第4話 精霊王、降臨
ガシャーーーンッ!!
私の心の合図に応えるように、会場中の窓ガラスが一斉に砕け散った。
吹き荒れる暴風が、着飾った貴族たちの髪を乱し、悲鳴がかき消される。
シャンデリアが激しく揺れ、ろうそくの火が次々と消えていく中、会場の天井からドロリとした「漆黒の闇」が滲み出し、一人の男が音もなく降り立った。
深い闇色の長髪に、血のように赤い瞳。背中には禍々しい黒き翼。
その男がブーツの踵を床に鳴らした瞬間、会場の空気が凍りついた。
「……辛気臭いな」
男――闇の精霊王デーゼは、眉間に皺を寄せて楽団の方を一睨みした。
そこでは、王子の指示通りに悲劇めいた曲が演奏され続けていたからだ。これだけの騒動でも演奏を止めないのは、プロとしての矜持だろう。
しかし。
「私を讃える音楽には似合わない。これなら、死神と踊る方がマシだ」
指揮者が息を飲む音が聞こえた気がした。
次の瞬間、楽団員たちは王子からの命令を無視し、生存本能に従って、ガタガタと震える手で曲調を急変させた。
悲劇の調べは消え去り、まるで魔王の降臨を祝うかのような、壮大で重厚なオーケストラのアドリブ演奏が響き渡る。
「ふん。まあいい」
デーゼは優雅に歩き出すと、なんと会場の最上段にある「国王の玉座」へと腰を下ろし、ふてぶてしく足を組んだ。
「呼んだか? 人間」
その圧倒的な威圧感に、誰も声が出ない。
だが、異変はそれだけではなかった。
「あら、美味しそうな食事ですこと」
いつの間にか、会場中央のビュッフェテーブルに、燃えるようなドレスを着た絶世の美女が座っていた。
炎の精霊王、イフリーティアだ。
彼女は周囲の貴族など目に入っていない様子で、王家自慢の最高級オマール海老を上品に指でつまみ、頬張っている。
ズドォォォォンッ!!
さらに、庭園の方角から地鳴りが響いた。
王城の壁が紙細工のように破壊され、巨大な銀色の狼がぬっと顔を突き出した。
獣の精霊王、タロウ(獣王モード)だ。
彼が「グルルルル……!」と喉を鳴らすだけで、城全体が共鳴し、ビリビリと震える。
「ひ、ひぃぃぃっ!」
「あ、あれは伝説の闇の精霊王、デーゼ!? かの精霊戦争で、千の精霊を葬ったという!」
「炎の女帝イフリーティアに、獣の精霊王ウルフィリオンまで!」
「伝説級の精霊が三体も!? 終わりだ、この国は終わりだぁ!」
貴族たちが逃げ惑い、阿鼻叫喚の地獄絵図となる。
腰を抜かす者、失禁する者、神に祈り始める者。
だが――たった一人、狂喜の笑い声を上げている男がいた。
「ふ、フハハ! フハハハハハ!」
王子だ。
彼は恐怖するどころか、両手を広げて天を仰いだ。
「見よ、この圧倒的な力を! これこそが私自身の王としての資質の証明だ!」
彼は完全に勘違いしていた。
この状況を、自分の計画通りだと信じ込んでいたのだ。
王子は、床にうずくまる私を見下ろし、顔を歪めて叫んだ。
「感謝するぞ、フランシスカ! お前の絶望が、最高の撒き餌になった! お前のような無能な女でも、最後に私の役に立てたな!」
私は顔を伏せたままだ。
王子はさらに続ける。
「もうお前は我が国とは関係ない。追放だと言っただろう? さっさと失せろ! これより先は、選ばれし者である私と、精霊王たちとの神聖な儀式だ!」
そう言うと、彼は懐から黄金に輝く手鏡を取り出した。
国宝級レジェンドアイテム、『隷属の鏡』。
契約を結ぶ前なら、どんな精霊も強制的に従わせることができるという、王家の切り札だ。
「フランシスカ。お前は知らぬだろうが、慈悲も込めて教えてやろう。これは国宝『隷属の鏡』。契約を結ぶ前なら、どんな精霊も従属させることができるレジェンドアイテムよ!」
レオンは、私にこれみよがしに『隷属の鏡』を見せつける。
今から起こる奇跡を目に焼き付けよ、というように。
「さあ、精霊王たちよ! 我にひざまずけ! この鏡の力を持って、主従の契約完了だ!」
カッ!
