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第22話 この人は、わしらの隣人じゃ

 甘い匂いは、もうどこにもなかった。

 焦げた果実の臭い。

 砕けたガラス。

 黒く焼けたつる。

 朝には光を弾いていた温室が、今は煙の向こうで無残に崩れている。


 それでも私は、三柱から目を逸らせなかった。

 イフリーティアは、なお果樹園へ手を向けたままだ。

 タロウはミシャちゃんの方へ半歩だけ動いた姿勢で止まり、低く唸っている。

 デーゼの影はカフェの壁を舐めるみたいに伸び、入口のベルの下まで黒く染めていた。


 あのベルが鳴れば、いつもタロウが真っ先に駆けてきた。

 カウンターの向こうで、デーゼが文句を言いながらもパフェを仕上げた。

 温室の実を見せながら、イフリーティアが少しだけ誇らしそうに笑った。

 全部、ここにあったのに。


「……やめて」


 かすれた声しか出なかった。


「お願い。もう、やめて……」


 届かない。

 分かっているのに、名前を呼ばずにはいられない。


「イフリーティア」


 炎の精霊王の睫毛が、かすかに揺れた気がした。


「『こんな人生も悪くないわね』って、あの夕焼けの中で笑ったでしょう」


 返事はない。

 けれど、その指先にまとわりついていた炎が、ほんのわずかにだけ小さくなる。

 燃え盛るというより、迷うみたいに。


「タロウ」


 獣王は唸るだけだ。

 それでも私は続けた。


「『今日から、私が家族よ』って言った時、あなたはちゃんと応えてくれた。あの森で、先に信じてくれたのはあなたの方だった」


 タロウの大きな耳が、ぴくりと動く。

 前足の爪が、地面をひっかいた。


「デーゼ」


 黒い影の王は無表情のまま、私を見ない。

 その無機質さが、かえって痛かった。


「『私の帰るべき場所は、ここ以外はない』って言ったの、忘れてないわ」


 影が、するりと揺れた。

 私の足元へ伸びかけて、寸前で止まる。


 そこにいる。

 まだ、完全には消えていない。


「私が海辺でカフェを開くなんて、最初は無謀だと思った。笑われるかもしれないって、本気で思ってた」


 声が震える。


「でも、みんなは違った。温室を作って、果物を育てて、パフェを考えて、ベルの音の向こうに毎日を作ってくれた。朝にタルトを焼いて、夜に片づけをして、くだらないことで笑って……」


 涙が頬を伝う。


「私は、その全部が好きだったの」


 イフリーティアの炎が、わずかに揺らいだ。

 タロウの唸りが、一瞬だけ低くなる。

 デーゼの影が、ベルから少し離れる。


 違う。

 まだ終わっていない。


 だったら。


 私は、震える足を前へ出した。


「フランシスカさん!?」


 誰かが息を呑む。

 でも、止まれなかった。


 ただ待って、誰かの言葉だけに縋って、奪われるままで終わるなんて嫌だった。

 ここは私の店だ。

 私が始めた場所で、私が守りたい場所で、そして――あの子たちが帰ってくる場所だ。


 熱気が頬を打つ。

 足元を這う影が冷たく絡みつく。

 それでも私は、入口へ向かって歩いた。


 ベルまで、あと数歩。


「下がれ、フランシスカ!」


 レオンが嘲るように叫ぶ。


「今のそいつらはもう、お前の知っている精霊ではない!」

「うるさい!」


 自分でも驚くほど、強い声が出た。


「知ってるわよ。だから迎えに行くの!」


 その瞬間だった。


「タロウ! いつものタロウにもどって!」


 ミシャちゃんだ。

 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも一歩前に出ていた。

 マルタさんの手を振りほどくようにして、小さな手をぎゅっと握っている。


「タロウはそんなわるいこじゃないもん。フランシスカお姉ちゃんとみんなでまた、おいしいおかしを食べて、あそぼう?」


 小さな指が、燃え残る果樹園とテラスを指した。


 その声に押されるように、私はさらに一歩、前へ出る。


 今度はマルタさんが前に出た。

 ミシャちゃんの肩を抱いたまま、まっすぐ王子を見上げる。


「殿下とやら。この子が今ここで笑っていられるのは、フランシスカさんがいたからです」


 その声は静かだった。

 けれど、少しも揺らがない。


「あの方が来る前、私たちは冬を数えていました。あと何日食べさせられるか、あと何日で薪が尽きるか、そんなことばかり」


 マルタさんは、焼けた果樹園を見て、それから私を見る。


「森を取り戻してくれたのも、仕事をくれたのも、毎日食卓に灯りを戻してくれたのも、フランシスカさんです。今さら返せと言われても、お返しできるようなものではありません」


