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第2章 漆黒の闇を切り裂く地獄の異形

 「あの野郎、いつまでブラブラする気だ」

 原田開慶はらだ・あきよしは眉を吊り上げ、小声で言った。

 濃紺の背広に身を包み、彼はひっそりと静まり返った深夜の街にいる。


 そこは神奈川県転神市の西の外れ、住宅地が途切れて田園地帯へ向かう途中の道だ。

 転神市は、県の南東部にある2つの市が合併して出来た、比較的新しい市である。北部は豊かな地域が多く、南部には寂れた田舎が広がっている。そのような色分けがあるのは、合併前の2つの市の経済状況がそのまま残っているためだ。


 原田は43歳、転神署捜査一課の刑事である。角ばった輪郭にアイロンパーマ、太い眉に割れた顎、いかにも叩き上げっぽい風貌だ。

 そして実際、彼は叩き上げの刑事である。

 ただし、幾らノンキャリアでも、43歳で巡査部長止まりというのは、御世辞にも昇進のスピードが速いとは言えない。

 しかし、彼は能力が低くて昇進試験に落ちているわけではなく、そもそも出世に興味が無いのだ。

 警部補になるための試験勉強に時間を割く暇があったら、事件解決のためにエネルギーを使いたいというのが彼の考え方だった。


 「原田さん、もうそろそろ帰りませんか」

 傍らにいる村野義男むらの・よしおが、遠慮がちに言った。

 村野は28歳、原田と同じく転神署捜査一課の刑事だ。一課に配属されて1年目の若手である。やや優しすぎる部分があり、それが精神的な弱さに繋がることも見受けられる男だ。

 しかし原田は彼の成長に期待しており、厳しくも暖かく見守っている。

 「奴も随分と酔っているようですから、今日は何もしませんよ」

 そう言って村野は、前方を上機嫌で歩く男に目を向ける。


 「奴」と表現したのが、その男である。

 サイドを大きく刈り上げた短髪で、黄色いTシャツにジーンズという姿だ。がっしりとした体付きで、身長は180センチを超えている。丸めたスポーツ新聞を右手に持ち、それを振り回しながら歩いている。

 男は三奈垣修みながき・おさむ。年齢は35歳。未成年の女性ばかりを狙った連続強姦事件を起こして逮捕され、12年の刑期を終えて出所したばかりの男である。三奈垣の懲役は18年だが、仮出所が認められたのだ。

 原田は三奈垣の出所を知り、村野と共に昼間からずっと彼を尾行している。


 「いや、安心は出来ん。酔っ払ったことで、逆に性欲が高まる可能性もある」

 原田は厳しい顔で言う。

 「しかし先輩、そもそも奴を尾行すること自体、勝手にやっているわけですし」

 その通りで、2人は上司の指示で動いているわけではなかった。原田が独自で行動し、それに村野を付き合わせているのだ。


 「三奈垣が再び罪を犯すのは確実だから、マークすべきだと俺は主張したんだ。それなのに課長は相手にしなかった。だったら、勝手にやるしかない」

 「しかし……」

 何か言おうとした村野を遮り、原田は囁くように言葉を続ける。

 「あんな鬼畜の仮釈放が、なぜ簡単に認められるんだ。そもそも、あいつを釈放することが間違いなんだ。ずっと刑務所に放り込んでおくべきだ。歪んだ性癖は更生不可能だ。奴は必ず、またやるぞ」

 「それはそうかもしれませんが、今日は何も無いんじゃないですか。この辺りは人通りもありませんし、もう外を出歩く女性もいないような時間ですし」

 村野は腕時計に目を落とし、深夜1時を回っていることを確認する。

 「それに、今後も奴をずっと張り込むわけには行きませんよ」

 「そんなことは、言われなくても分かってる」

 原田は刺々しく告げた。


 村野の指摘を受けなくても、原田は現実を理解していた。

 明日以降も、ずっと三奈垣を尾行し続けることは出来ない。

 それならば、今日だけ夜遅くまで尾行することの意味など無いのではないか。

 しかし、そんな思いも頭の隅に存在していたが、それでも原田は何かをせずにはいられなかった。

 それには、特別な理由があるのだ。



 かつて原田は三奈垣の事件を担当し、そして彼を逮捕した。

 捕まった当初は無実を主張していた三奈垣だが、犯行現場に残された指紋や毛髪という動かざる証拠を突き付けられ、自分がやったことを認めた。

 それから彼は開き直ったかのように、自身の犯行を嬉々として語り始めた。どうやって少女を犯したのか、被害者はどんな様子だったのかを詳しく説明した。反省する様子は全く無かった。女どもに性の悦びを与えてやったのだと、三奈垣はうそぶいた。

