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第20話 決断

 夜のテラスには、昼間の名残がまだ少しだけ残っていた。

 片づけきれなかった皿。

 風に揺れるままのリボン。

 誰も座っていない椅子。

 切り分けられなかったタルトの甘い匂いだけが、冷えた空気の中で場違いみたいに漂っている。


 昼間なら、この時間のテラスはもっと賑やかだ。

 ベルが鳴って、誰かが笑って、タロウが駆けてきて、デーゼが面倒くさそうにしながらもパフェを仕上げて、イフリーティアが完璧な手つきで紅茶を注ぐ。

 明日の朝も、そうなるはずだった。


 そう思っただけで、胸の奥が痛んだ。


 私は一人、テーブルに残されたカップへ視線を落とした。

 紅茶の表面には、もう湯気がない。


 今日の続きが、明日も当たり前にある。

 ついさっきまで、そう信じていたのに。


「……まったく、辛気くさい顔をしているな」


 低い声に振り向くと、デーゼがいた。

 いつものように不遜な顔をしている。けれど、その赤い目の奥には、昼間から消えない険しさが残っていた。

 すぐ後ろにはイフリーティアとタロウもいる。

 イフリーティアは静かに私を見つめ、タロウは心配そうに鼻を鳴らした。

 その姿を見ただけで、喉の奥がひどく熱くなる。


「三人とも……」

「フランシスカ様」


 イフリーティアが一歩前へ出る。


「昼間からずっと考えておられたのでしょう。私たちにも、お聞かせください」


 優しい声だった。

 だから余計に、言いたくなかった。

 言えば、本当に終わってしまう気がした。


 私は両手の甲を見た。

 炎の紋章。獣の契約。そして背中の闇の印。

 恐ろしいはずだったその力の証は、今では、朝のコーヒーの匂いや、ミシャちゃんの笑い声や、テラスを吹き抜ける海風と、全部一緒に結びついてしまっている。


 これを消せば、私はこの村を守れるかもしれない。

 でも同時に、もう二度と今までと同じ明日は来ない。


 指先が、どうしても動かなかった。


「……本当は、別の方法がないかって、ずっと考えていたの」


 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。


「でも、ないのよ。少なくとも、今の私には思いつかない。デニースさんは、今も王子に拘束されたまま……もし処罰されたら、取り返しがつかない」


 アリアは、『何か手立てを探してきます』と、すぐに馬車でローゼ大聖堂に走っていってくれたが、明日までに間に合う保証はない。


「主」

「レオン王子の狙いは、私だけじゃない。あなたたちもよ」


 私は三柱を順に見た。


「もしあなたたちがここにいる限り、あの人は何度でもこの村を口実にする。国際法だの、秩序だの、いくらでも綺麗な言葉を並べて。デニースさんも、村の人たちも、きっと巻き込まれる」


 タロウが低く喉を鳴らした。

 怒っているというより、不安そうな声だった。


「でも、フランシスカ様が」


 イフリーティアの声が揺れる。


「あなたが、ここを離れるなど――」

「離れたくないわ」


 自分でも驚くくらい、はっきり出た。

 取り繕うより先に、本音が落ちた。


「嫌よ。本当は、すごく嫌」


 視界が滲む。


「やっと見つけたの。私がいてもいい場所を。朝になったらベルが鳴って、タロウが走ってきて、イフリーティアが温室を見に行って、デーゼが偉そうに今日のパフェを語って……そんな明日が、やっと当たり前になってきたのに」


 言いながら、胸の奥が軋んだ。

 もう止まらなかった。


「ミシャちゃんに、また苺を摘ませてあげたかった。アリアに、次は春の新作パフェを食べてもらいたかった。マルタさんと仕込みの相談をして、トマスさんに今日も口が悪いって笑って……そんなこと、全部、まだやりたかった」


