第24話 やっぱり、この生活が一番ね。
レオン王子が去ってから、半年後。
王都から届いた正式な報せには、必要なことだけが簡潔に記されていた。
レオン王子は、父王の勅命なきまま条約解釈を口実に人員を動かした越権行為と、他国領内での威圧行為の責を問われ、王位継承権を停止。北方離宮への幽閉処分。二度と精霊に関わる権限は与えられない――。
私はその文書を静かに畳むと、机の引き出しへしまった。
私はゲーム知識しか持っていなかったから、あの時は知らなかった。王家は『隷属の鏡は絶対』と言っていたけれど、主従契約が切れても、魂の帰属先――魂の帰る場所までは消えない。つまり、あれは最初から絶対などではなかったのだ。その隷属の鏡は大聖堂預かりとなった。
もう、あの人に私の一日を決めさせるつもりはない。
今日考えるべきことは、次の仕込みの量と、誰から先に休憩へ回すかと、今朝の苺の出来の方だ。
ちなみに、マーブル家に残した老執事とは今も手紙のやり取りが続いている。
庭の薔薇は今年もよく咲いたらしい。
***
「おはようございます、フランシスカ様。今朝の苺も素晴らしい出来ですわ」
裏の果樹園から戻ってきたイフリーティアが、籠いっぱいの苺を見せる。
朝露をまとった赤い実は、朝日を受けて宝石みたいにきらめいていた。焼け落ちたあの日から作り直した温室は、今では前より少しだけ広くなった。新しいガラスは朝の光をやわらかく返して、果樹園全体を明るく照らしている。
「ほんと。今日はタルト、多めに仕込めそうね」
「当然ですわ。今度の果樹園は、前よりもっと立派にすると決めていましたもの」
胸を張るイフリーティアの足元で、タロウが小型犬モードのまま、籠のまわりを回る。
「ワンッ!」
「だめよ、タロウ。これはお客様の分」
「クゥン……」
「あとで味見係をお願いするから」
「ワフッ!」
すぐに機嫌が直る。
単純だけれど、そこが可愛い。
厨房では、デーゼが朝から真剣な顔でグラスを並べていた。
「主よ。今日の暗黒パフェは、カラメルをほんの少しだけ苦めにする」
「また改良したの?」
「当然だ。昨日の私より、今日の私の方が完成に近い」
「朝から深いわね」
そう言いながら覗き込むと、デーゼは不満そうに眉を寄せた。
「触るな。今は均衡の上にある」
「はいはい、失礼しました」
私たちは契約を結び直してはいない。彼らはこの店で暮らす自由な仲間だ。
裏口が開いて、マルタさんが瓶を抱えて入ってくる。
「おはようございます。昨日のうちに煮ておいた苺ジャム、持ってきましたよ」
「ありがとう、助かるわ」
「わたし、お花も持ってきたよ!」
その後ろから飛び込んできたミシャちゃんが、両手いっぱいの野の花を掲げる。
白、黄色、淡い紫。小さな花束は、朝の光によく映えた。
「ありがとう、ミシャちゃん。じゃあ“おはな係”さん、今日もお願いしていい?」
「うん!」
嬉しそうに頷いて、ミシャちゃんは窓際の席へ駆けていく。
少し遅れて、トマスさんがテラス側から顔を出した。
「手すりのぐらつき、締め直しておいたぞ。あと、デニースさんからの荷も昼前には届くらしい」
「ありがとう、トマスさん。相変わらず仕事が早いわね」
「誰かさんの店は、働き手をのんびりさせてくれねぇからな」
「でも、休みは取らせてるでしょう?」
「そこはありがたいと思ってるよ」
軽口を叩きながらも、トマスさんの顔は明るい。
ここへ来たばかりの頃、死んだみたいに静かだった村は、今では朝から人の気配に満ちている。笑い声がして、荷車が通って、パンを焼く匂いがして、誰かが次の季節の話をする。
「店先の案内、出してきたぞい」
最後に、ガランさんがゆっくりと表から入ってきた。手には、木の看板。
本日のおすすめ
・ジュエル・フルーツタルト
・暗黒パフェ
・手作り苺ジャム
「ありがとう、村長さん」
「ふん。これくらい、わしでもできるわい」
そう言いながらも、どこか誇らしそうだ。
私は店の中を見回した。
磨き上げたカウンター。
ミシャちゃんの花が飾られた窓際の席。
トマスさんが直してくれたテラス。
マルタさんのジャム。
イフリーティアの果樹園の恵み。