 三奈垣の証言によって、それまでに警察が特定した8名以外にも大勢の被害者がいることが判明した。


 その中の1人、17歳の少女は、強姦された翌日に自殺していた。

 そのことを原田が伝えると、三奈垣は

 「また機会があれば犯してやろうと思っていたのに、残念だ」

 と笑いながら言った。


 そんな男を、野放しにしていいはずがない。

 法律が三奈垣を再び外の世界に放ったのであれば、また法律に基づいて刑務所に逆戻りさせるしかない。そのためには、罪を犯す現場を押さえねばならない。

 出来ることなら、早く三奈垣には行動を起こして欲しい。

 そして、すぐにでも刑務所に送り返したい。

 そんな風に、原田は思っていた。



 三奈垣が犯行に走りそうな気配が、全く無いわけではなかった。

 尾行を始めてすぐ、彼は通りすがりの少女に目を奪われた。彼女の後を追い、公園で男友達と喋っている様子を、物陰から興味深そうに観察していた。

 だが、しばらくすると彼は公園を離れた。コンビニでスポーツ新聞を購入し、大衆食堂で夕食を済ませ、居酒屋に入った。

 そこでビールと日本酒を飲み、別の店をハシゴした後、いい気分になって歩いているというのが今までの行動だ。

 陽気に鼻歌まで歌っている三奈垣は、原田達の尾行には全く気付く気配が無い。


 三奈垣は邪魔になったのか、持っていたスポーツ新聞を無造作に捨て、そのまま歩いていく。

 原田と村野は、落ちた新聞を避けて尾行を続ける。

 原田は、紙面にある『園窪伊予次の殺害はプロの仕業か』という小さな見出しをチラッと見やった。

 園窪伊予次とは、毒薬を散布した無差別殺人事件を起こし、逃亡していた凶悪犯だ。

 しかし2日前、海辺の小屋で他殺体となって発見されたのだ。



 周囲は人家が途切れ、街灯も少なくなり、ますます闇が濃くなった。

 三奈垣の鼻歌は音量が上がり、それが原田の神経を逆撫でした。

 「三奈垣の野郎、どうせまた強姦するのは絶対なんだから、さっさと動きやがれ」

 原田はイライラを抑えるため胸ポケットのシガレットケースに手を伸ばすが、中身は空になっていた。


 「おい村野、煙草、持ってるか」

 「いえ、禁煙中なので」

 「なんだよ、長生きしたいのか」

 「そういう意味で禁煙したわけでは……」

 返事をした村野は、言葉を途中で切った。

 「先輩、あれは」

 村野が前方を指差す。

 「むっ?」

 原田が眉をしかめ、凝視する。

 彼らの見つめる方向で、奇妙な現象が起きていた。

 三奈垣の前方に、黒い球が出現したのだ。


 原田と村野は曲がり角まで下がり、塀の陰に隠れて様子を窺う。

 その球は、三奈垣の身長と同じぐらいの高さで空中に浮かんでいた。そして、あっという間に大きくなり、一気に直径3メートルほどに膨張した。

 三奈垣もそれに気付き、鼻歌と歩みを止める。

