第23話 私の居場所
白銀の馬車が砂埃を蹴って止まる。光の精霊術による、高速馬車だ。
飛び降りてきたのは、旅装の白い外套を翻したアリアだった。
私は目を見開く。
「アリア……?」
アリアはまっすぐこちらへ駆け寄ってきて、息を乱したまま立ち止まった。
「フランシスカさん、ごめんなさい。遅くなりました」
「え……?」
彼女は悔しそうに唇を噛み、それでもまっすぐ私を見た。
「昨日の時点で、感情のまま私一人が割って入れば、レオン殿下に『他国の聖女による私的介入』だと利用されると思ったんです」
一度、強く息を吸う。
「だから大聖堂へ戻って、正式な権限を預かってきました」
そのままアリアは、くるりとレオンへ向き直った。
「私はローゼ大聖堂の聖女、アリア・リーベルト。講和条約に基づく調停権限のもと、この場の条約解釈を確認します」
レオンの顔色が変わる。
「だ、大聖堂の聖女だと……?」
アリアの声は澄んでいた。
けれど、その一語一句には揺るぎがなかった。
「現在、フランシスカ嬢と、炎・獣・闇の精霊王の間に主従契約は存在しません。ゆえに、殿下が主張する『未登録契約者による国家級精霊の私的保有』は成立しない」
文官が息を呑む。
「加えて、この三体の精霊は自らの意思でこの地に留まっている。誰かの所有物ではありません。よって、これを理由とした王家による強制連行にも正当性はない」
「そ、そんな……!」
レオンの声が裏返った。
だが、アリアは止まらない。
「そして殿下。あなたは他国領内において、条約解釈を盾に民間人を威圧し、商人を拘束し、さらに攻撃まで行った。問題にされるべきは、むしろこちらでしょう」
兵士たちの顔色が変わる。
文官は蒼白になり、何か言い返そうとして口を開閉させた。
アリアが、一歩前へ出る。
「この件は、ローゼ大聖堂の名において保証します。異議があるなら、大聖堂とローゼ共和国を相手に正式な手続きをお取りください」
兵士たちは誰一人として前に出なかった。
聖女がいて、その前には三体の精霊王と村人たちが立っている。
何より、王子の“正義”を支えていた法の理屈そのものが、今ここで崩されたのだ。
アリアは、そこでようやく少しだけ表情を和らげた。
「……ここから先は、聖女としてではなく、ただの客として申し上げます」
その声には、厳粛さの奥に、いつものやわらかさが戻っていた。
「私はこの店に何度も来ました。ここで見てきたのは、罪人でも、王家の落とし物でもありません」
彼女は私の方を見て、まっすぐ言う。
「美味しいお菓子を作って、誰かを幸せにして、自分の場所をちゃんと守ろうとしている、一人の素敵な店主です」
胸の奥が熱くなる。
「聖女まで誑かしたのか、フランシスカ」
「違います」
アリアの声が、ひときわ鋭く響いた。
「私は自分の意思でここへ来ました。自分の意思で、この場所が好きだと思いました。そして自分の意思で、フランシスカさんの味方をしています」
エメラルドの瞳が、強く光る。
レオンはまだ何か言い返そうとしていた。
けれどその時、私はゆっくりと一歩前へ出た。
不思議なくらい、心は静かだった。
昔の私なら、震えていた。
嫌われるのが怖くて、捨てられるのが怖くて、相手の顔色ばかり窺っていた。
でも、もう違う。
「レオン殿下」
私はまっすぐ彼を見た。
「あなたは、まだ分かっていないのね」
「何だと?」
「私を拾ったとか、返せとか、そんな言葉が通じると思っている時点で、何も分かっていないのよ」
私は、自分の店を振り返った。
焦げた果樹園。
砕けた温室。
それでも残っているテラス席。
ベル。
甘い香りの名残。
そして、ここに立ってくれる人たち。
「私はもう、誰かの都合で生きない」
はっきりと、言い切る。
「この店も、この村も、この暮らしも――私が選んだの」
沈黙が落ちた。
レオンは何か言い返そうとして、けれど言葉が出てこない。
だから私は、もう一歩だけ踏み込んだ。
「それに」
自分でも驚くほど、声はよく通った。
「店主として、正式に申し上げます」