デーゼの執念が詰まったパフェ。
タロウの元気な足音。
この店は、もう私一人の夢じゃない。
ここで暮らすみんなの、毎日そのものになっている。
それに――ここには、ちゃんとみんなの席がある。
窓際にはアリアのお気に入りの席。
テラスには海帰りの漁師たちが座る席。
カウンターの端には、ガランさんが腰を下ろす席。
厨房の入口には、味見係のタロウが陣取る席。
あの日、「あなたの席はありません」と言い切ったこの店に、今は守りたい席がいくつもある。
「よし」
私はエプロンの紐を結び直した。
「今日も、いい一日にしましょう」
***
ベルが鳴る。
あの日、帰ってきてと願って鳴らした音は、今ではまた、いつもの「いらっしゃいませ」の音に戻っていた。
「おはようございます、フランシスカさん。また来ちゃいました」
「あら、アリア。いらっしゃい」
窓際の席に座ったアリアが、嬉しそうに笑う。
今日は聖女ではなく、ただの甘いもの好きのお客様だ。
「今日はタルトと紅茶にします」
「暗黒パフェじゃないの?」
「それは帰りに追加するかもしれません」
「欲張りね」
「甘いものには本気なんです」
初めてこの店に来た日と、ほとんど同じ言い方だった。
そう思ったらおかしくなって、私はつい笑ってしまう。
やがて、村の常連さんたちもやってきた。
店内には焼きたての香りが広がり、テラスでは海風がレースのカーテンを揺らす。忙しい。でも、もう息苦しさはなかった。
ここでは誰も怒鳴らない。
誰も誰かをすり減らして働かせたりしない。
疲れたら休む。困ったら支える。
美味しいものができたら、みんなで喜ぶ。
そんな当たり前を、私はようやく手に入れたのだ。
***
ひとしきりランチの波が落ち着いた頃、私は手を叩いた。
「はい、ここからは交代で休憩にしましょう。マルタさんもトマスさんも、一度座って。イフリーティアとデーゼも、少し手を止めて」
「ですが、まだ片付けが」
「少し遅れても大丈夫。休むのも仕事のうちよ」
「主よ。私のパフェは一秒で表情が変わるのだが」
「それでも休憩」
「ワンッ!」
タロウだけは、なぜか嬉しそうに尻尾を振っている。
「ほら、店長命令よ。ちゃんと休むのも仕事のうち」
「……はいはい」
「承知しましたわ」
「ふん」
みんなが奥へ下がっていくのを見届けてから、私は息を吐いた。
静かになった店内に、潮風が通り抜ける。
窓の外では、海がやわらかく光っていた。
私はカウンターの奥に置いた、小さな丸椅子へ腰を下ろす。
これは忙しい合間に、私が少しだけ休むための席だ。誰かに与えられたものじゃない。私が自分で作って、自分で守った席。
自分のために、一杯のコーヒーを淹れる。
香ばしい匂いが、胸の奥までゆっくりと広がっていく。
前世では、今日をやり過ごすためだけに働いていた。
今世では、破滅しないためだけに生きていた。
でも、今は違う。
ここには、私が守りたかった暮らしがある。
私を名前で呼んでくれる人たちがいる。
そして、私自身の席もある。
窓際では、アリアがタルトを前に幸せそうに頬を緩めている。
テラスの向こうでは、ミシャちゃんがタロウに花冠をのせようとしていて、トマスさんがそれを見て笑っている。
奥の厨房からは、イフリーティアとデーゼが「その飾り方は甘いですわ」「うるさい」と言い合う声が聞こえてきた。
にぎやかで、あたたかくて、少し忙しい。
けれどそれも、私が選んだ毎日だ。
「……ふふっ」
私はカップを口元へ運び、コーヒーを一口飲んだ。
最初に来るのは、すっきりとした苦味。
けれど喉を過ぎたあとには、やわらかな香りとぬくもりが静かに残る。
その余韻は、今の私の暮らしによく似ていた。
楽なことばかりじゃない。
少し忙しいし、甘いだけでもない。
でも、その全部を飲み込んだあとに、たしかな温かさが残る。
またベルが鳴った。
新しいお客様が来たのだろう。
私は立ち上がり、エプロンの裾を整える。
もう、誰かに用意された舞台には立たない。
ここは、私が選んで、私が守って、みんなで続けていく場所だ。
海から吹く風に目を細めながら、私は小さく呟いた。
「やっぱり、この生活が一番ね」
(完)




