プロローグ
「眠れないの」
五歳の誕生日を一週間後に迎えるお姫様は、不満そうに頬を膨らませる。
「まだ眠くないわ。私、もう子供じゃない」
彼女の訴えを聞き、ベッド端のロッキングチェアに腰掛ける老婆は思わず苦笑してしまった。
「子供はわがままを言わないものよ?早く寝ないと明日も元気に遊べないわ」
彼女の声はとても優しく、どこか聞き入ってしまう魅力がある。彼女にかかればどんなきかん坊もお手の物だ。それがためにこの乳母の仕事を宛てがわれている。
「そんなこと言われたって眠くないんだもん!眠れないんじゃどうしようもないわ。それに明日も今日と同じで、きっと雨よ。また一日中お勉強は嫌だわ」
どうやら今日のお姫様は随分とご機嫌斜めらしい。あまりにジタバタと動くせいでせっかく綺麗にかけてあげた毛布がずれてしまっている。
「ああ、ほら落ち着きなさい。またセットし直すの大変なんですからね」
そう言うと、老婆はゆっくりとした足取りで小さな暴君のもとへと向かう。それを見ると、お姫様はいくらか落ち着き顔いっぱいに笑を広げた。
「まったく、今のうちから何でも思い通りになるなんて知ったら後々困りますよ」
「いいもん!子供はわがままなものでしょ?それにおばあちゃんが言ったんじゃない。子供はわがままなものだって」
「あら、これは一本取られましたかねえ」
利発な子だ、と毛布をかけ直しながら老婆は思う。そして、あの少し小憎たらしい理屈屋は誰に学んだのやら、と訝しさを覚える。
ベッドメイキングを終えた老婆は、そのままおベッドに腰掛け、お姫様の顔を見下ろす。
「さて、何度も何度も往復するのも大変ですからね。お姫様が夢に落ちるまでここにいさせてもらうわ」
「ありがとう!」
頭を軽く撫でながら、無邪気に笑う彼女の目を見つめる。
「さて、今夜は何を御所望ですか?歌はできれば止めてほしいですがね」
それを聞いてなお一層顔をほころばせるお姫様は、とても愛らしい。まるで小動物に接しているような気持ちになる。
やがて、思案を終えたお姫様は、乳母にお願いをした。
「いつもみたいに、お話が聞きたいの」
さっきまでのわがままぶりが嘘のように、しおらしい、この年の少女らしいおしとやかさでお姫様はそうお願いをした。
「お姫様は本当にお話が好きなのね」
老婆は相変わらず少女の頭を撫で続けている。
「だって、おばあちゃんのお話とっても面白いんだもん」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。話し手冥利に尽きるわ」
少しの間目を閉じて、老婆は今夜は何を話してあげようかと考えた。ついこの前には、古くから伝わるおとぎ話を話してあげたばかりだし、そうじゃなくても彼女の知りうる子供向けのお話はあらかた話してしまっているようだった。
「昔話したことのあるお話でもいいかい?」
「私が覚えてないお話なら構わないわ!」
さてこれは困ったぞと思いながら、老婆は考えをめぐらす。
「それじゃあ、とある勇者様のお話をしようかね。私がお姫様に一番最初に話してあげたお話ですよ」
「そんなお話してくれたかしら。覚えてないわ」
「まあ、本当に最初、お姫様がまだ赤ちゃんの時に話してあげたお話ですからねえ。さすがに覚えてないでしょ?」
「そんなの覚えてるわけないわ!早く話して!」
「そう急かさないの。お話は逃げないわ」
そして、ゆっくりと物語が口からこぼれ始める。それは誰もが知っている物語であり、そして、彼女に しか語れない物語である。あれは、いつだったか。昔というほど時は経っていなく、しかし、少しずつ忘却の彼方に消えつつある時間。ある日、とある少年がとあるお姫様のために旅立った日に始まる物語。