 「ふわあ?」

 気の抜けたような声を出し、彼は黒い球を眺めた。

 「あれは……穴?」

 原田がつぶやいた。

 そう、それは球ではなく、丸い穴であった。

 空中に浮かんだ、大きな穴であった。


 「おいおい、誰だ、こんな場所に妙な物を置いたのは」

 三奈垣は、ニタニタしながら穴に近付こうとした。

 その時。

 穴の中から、何かがスッと現れた。

 それは人間に似ていると言えば、言えなくも無かった。

 だが、とても人間に見えないことも確かだった。


 その二足歩行の生物はアスファルトを踏み締め、三奈垣の前に仁王立ちとなった。すると後方にある穴は、夜に吸い込まれるように消えた。

 村野は口をポカンと開き、恐怖と驚愕の入り混じった表情で固まっている。

 その隣で原田もまた、固まっていた。

 原田の視線は、穴から出現した生物に釘付けとなっている。

 「なんだ、あれは……?」

 原田の動揺は、声に震えを生じさせた。


 現われたのは、身長2メートルほどの人間型生物だった。

 その顔は、全体的な造形としては虎や豹に近い。ただし、頭からは短く太い2本の角が生えており、側部に位置した耳はピンと尖っている。

 顔と体は、青い鱗に覆われている。ただし両腕に鱗は無く、黒光りするゴムのような皮膚に覆われている。脚部もまた鱗が無く、焦げ茶色の獣毛に覆われている。足の先は、まるで獅子のようになっている。

 「化け物……」

 原田が、またつぶやく。


 しかし原田や村野のような畏怖の感情は、三奈垣には芽生えなかったようだ。酒のせいで、かなり気分が高揚しているのだろう。

 「なんだよ、テメエ。変なヌイグルミなんか着て」

 笑いながら、彼はその怪物に近寄った。

 「仮装パーティーにでも行くのか。だったら、俺も連れて行ってくれよ」

 そんな三奈垣の態度に対し、怪物は無表情のままで口を開いた。

 「三奈垣修、お前は醜悪な犯罪者だ」

 「むっ?」

 その言葉に、三奈垣の顔からスッと陽気さが消える。


 「テメエ、何を言ってやがる。誰だ?」

 三奈垣は憤慨を込めた言葉を投げた。

 しかし怪物はそれを無視するかのように、淡々と告げる。

 「今すぐ、地獄に落ちてもらおう」

 「冗談じゃねえぜ」

 言うと同時に、三奈垣は腹立たしい相手を突き飛ばそうと右腕を伸ばした。

 しかし彼は、逆にヨロヨロと後方へ下がるハメになった。怪物が、頑強な鎧の如き胸部に力を込めて三奈垣の腕を弾いたため、反動で押し戻されたのだ。


 「くそっ」

 三奈垣は前進し、今度は怪物に殴り掛かる。

 右の正拳が、怪物の腹部へ向かった。

 逮捕されたことで破門になったものの、三奈垣は道場で黒帯を締めていた空手の有段者である。その拳は、コンクリートのブロックを叩き割る破壊力を持っている。酒が入っているとは言え、普通の人間であれば一撃で病院送りだ。