レオンの眉がわずかに動く。
「この店に、あなたの席はありません」
息を呑む気配が広場に走った。
「二度と、私の居場所を勝手に決めないで」
もう、勝てない。
そのことを、レオン自身も分かったのだろう。
「……一旦、引くぞ。フランシスカ、後悔するなよ」
ようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。
「誰がするもんですか」
アリアが、わざと形式ばった口調で続ける。
「本件は後日、ローゼ大聖堂より正式に貴国王へ報告いたします」
「っ……行くぞ!」
レオンは苛立ちと焦燥を隠しきれないまま、外套を翻して馬に飛び乗った。
兵士たちも慌ててそれに続く。
文官は転びそうになりながら、必死にその後を追った。
デニースさんもようやく解放された。
へなへなと膝をつきながらも、こちらへ深く頭を下げている。
去っていく背中を見送りながら、私は追いかけようとは思わなかった。
もう、必要ない。
***
馬車の音が完全に遠ざかると、場に残っていた緊張がほどけた。
「かえった……?」
ミシャちゃんが恐る恐る尋ねる。
「帰ったわ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう答えた瞬間、ミシャちゃんが明るい笑顔になって私に抱きついた。
「よかったぁ!」
「心配かけてごめんね」
「ううん! フランシスカお姉ちゃん、かっこよかった!」
その言葉に、周囲からも安堵したような笑いがこぼれる。
トマスさんが大きく息を吐いた。
「まったく、とんでもねぇ客だったな」
「ええ。ずいぶん質の悪いお客様だったわ」
「出禁じゃの」
ガランさんが腕を組む。
「完全に出禁ね」
私が頷くと、みんながどっと笑った。
その時、アリアが一歩近づいてきて、そっと私の手を握った。
「フランシスカさん」
「なに?」
「昨日、すぐに前に出られなくて、ごめんなさい」
私は一瞬だけ目を瞬いた。
アリアは、少しだけ泣きそうな顔で笑っている。
「でも、間に合ってよかった」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ううん。来てくれてありがとう、アリア」
彼女はようやく、ほっとしたように笑った。
「私も、ここに来ると息がしやすいです。だから、この場所を守れてよかった」
その言葉に、私は小さく笑う。
「そう。じゃあ今度は、お客さんとしてゆっくり来て。今度こそ、ちゃんと座ってタルトを食べてもらうんだから」
「はい。次は暗黒パフェも予約しておきます」
その返事に、デーゼがふんと鼻を鳴らした。
「当然だ。あれは予約せずに食べられる代物ではない」
「じゃあ私、タルトも食べる!」
ミシャちゃんが元気よく手を挙げる。
「俺もだな」
「おぬしら、まだ何も直っておらんぞ」
ガランさんの呆れた声に、また笑いが起きた。
その笑いの先で、私は焼けた果樹園を見た。
胸が痛まないわけじゃない。
悔しさだって、まだ残っている。
けれど、前みたいに絶望はしていなかった。
「……温室も、果樹園も、また作り直しましょう」
私がそう言うと、イフリーティアが微笑んだ。
「ええ。今度は、もっと立派にしてみせますわ」
「また、いちごいっぱい?」
ミシャちゃんが目を輝かせる。
「もちろんですわ」
「なら、次はもっと大きなタルトが要るな」
「暗黒パフェも改良の余地がある」
「勝手にメニュー会議を始めないでちょうだい」
呆れた声でそう言いながらも、私は少しだけ笑ってしまう。
壊れたなら、直せばいい。
失ったなら、また作ればいい。
もう私は、誰かに与えられる場所を待つだけの人じゃない。
ここで働いて、ここで笑って、ここで明日を作っていく。
海から吹く風が、焦げた匂いを少しずつさらっていく。
私はベルを見上げた。
また鳴らそう。
明日の朝、店を開ける音として。
私が選んだ毎日を始める音として。
――私の居場所は、ここだ。
もう誰にも、渡さない。




