識しているようだった。ダクーラは俺を息子だと紹介し、水夕の病気についての詳細を話すよう求めた。

 みすぼらしい俺の姿に戸惑いつつも、医師は説明を始めた。普通なら警戒して個人情報を教えることは拒みそうなものだが、彼は平然と明かした。後から考えれば、ダクーラが何か特殊な力でも使っていたのかもしれない。

 医師の口から、水夕が数万人に1人の奇病であるケムコート病に罹っていること、それが治療法の発見されていない死の病であること、余命が長くないことが語られた。

 そんなことを、信じたくは無かった。だが、水夕が薬で眠っている病室をこっそり覗き込んだ時、信じざるを得なくなった。

 あの美しく若々しかった水夕が、別人のように痩せ衰えていた。頬は削げ落ち、肌は鉛の如く変色し、まるでミイラのようになっていた。その寝顔は苦渋に満ちており、救いを求めるかのように口がパクパクと小刻みに動いていた。


 ベッドに駆け寄りたい衝動に、理性がストップを掛けた。彼女に合わせる顔など無いはずだと、心の中の俺が襟首を掴んだ。

 とにかく、水夕が重い病気だということは、事実として受け入れねばならなかった。

 俺は医師の元へ戻り、助かる方法は無いのかと詰め寄った。だが、医師は力無く首を振り、何の術も無いことを語った。

 医師の部屋を出た俺は、途方に暮れた。ロビーの長椅子に座り、肩を落とした。

 すると、ダクーラが声を掛けてきた。

 助かる方法が無いわけではないと、彼は言った。


 その言葉に、俺は飛び付いた。

 別れたとは言え、水夕は妻だった女だ。それに、嫌いになって去ったわけではない。そして5年ぶりに顔を見たことで、今も彼女への愛が変わっていないこと、むしろ強くなっていることを自覚した。

 彼女を救う方法があるなら、それに飛び付くのは当然だ。

 「こちらの指示に従い、契約を結べば彼女を救える」

 ダクーラは、そう言った。

 どうやって水夕を救うのかと、俺は尋ねた。

 ダクーラはいかにも簡単だという風に、病気の源を排除するだけだと告げた。それは特殊な方法であり、通常の人間では不可能だと説明した。


 冷静な判断能力を失っていた俺だが、まるで詐欺商法のような誘い文句には、さすがに引っ掛かるものを感じた。

 それを察知したのか、ダクーラは意味ありげな笑みを浮かべながら、

 「証明しよう」

 と口にした。

 彼はツカツカと病室に入っていき、水夕のベッドの傍らに立った。

 「何をするつもりだ」

 俺は思わず、病室のドアを開けて中に入った。しかし水夕が目を覚ますことを恐れ、ベッドには近付けなかった。部屋の隅に隠れるようにして、様子を伺った。


 おもむろに、ダクーラは水夕の顔に右手をかざした。

 すると、彼女の口から薄黒い煙のようなものがモクモクと噴き出した。いや、噴き出したと言うより、ダクーラの手が水夕の中から吸い出したと言った方がいいだろう。

 ダクーラの掌は、掃除機のように煙を飲み込んでいった。

 そして10秒ほどで、その行為は終了した。

 ダクーラは自信に満ちた表情で俺を見ると、水夕を指し示した。

 「さあ、どうかな」

 そう言われて、俺は水夕の顔を見た。

 驚愕だけが、ひたすらに俺を支配した。

 あれほど痩せこけていた水夕の頬に、次第に滑らかな曲線が戻っていく。肌には健康的な赤みが差し、あっという間に彼女は俺が知っていた頃の壮麗な美女に戻った。苦渋の皺は消え、安らかな寝顔に変わった。

 医学的な説明が無くても、水夕が健康を取り戻したことは明らかだった。


 「その気になれば、こんなことは造作も無い」

 ダクーラは悠然と言った。

 だが、俺が言葉を発しようとした時、彼の顔に冷徹が混じった。

 「今のは、あくまでも証明のための行為だ」

 そう言うと、ダクーラは再び水夕の顔に手をかざした。今度は、掌から煙が水夕の口に目掛けて放出された。

 「おい、やめろ」

 俺は部屋の隅から飛び出したが、煙は全て水夕の中に送り込まれてしまった。

 一瞬にして、彼女は病身に戻った。

 「まだ契約を結んでいないのでね」

 ダクーラは粛々と言った。

 「こちらの言う通りにする、全ての指示に従うという契約をしてくれれば、今のように彼女から病気を取り除こう」


 その恐ろしい勧誘に、俺は躊躇無く乗った。

 目の前で見た奇跡のような現実が、思案というステップを省略させた。

 まるで悪魔の誘いだったが、水夕を救えるのなら何でもする決意は容易に固まった。

 ただし、その契約が人間界を超越するものだとは、予想もしなかったが。


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