 だが、怪物は全く避けようとせず、そのままの体勢で拳の直撃を心臓部に受けた。

 三奈垣は、かわす暇さえ無かったのだと解釈した。相手の急所を捉えたと確信し、不敵に笑った。

 「このボケが」

 罵声を浴びせる三奈垣。

 その顔が引きつるまでの時間は、2秒足らずだった。

 怪物は激しく倒れ込むこともなく、痛みに苦悶することもなく、平然と三奈垣を見下ろしていたのである。


 「お前如きに、俺は倒せない」

 怪物は無感情に言い放った。

 「なっ!どういう体なんだ?」

 三奈垣は一歩後退し、有り得ないといった表情で首を横に振った。

 自分でも、酔いゆえに少しぐらいパワーが落ちるだろうとは思っていた。

 だが、それでも一撃でノックアウトしてしまうだけの自信はあった。

 その自信は、あっけなく崩壊した。


 「テメエ、何者だ?」

 三奈垣は強がった態度で尋ねる。

 「お前を地獄へ落とすために、やって来た男だ」

 「そうじゃなくて、名前とか役職とか、そういうことを説明しろよ」

 「それを知ったところで、お前の未来には何の影響も及ぼさない」

 「くそっ、誰だか知らないが、そう簡単に死んでたまるかよ。せっかく念願のシャバに出てきたんだぜ」

 三奈垣は弱気を振り払い、自分を奮い立たせた。


 シュッと鋭く息を吐きながら、彼は右の上段回し蹴りを繰り出した。しかも、途中までは中段のモーションで、急に上を狙うという変則のキックだ。

 怪物は視線を全く動かさず、左手をスッと上げた。うるさい蚊を追い払うかのように、手首を返して左腕を軽く振った。

 その動きが、たったそれだけの動きが、三奈垣の全力を込めた回し蹴りを、いとも簡単に払い落とした。

 「へっ?」

 右脚の着地を確認し、三奈垣は驚愕した。

 まず、変則蹴りの動きを、視線も向けずに見抜かれたことに驚いた。

 そして、それを軽く弾き返されたことにも驚いた。


 ようやく三奈垣は、相手が着ぐるみ姿などではなく、異形の怪物であると理解した。同時に、圧倒的な強さを保持していることも認識した。

 彼は、酒で忘れていた恐怖という感情を取り戻した。

 それは、たちまち全身を支配した。

 「抵抗するだけ無駄だ。おとなしく地獄に落ちてもらおう」

 怪物は抑揚の無い声で告げる。

 三奈垣は焦燥の中で心を迷走させた。

 これは勝てない。こんな化け物には勝てない。俺は負ける。そして殺される。

 三奈垣の動悸は激しくなる。その音がやけに大きく聞こえる。



 原田と村野は、その様子をしばらく観察していた。

 村野は脅威に包まれて体が縮こまり、原田に寄り掛かっていた。

 だが、戦いが始まったため、村野は怯えながらも行動を起こそうとした。

 「は、原田さん、行きましょう」

 彼はそう言って、ガタガタと震える手で拳銃をホルスターから抜いた。

 しかし、飛び出して行こうとする村野を、原田が制止した。

 「待て」

 「ど、どうしてです?」

 「いいから、待つんだ。もう少し様子を見よう」


 原田は、村野の疑問に対する明確な答えを出さなかった。

 あえて誤魔化したのではない。

 彼自身、なぜ止めたのか、良く分からなかったのだ。

 原田の中には、妙な感情の高ぶりがあった。それは、どこか興奮に近いものだった。

 彼は怪物をじっと見つめた。良く見ると、怪物の胸元には、その容貌とは不似合いと思えるペンダントがあった。そのトップには、釣鐘のような形状をしたステンレス製の装飾品が付いている。



