第1章 安登間武浪の最後の砦、それは心(1)
「お前は、もはや人間ではない」
どこからか声がする。
何を馬鹿なことを。
俺は軽く笑う。
人間でなければ、いったい何者だというのだ。俺は正真正銘の人間、紛れも無く人間だ。
なあ、そうだよな、水夕?
俺は目の前にいる妻、水夕に問い掛ける。
だが、彼女は何も答えない。それどころか、怯えた表情で後ずさりをする。
どうしたんだ、水夕?
何をそんなに怖がっているんだ?
ああ、そうか。妻ではなく、正確には元妻だったな。俺達はとっくに別れていたんだっけ。つい忘れていた。
しかし、それにしたって、怯えるのはおかしいじゃないか。離婚したとは言え、かつては愛した相手に対して、その態度は酷いじゃないか。
俺はお前に暴力を振るうようなことも無かったし、離婚後にストーカー行為をしたわけでもない。怖がられるような筋合いは何も無いはずだぞ。
まさか、お前まで俺を人間じゃないと思っているのか。
良く見てみろ。頭の先からつま先まで、俺は完璧に人間だぞ。
俺は、自分の両手に視線を落とした。
……。
心臓の鼓動が、やけに大きく響いてくる。
なんだ、この手は?
誰の手だ?なぜ肌色じゃないんだ?なぜ体毛が生えていないんだ?
俺は体中を見回す。
顔、背中、尻、足、あちこちに触れてみる。
おかしい、どこもかしこも変だ。
そんなはずはない、そんなはずは。
なぜ俺の頭には、角があるんだ?
なぜ俺の口からは、牙が生えているんだ?
なぜ俺の皮膚は、鱗に覆われているんだ?
「化け物……」
正面で、小さく声が漏れる。
俺は視線を上げた。
胸を突き刺すその言葉は、水夕の口から発せられたものだった。
彼女の顔には、恐怖と嫌悪感が表れている。
違う、違うんだ、水夕。
これは何かの間違いだ。こんなのは本当の俺じゃない。今すぐ元の姿に戻るから、そんな顔をしないでくれ。
「お前は、もはや人間ではない」
また、どこからか声が聞こえる。
そう言えば、聞き覚えのある声だ。
分かった、ダクーラの奴だな。
どこにいるんだ?隠れていないで、姿を見せろ。
……待てよ。
俺は考え込む。
ダクーラとは、誰だ?
……そうか、そうだったな。
思わず、俺は苦笑した。
そして改めて、自分の体を見回した。
そうだ、残念ながら、俺はすっかり変貌してしまったのだ。醜悪で恐ろしい怪物の姿に変わってしまったのだ。
しかし待て、心まで怪物になったわけじゃない。
そうである以上、まだ俺は人間だと言えるのではないか。
フリークスが人間であるならば、この俺だって人間ではないのか。
ふと、正面の異変を察知し、俺は顔を上げる。
すると、水夕の姿が少しずつ向こうへと遠ざかり始めていた。何も無い空間を滑るように、彼女が小さくなっていく。
待ってくれ、水夕。
俺は必死に叫び、彼女を追い掛けた。
まだ話したいことがあるんだ。せめて、俺に恐怖を抱いたまま去らないでくれ。俺を怪物だと思い込んだまま去らないでくれ。
俺は人間だ、絶対に人間だ。
「人間なんだ!」
自分の絶叫で、俺は目を覚ました。
ガバッと跳ね起き、体を硬直させる。
周囲を見回し、状況を確認する。
夢を見ていたことに気付くまで、数秒が必要だった。
フウッと大きく息を吐き、それから俺は鼻先の寝汗を拭った。
そして、その拭った手を見て、俺は現実を確認する。
その手は、もはや人間のものではない。
俺の姿は夢の中だけでなく、現実の世界でも変貌しているのだ。
ああ、分かっている。
そんなことは、とっくに分かっていることさ。
「うなされていたようだな」
背後からの声に、俺はパッと振り向いた。
ダークグレーのトレンチコートを羽織った老人が、そこに立っていた。
俺の上司であり、監視役でもある男、ダクーラだ。
ギョロリとした大きな目、禿げ上がった頭、年輪を感じさせる皺だらけの皮膚。
上半身だけを見れば、どこにでもいそうな老人である。
ただし、鷹のような脚部を持つ老人には、そう簡単にお目に掛かれないだろう。
「何やら、俺は人間だ、などと口にしていたようだが」
ダクーラは、皮肉っぽい笑みを浮かべて聞いた。
「さあな、気のせいじゃないか」
俺は、そ知らぬ素振りをする。余計な詮索をされるのは嫌だからだ。
「まだ吹っ切れないのか」
ダクーラは、やや呆れたように言う。
「お前は、もう人間ではないんだぞ」
「そんなことはない」
俺は即座に反論した。
「確かに見た目は大きく変わったが、魂は人間のままだ」
「それは解釈が間違っている」
ダクーラが断言した。
「お前が幾ら主張したところで、真実は一つだぞ、ガルティラーマ」
「その呼び方はやめろ」
俺は声を荒げた。
ダクーラは俺のことをガルティラーマ、もしくは略してガルと呼ぶ。だが、それを俺は、すんなりと受け入れているわけではない。
「何を怒っているんだ、ガル?」
「俺には安登間武浪という、ちゃんとした名前がある」
「そこにも固執しているのか。頑固な奴だ」
ダクーラは溜め息をつく。
「せっかく有り難い名前を頂いたのに、慣れないようだな」
「慣れの問題ではない。アイデンティティーの問題だ」
「だったら、なおさらガルティラーマという名に慣れてもらわねば困る。今のお前は、ガルティラーマ以外の何者でもないのだから」
「名前など、どうだっていいだろう。ようするに、そっちの指令に従えばいいだけのことじゃないのか」
俺は、ぶっきらぼうに返した。
「それはそうだが、どういう心構えで仕事に当たるかというのは重要だぞ」
ダクーラは諭すように言う。
「そのためにも、かつての自分に対する未練は捨ててもらわねば困る。私だって、人間だった頃は別の名があったが、今はダクーラとしての自分に誇りを持っている」
「誇りなど、糞食らえだ」
俺は言葉を吐き捨てる。
そう、誇りなど、今の俺には微塵も残されていなかった。
「大体、望んでそうなったお前とは、立場が違う」
「そうかもしれんが、そうなることを決めたのは、お前の意思だぞ」
「くそっ、なぜ俺なんだ」
呻くように、俺は言った。
「何のことだ?」
「なぜ……俺を選んだ?俺でなくてはいけない理由など、無かったはずだ」
「前にも言ったはずだぞ、お前は私の血を引いていると。血筋で繋がっていると」
「確かに聞いたが、それが選んだ理由なのか」
「これは我々にとって初めてのテストケースだ。栄誉ある一番手としては、やはり縁のある人間を選びたかった。最後に信用できるのは血縁だよ」
ダクーラがニヤニヤしながら言った。
「そして、お前を選んだのは、やはり正解だった。優秀な部下として、立派に働いてくれている」
「そんな誉め言葉は要らん」
俺は露骨に不快感を示した。
優秀な部下になど、なりたくもない。
だが、ならざるを得ないのだ。
地獄の契約を交わした以上は。