 タロウが細く鳴いた。

 大きな身体をすり寄せるようにして、私の手に鼻先を押しつける。

 温かい。

 その温かさが、余計につらかった。


「でも」


 私は、息を吸った。


「ここに残ったら、もっと駄目になる。私はたぶん、また一人で抱え込む。みんなを守るって言いながら、結局みんなを巻き込む」


 前世の自分が、ふと脳裏をよぎった。

 まだ大丈夫。まだ回せる。まだ私がやれば。

 そう言い続けて、気づいた時にはもう何も残っていなかった、あの感覚。

 同じことを、ここで繰り返したくなかった。


「だから、お願い」


 私はとうとう両手を胸の前で握りしめた。


「せめて、あなたたちだけでも逃げて。姿を消して。私との契約も、ここで終わりにする」


 沈黙が落ちた。

 波の音だけが、遠くでゆっくりと砕ける。


 最初に動いたのは、イフリーティアだった。

 彼女はまっすぐ立ったまま、けれど唇だけをきゅっと結んでいる。


「……ご命令、ですか」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。

 命令だと言ってしまえば、少しは楽だったかもしれない。

 主として命じれば、彼女たちは従う。

 私だけが悪者のまま、終われる。


 でも、それは違うと思った。


「違う」


 かすれた声で、私は首を振る。


「命令じゃない。お願いよ」


 イフリーティアは、目を閉じた。

 細く長い睫毛が震え、その肩がほんのわずかに揺れる。


「……そう、ですか」


 声だけは、まだ気高かった。


「ならば私は、最後までフランシスカ様の願いとして聞きます」


 その言い方が、いっそう胸に刺さった。


 タロウは言葉を持たない。

 だからこそ、その反応は真っ直ぐだった。


「くぅん……」


 あの日、獣の森で差し出した手を舐めてくれた時と同じように、彼は私の指先を舐めた。

 それから、離れまいとするみたいに身体を押しつけてくる。


「タロウ……」


 家族よ、と言ったのは私だった。

 その時、先に信じてくれたのはこの子の方だった。


 離れたくない。

 その気持ちだけは、理屈より先に伝わってしまう。


 喉が詰まった。


 デーゼはしばらく何も言わなかった。

 いつもなら、ここぞとばかりに皮肉の一つも寄越してきそうなのに、今日は妙に静かだった。

 その沈黙の方が、どんな非難より苦しい。


 やがて彼は、小さく息を吐いた。

 舌打ちにも似た、諦めたような音だった。


「勝手な主だ」


 低く落ちたその声は、怒っているようには聞こえなかった。

 ひどく苦しそうで、だからこそ私の胸を抉った。


「主の都合で呼びつけ、主の都合で居場所を与え、挙げ句の果てに主の都合で追い出すか」

「……ごめんなさい」

「謝るな。余計に腹が立つ」


 デーゼは私から目を逸らした。

 その横顔は、いつもよりずっと幼く見えた。


「……忘れるな」


 しばらくして、彼は続ける。


「私の帰るべき場所は、ここ以外はない」


 その言葉に、胸がぎゅっと掴まれた。

 苦味があったから甘さが分かったように。

 長い長い虚無があったから、この場所がどれほど大切か、デーゼ自身が誰より分かってしまっている。


「ええ」


 涙がこぼれた。


「忘れないわ。絶対に」


 私は震える指で、契約印に触れた。

 契約を結んだ時、その結び方と同じように、解き方もまた心の奥に刻まれていた。

 自分から解こうと願いさえすれば、できる。


 ――けれど、本当は一度だって使うつもりのない知識だった。

 何度も躊躇った。

 一度手を下ろして、また上げて、それでもまだ決めきれなくて、気づけば唇を噛んでいた。


 これを消せば守れるかもしれない。

 でも、消した瞬間に失うものがある。

 頭では分かっていた。

 分かっていたのに、身体の方が必死に拒んでいた。


「フランシスカ様」


 イフリーティアが、そっと呼ぶ。


「どうか、ご自身を責めすぎないでください」

「きゅぅ……」

「……さっさとしろ。できなくなるぞ」


 三者三様の声に背中を押されて、私はようやく目を閉じた。

 契約解除の言葉を唱える。


 その瞬間、手の甲から熱が消えた。


 熱が消えた、というより、胸の奥から何かを根こそぎ引き抜かれたようだった。

 炎も、牙も、影も。

 ずっとそこにあった三つの気配が、いっせいに遠ざかっていく。


 足元が揺らぐ。

 熱いわけではない。むしろ逆だった。

 骨の中にまで冷たい夜気が流れ込んでくるみたいで、息がうまく吸えない。


 皮膚の上の痛みじゃない。

 胸の奥にあった灯りを、素手で掴んで引き剥がされるような痛みだ。

 世界の音が、少し遠くなった。

 波の音。風の音。誰かが息を呑む気配。

 全部が一歩ずつ離れていく。


 私はその場に膝をつきそうになって、かろうじてテーブルに手をついた。

 呼吸が浅い。

 何かがなくなったことだけは、はっきり分かるのに、それがあまりにも大きすぎて、すぐには名前をつけられない。


「フランシスカ様!」


 イフリーティアの声が、今度こそ強く揺れた。


 私は首を振る。

 まだ大丈夫、と言いたかった。

 けれど、その言葉すらうまく出ない。


 タロウが鼻先で私の腕を押した。

 デーゼの影が一瞬だけこちらへ伸びかけ、しかし途中で止まる。

 もう、前と同じようには触れられない。

 その事実が遅れて胸に刺さった。


「……お願い」


 やっとのことで、私は顔を上げた。


「行って。今すぐ」

「ですが――」

「お願いよ、イフリーティア」


 今度ははっきり言えた。


「これは、最後のお願いだから」


 イフリーティアは唇を噛み、深く頭を垂れた。

 あの誇り高い精霊王が、泣くのを堪えるみたいに。


 タロウはなおも動かなかった。

 私は震える手でその頭を撫でる。

 ふわふわした毛の感触が、やけに鮮明だった。


「家族なんでしょう」


 声が揺れる。


「だったら、お願いを聞いて。今だけでいいから」


 タロウは大きな目で私を見つめたあと、細く鳴いた。

 それは了承というより、どうしても納得できない子どもの泣き声に近かった。


 最後にデーゼが私を見る。

 何か言いたげで、けれど結局、彼はまた短く息を吐いただけだった。


「……忘れるな」

「ええ」

「戻れ。必ず」


 命令みたいな言い方だった。

 でもそれは、彼なりの祈りだった。


「……うん」


 三柱はまだ何かを言いたげだった。

 けれど時間は待ってくれない。

 イフリーティアの炎が揺れ、タロウの輪郭が夜の気配に溶け、デーゼの影が静かに引いていく。

 そうして、テラスには私だけが残った。


 一人になった途端、膝から力が抜けた。

 椅子に座ることもできず、その場にしゃがみ込む。


 これでよかった。

 これしかなかった。

 そう思わなければ、立っていられなかった。


 カップの中の紅茶は、すっかり冷えていた。

 明日の朝も、ここでコーヒーを淹れるはずだった。

 ベルが鳴って、今日の続きみたいに誰かが来るはずだった。

 でももう、それは来ない。


 夜明けは、容赦なくやってくる。

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