 怪物は三奈垣を見据え、一歩近付いた。

 三奈垣は、今すぐに逃げ出したかった。

 だが、足がすくんで動けなかった。

 知らぬ間に、彼は失禁していた。膝の震えが止まらなかった。立っているだけで精一杯だった。自分が何をすべきなのかも、もう分からなくなっていた。パニックになっていた。

 「ええい、もう」

 三奈垣は半ば捨て鉢で、右の正拳を突き出した。

 もはや、空手の有段者としての技術は失われていた。

 全く腰の入っていない、軟弱なパンチだった。


 怪物は黒い左腕をスッと上げ、掌で三奈垣の握り拳を包み込んだ。そして無言のまま、彼の手首をグイッと捻った。

 メシッ。

 嫌な音がした。

 「ギャッ」

 三奈垣が甲高い悲鳴を上げた。

 右肘の関節が、通常とは逆の方向へ折れ曲がっていた。そこから骨が無残に飛び出していた。

 思わず、その場にへたり込む三奈垣。

 左手で右肘を押さえる。

 ブランブランと頼りなく揺れる右腕。

 剥き出しになった骨。


 「なんだよ、なんだよ」

 泣きそうな顔で、三奈垣は同じ言葉を繰り返す。

 構わず、怪物は右腕を伸ばし、三奈垣の肩をグッと掴んで立ち上がらせた。三奈垣の体重は90キロ以上あるのだが、怪物は片手で簡単に持ち上げてみせた。

 「地獄へ行け」

 感情の無い言葉を告げ、怪物は右手で三奈垣の顔面を鷲掴みにした。

 「何、何、何?」

 大きな掌で視界を遮られた三奈垣は、激しい動揺のため早口になった。彼は抜け出そうともがいたが、まるで万力で固定されたかのように頭は動かなかった。


 怪物は右手の関節を少し曲げ、軽く力を入れた。

 彼の五指が、三奈垣の頭にめり込んだ。

 指の間から、赤黒い液体が垂れ落ちた。

 三奈垣の血である。

 「ぐげぅぅぅ……」

 三奈垣は、日常生活では有り得ない言語を呻き声として発した。その体が、ブルブルと小刻みに震えた。

 怪物は指先に集中し、一気に力を込めた。

 右腕の筋肉が、隆々と盛り上がった。

 グシャッ。

 あっけなく、まるで熟した桃か何かのように、三奈垣の頭は潰れた。脳髄や肉片が散らばり、地面には血の泉が出来た。

 頭部を失った三奈垣は、膝からゆっくりと崩れ落ち、腹から赤色の中に沈んだ。

 怪物はむごたらしい骸を見下ろし、手に残った眼球に気付いて、それを無造作に捨てた。



 惨劇に釘付けとなっていた原田は、隣に目をやった。

 そこでは異臭が発生していた。

 村野が嘔吐したのだ。

 そして彼は、嘔吐した直後に失神した。

 原田は、吐瀉物の中に倒れ込もうとする村野を支えた。

 その体勢のまま、原田は再び怪物に視線を戻した。

 刹那、彼の顔がビクッと強張った。

 怪物と視線が合ったのだ。


 「く、くそっ」

 原田は村野を道路に横たえて、慌てて拳銃に手を掛けた。

 しかし構えようとした時、その照準は目標を上手く捉えることが出来なかった。

 村野を横たえるため、わずか1秒ほど目を離した間に、標的は予期せぬ場所に移動していたのだ。

 「うおっ」

 原田は体を強張らせ、一歩後退した。

 「先程から、とっくに気付いていた」

 怪物は低い声を発した。

 原田の50センチ先に、怪物は瞬時にして接近していた。


 「な、何のことだ?」

 平静を装って、原田が尋ねる。

 「お前はたぶん、俺と目が合った時に気付かれたと思っているはずだ。だが、そうではない。お前達が張り込んでいることに、最初から気付いていた」

 「三奈垣の次は、目撃者の俺達も殺そうってわけか」

 「いや、殺す理由が無い」

 怪物は頭を横に振る。


 「だったら、三奈垣には殺す理由があったのか」

 「奴は地獄へ行くべき人間だった。だから俺が送ってやった」

 「お前に、そんなことをする権利は無い。奴は確かに凶悪犯だが、だからと言って殺していいわけじゃないぞ」

 「本当に、そう思っているのか」

 静かに、怪物が問い掛ける。

 「相棒が飛び出そうとした時、お前が制止したのは何故だ?三奈垣が殺されるのを、心のどこかで期待したんじゃないのか」

 「何だと?」

 「自分の胸に確かめてみろ」

 「分かった風なことを」

 原田は睨み付ける。


 初めて彼は、まともに怪物の目を見つめた。

 その奥に、原田は孤独と哀しみの影を感じ取った。

 (どういう奴なんだ、こいつは?)

