転びの哲学
人生は七転び八起きと言う言葉がある。失敗しても挫折せずに、何度も立ち上がれという意味だそうで。
この言葉で疑問に思った人も多いはず。何で七回転んだのに七回起き上がるでは無く、八回起きなければならないのかと。
疑問を解消するには「人生は七転び八起きだ」と、声をかける相手の現状を考えれば説明がつく。つまり、相手が倒れた状態であれば辻褄が合うのだ。
倒れた人に対して七転び八起きと言えば、そこから起き上がって一回の「一起」。あとは七転び七起きで、足して七転び八起きが完成。
倒れてない人に七転び八起きなんて普通は言わない。倒れて挫折しようとしてる人にかける言葉が七転び八起き。はい、辻褄が合いました。
最初の倒れている状態を作り出した「一転び」が無視なのは些か不条理だとは思いますが、過去の事に拘るなという戒めだと受け入れて起きましょう。
この「七転び八起き」で学ぶべきは不屈の精神。しかし、転び方については誰も言及していません。
ことわざ辞典などを見ても「転んでもただでは起きない」とか、立ち上がり方についてならあるものの、転び方についてはあまり重要視されません。
転んだ時に手をついて骨を痛めたとか、頭を打ってクモ膜下出血になったとか、転び方とは本来であれば重要視しなければならない事柄。軽視していいものではありません。
昔、スマホを購入する前はプリペイドの携帯を利用してました。友達もいないのでネットでの繋がりも不必要でしたし。
そんな携帯を仕事中に紛失。物凄く大慌てで同僚から携帯を借りて自身の携帯に電話を。何度も電話しても繋がらず、パニックは増すばかり。
そんな自分を見て同僚が「番号違ってねぇ?」と、ツッコミ。あれ?かけてるとこ、違ってた!
間違い電話を何度もかけてて、相手に繋がったので何度も平謝り。結局、交番に行ったら届けられてたので一安心。
…こんなアホな話ではありますが、自分は普段物凄く冷静沈着。感情が乏しいと思われる程に落ち着いています。
そんな自分がこれ程のパニックになって大慌て。落ち着きを取り戻してから、自分の取り乱し方を思い出して…恥ずかしさより、冷や汗が流れました。
どんな人間でもパニックには陥ります。パニックにならない事は大切ですが、パニックになった時にすぐに冷静さを取り戻すのが大切。そう、転び方と起き上がり方。これが肝心。
ニュースでよく見かける振り込め詐欺。それに引っかかるのは、自分は絶対に騙されないと、タカをくくっている人だそうで。
自分は絶対に騙されない。騙されるのは馬鹿な奴。そう考えている人が騙された時、自分が騙されてるとは思いたくない。何故なら騙されているのは馬鹿な奴だと思っているから。
騙された奴は馬鹿で、自分は絶対に騙されない。その考えが自身を窮地に追いやる事に気が付かない。残念な話です。
柔道の父と呼ばれる講道館の創始者、嘉納治五郎氏は虚弱で体躯にも恵まれなかったそうな。
そんな氏が柔術を学ぶ時、先生に何度も何度も投げ飛ばされる。
先生にどうやって投げるのかと聞くと、数をこなせと一蹴。
体躯に恵まれない嘉納治五郎氏は相手の体勢を崩す「崩し」を理論的に考察。これによって相手を投げ飛ばす術を見出す事に。
今でこそ当たり前の柔道の崩し。虚弱ながらにも相手を投げる事を考え抜いた、努力家の成し得た結果である。
さて、そんな崩しによって投げ飛ばされた相手は、さぞかし大怪我をおっているかと思いきや、無傷で立ち上がる。何故なら柔道には「受け身」と言う身を守る術があるからだ。
絶対に体勢を崩されない人も、投げ飛ばされない人もいない。ならば投げ飛ばされた時に怪我を負わず、すぐに立ち上がれる状態にすればいい。それが柔道の受け身。合気道などにもありますね。
転ばないように心掛け、転んでも怪我を負わぬ様に身を守り、転んだ後にもすぐに起き上がり、転んだ事を糧とする。
転ばないための心構え…転ばぬ先の杖。
転んでも諦めない不屈の精神…七転び八起き。
転んだ事でも利益とするあざとさ…転んでもただでは起きない。
転び方一つとっても色々とありますね。
先日、某女優さんがカルト教団に出家したそうで。若いのにまあ、悲惨な話です。
間抜けな顔をした教祖の顔写真を張ったゴミを百万円で売ったり、像を三百万円で売ったり…金を出せば天国に行けると、完全なる詐欺で金儲けに走るカルトでありながらも、出家。
自分が騙されてるとは自覚無し。今更、自分が騙されてるとは認めるのが嫌だから、騙され続ける道を選ぶ。詐欺に騙される典型ですね。
その昔、踏み絵の事を「転ぶ」と言っていました。
現代では使われないかも知れない「転ぶ」という言葉。カルトが台頭する世が故に、再び「転ぶ」に注目が集まる事を願います。