鏡が眩い光を放ち、魔力の波紋が精霊たちへと放たれる。
王子は勝利を確信し、口角を吊り上げた。
……しかし。
「…………」
何も起きない。
デーゼは玉座で欠伸を噛み殺し、イフリーティアはグラスのシャンパンを優雅に飲んでいる。タロウに至っては、耳の後ろを足でカイカイと掻いている。
「な、なぜだ……!?」
王子が鏡を振る。
「なぜだ!? なぜ強制契約が発動しない!? 故障か!? いや、そんなはずは!」
焦る王子に、玉座のデーゼが冷ややかな視線を送った。
「おい、人間」
「ひっ!?」
「闇の王である私にそのような玩具を向けるとは、不愉快極まりない」
声だけで王子の心をへし折るプレッシャー。
デーゼは玉座から立ち上がると、ゆっくりと階段を降りてきた。
王子は後ずさりながら叫ぶ。
「お、おい! 止まれ!」
デーゼは王子を空気のように無視し、私の目の前まで歩み寄ってきた。
「ち、違う! お前らの主は私だ!? 私が呼び寄せたのだ! そいつじゃない、そいつはただの生贄で……!」
そして。
スッ、と。
あの傲岸不遜な闇の精霊王が、その場に片膝をついたのだ。
まるで、女神に仕える騎士のように。
「――お迎えに上がりました、我が主」
会場が静まり返る中、デーゼの美声が響く。
そして彼は、私にだけ聞こえるような微かな声で、早口に付け加えた。
(……おい。あのプリンの約束、忘れていないだろうな? あれがないと私は暴れるぞ)
私は吹き出しそうになるのをこらえ、小さく頷いた。
すると、いつの間にかイフリーティアも、私の隣に跪いていた。
「フランシスカ様。こんな虚飾にまみれた退屈な場所、貴女には相応しくありませんわ。早く参りましょう」
窓の外では、タロウが「ウォォォォン!」と遠吠えを上げ、私への服従を示している。
「な……あ……? はぁ!?」
王子の口が、パクパクと金魚のように開閉していた。
状況が理解できないのだ。
当然だろう。彼がゴミのように捨てた元婚約者に、世界最強の存在たちが絶対の忠誠を誓っているのだから。
「な、なぜ? そいつは追放された罪人で……無能で、私の偽の愛に騙されて……」
私はゆっくりと顔を上げた。
涙を拭うフリをして、口元にハンカチを当てる。そうしないと、満面の笑みがバレてしまうから。
「それでは殿下。ご希望通り『追放』を受け入れ、出て行かせていただきますわ」
「ま、待て! 待てフランシスカ! そいつらは俺の……!」
よろめきながら手を伸ばそうとした王子を、デーゼの赤い瞳が射抜いた。
「――気安く呼ぶな、下種が」
ドッ!! と凄まじい殺気が膨れ上がる。
「我らの主に指一本でも触れてみろ。この国ごと地図から消すぞ」
「ひっ、あ、あが……ッ!?」
レオンは腰を抜かし、とうとう声すら出せなくなった。
腰巾着だった文官たちは、とっくに泡を吹いて気絶していた。
「行くぞ」
窓の外に、いつの間にか漆黒の馬車が音もなく滑り込んできていた。
次の瞬間、私の身体が浮かび上がる。
「さようなら、皆様。どうぞ、パーティーの続きを楽しんでくださいませ」
私は眼下の大広間――もはや祝宴とは呼べない地獄絵図と、へたり込むレオンを見下ろして、にっこり微笑んだ。
そして私を乗せた馬車は、そのまま夜空へと駆け出した。
***
残されたのは、半壊した会場と、呆然と立ち尽くす貴族たち。
そして、最強の戦力を手に入れるどころか、切り札のフランシスカを自ら捨ててしまい、さらに精霊王に睨まれてしまった、哀れな王子の姿だけだった。