 原田は理解に苦しんだ。

 あれほどの残忍な殺人を行った怪物が、そんなものを秘めていることに、納得の行く答えがすぐには浮かばなかった。

 だが、そんなことは、今はどうでもいい。

 原田は雑念を振り払う。

 至近距離で拳銃を構え、怪物の右肩付近に狙いを定める。


 「なるほど、そう来るか」

 慌てず騒がず、怪物は言う。

 「撃ちたければ、そうしても構わない。だが、どうせ無意味だぞ。それに、お前には俺を撃つ理由が無い」

 「理由ならある。目の前で殺人を犯した人間を、そのまま放置しておけるか」

 「ほう」

 怪物は、フッと皮肉っぽく笑った。

 「どうして笑う?」

 「俺を人間として扱ってくれるのか」

 「そ、それは、言葉の綾だ」

 意外な所に相手が食い付いたため、原田は戸惑う。

 「言葉の綾か。まあ、そうだろうな」

 また怪物は小さく笑う。

 原田は、それを寂しげな笑みと感じた。


 「お前が人間であろうがモンスターであろうが、出来ることなら撃ちたくは無い。今から署まで来て、色々と聞かせてもらおう」

 原田は言った。

 「遠慮しておく。大体、俺を捕まえても、法律で裁くことが出来るのかな」

 「それは……」

 原田は言葉に詰まった。

 怪物に法律が適用されるのかどうかは、前例が無いだけに良く分からない。

 「心配するな、そんな難しいことを考える必要は無い」

 怪物は淡々と言葉を発した。

 「考える必要が無い?なぜだ?」

 「なぜなら、俺は警察署には行かないからだ」

 言うと同時に、怪物の後方に大きな穴が出現した。

 その奥には、深い混沌が伸びている。


 「では、さらばだ」

 怪物は原田に向いたまま、一歩下がって穴に入る。

 「ま、待て」

 原田は拳銃を握る指先に力を込めた。

 しかし彼が次の行動を起こす前に、怪物の姿は闇に溶け、そして穴も消失した。

 後には、ただ澱みを帯びた夜更けだけが残された。



 数秒の硬直。

 それを経て、原田は大きく息を吐いた。筋肉が一気に緩んだ。

 そのことによって、彼は全身が極度の緊張状態にあったのだと自覚した。

 途端に、汗が額からドバッと吹き出た。

 「何なんだ、あれは」

 原田は汗も拭わず、ポツリと漏らした。


 三奈垣に対する、非道で凶悪な殺人行為。

 その後の対話における、理知を感じさせる悠然とした態度。

 そして同情心さえ喚起するような、悲哀を含有した目。

 それらの要素は、原田の中では矛盾するものだった。

 だが、あの怪物は全てを併せ持っている。


 原田は、怪物の言った言葉を思い出した。

 「三奈垣が殺されるのを、心のどこかで期待したんじゃないのか」

 怪物は確かに、そう言った。

 それに対し、原田は怒りという感情を示した。

 だが、適当なことを言われたから怒ったわけではない。怪物の言葉は、それまで原田が自分でも気付いていなかった真実を、ズバリと指摘していたのだ。

 そう、まさに図星だった。しかも、それを見たことも無い醜い怪物に言い当てられた。まるで心を見透かされたような気がして、恥辱が全身を走り抜けた。

 その恥ずかしさを誤魔化すために、原田は激昂によって心に幕を張ったのだ。


 原田は考え込む。

 そうだ、俺はあの時、三奈垣の死を望んでいたのだ。あんな奴は死ねばいいと、ずっと思っていたのだ。しかし、自分では実行できなかった。

 法を遵守するのが刑事の職務だと考えたからなのか。

 それもあるだろう。

 だが同時に、自らの手を汚すことが怖かったのだ。

 そんな時、自分に代わって望みを叶えてくれそうな奴が現われた。そして期待した通りに、奴は三奈垣を始末してくれた。

 俺は喜んだ。間違い無く、喜んだのだ。

 あの怪物が去る時、俺は引き金に手を掛けた。

 だが、きっと俺は、奴が残っても撃つことは出来なかっただろう。

 自分の代役を引き受けてくれたことへの感謝が、殺人者を捕まえるべきだという使命感を凌駕していただろう。


 (しかし果たして、それでいいのか)

 長い思考を巡らせたところで、別の自分が原田の中に入り込んだ。

 確かに、三奈垣は死んで然るべき犯罪者だ。だが、だからと言って、あの怪物を見逃したことが、正しい行為だと言えるのか。

 奴の口ぶりだと、また新たな殺人を引き起こす可能性もある。

 仮に奴の標的が「地獄に落ちるべき存在」だったとしても、それを放置しておくことは刑事として許されるのか。

 心の中で、2つの人格が組み合う。

 だが、そう簡単に答えは出そうに無い。

 原田は、チラッと村野に視線をやった。

 「今は、考えている場合じゃないな」

 彼は葛藤を後回しにして、転神署に連絡を入れることにした。


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