 イフリーティアの周囲の炎が、ふっと膨らむ。

 けれど今度は村人へではない。

 兵士たちを牽制するみたいに、私たちの前で揺れた。


 次に、どっかと前へ出たのはトマスさんだった。


「海に出られるようになったのも、舟を直せたのも、店で稼げるようになったのも、この人が来たからだ」


 ぶっきらぼうな声が、広場に響く。


「あんたの言う『何もない場所』に、俺たちは毎日を取り戻したんだよ」


 彼は一度、焼けた温室を睨んだ。

 その目は怒っていた。


「平民だから何だってんだ。俺たちはこの村で働いて、食って、生きてる。その生活の真ん中にいる人を、今さら奪わせるかよ」


 デーゼの影が、ゆっくりと私の方へ戻り始める。

 足元の黒が、さっきよりずっと近い。


 そして、最後に。


 杖を突く音が、こつ、と響いた。


 ガランさんだった。

 老人とは思えぬほど、よく通る声だった。


「レオン王子とやら。よくお聞きくだされ」


 白い髭が風に揺れる。


「この方は客人ではない。施しをする女神でもない。ましてや、どこかの国の落とし物でもない」


 私は思わず息を止めた。


 ガランさんは、きっぱりと言い切る。


「フランシスカさんは、わしらの隣人じゃ」


 その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。

 隣人。

 あの日、私がほしいと願ったもの。

 そして、今こうして確かに返ってきたもの。


 私は、ベルの前に立った。

 煤で汚れた扉。

 焦げた木枠。

 けれど、ベルだけはまだそこにあった。


 震える手を伸ばす。

 熱い。

 でも、離さない。


「イフリーティア。タロウ。デーゼ」


 私は、はっきりと呼ぶ。


「うちは、まだ終わってない」


 レオンが何か叫んだ。

 けれど、もう耳に入らなかった。


「果樹園が焼けても、テラスが壊れても、また直せる。タルトも、パフェも、いくらでも作り直せる」


 ベルを握る指先に、力をこめる。


「でも、あなたたちの席だけは、誰にも消させない」


 そして――鳴らした。


 カラン。


 澄んだ音が、焼け焦げた空気を裂く。


 それは開店の合図だった。

 あの日、ガランさんが「これなら、今日が始まるって、すぐ分かる」と笑った、あの音だ。

 今日を始める音だった。

 そして何より、帰ってきてと呼ぶ音だった。


「帰ってきて」


 私は、泣きそうな声のまま、それでももう一度言う。


「ここは、あなたたちの帰る場所よ」


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、イフリーティアの炎が一気にレオンたちの前へ回った。


「私自身に、私の果樹園を壊させるとは」


 その声は震えていない。

 けれど、怒りの熱だけが研ぎ澄まされていた。


「ずいぶんと、ふざけた真似をしてくれましたわね」

「ガルゥ!」


 タロウが吠える。

 今度の咆哮には、もう迷いがなかった。

 大きな身体が、はっきりとミシャちゃんの前へ立つ。

 誰を守るべきか、もう獣王は知っている。


「……確かに、強力な魔法だ」


 デーゼが、ゆっくりと前へ出た。

 その足元の影は、もう完全に私の側に戻っている。


「だが、甘いな。人の心を縛るなら、帰る場所ごと消しておくべきだった。主従契約は切れても、主と私たちは、この場所で強く繋がっていた。その想いが貴様の命令を上回った」


 レオンの顔から、余裕が消えた。


「そ、そんな……隷属の鏡は絶対のはずだ!」

「絶対?」


 デーゼが鼻で笑う。


「くだらん。プリンの一つも知らぬ男に、私の何が支配できる」


 いつもの調子のその言葉に、私は思わず息を呑んだ。

 戻ってきた。

 本当に、戻ってきたのだ。


 レオンが後ずさる。


「おい、兵士! 何をしている、早く――」

「おい」


 デーゼの赤い瞳が、兵士を射抜く。

 その一言だけで、兵士は足を止めた。


「主に汚い手で触るな」


 その瞬間、張りつめていた何かが、ぱんと音を立てて切れた気がした。

 泣きそうになった。

 でも、まだ泣くわけにはいかない。


 レオンはなおも喚こうとする。

 けれど、その声を断ち切るように車輪の音が響いた。

 丘の下から、鋭く澄んだ声が届く。


「フランシスカさん!」


 全員が振り向く。


 坂道を、白銀の馬車が駆け上がってくる。

 扉に刻まれているのは、大聖堂の紋章だった。

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