母の地図
一
これまでの自分の人生で、自分で決めてきたことは少ない。
山田佳奈は、窓の外に広がる曇り空を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていた。三十二歳。独身。現在無職。履歴書の資格欄だけが、妙に充実している女。自己紹介をするとしたら、そんなところだろうか。
佳奈がこれまで歩いてきた道は、言ってしまえば母親の描いた地図の上にある道だった。
母親が「この学校に行った方がいいんじゃない?」と言った学校に入学し、母親が「この資格、取った方がいいんじゃない?」と言えば、その資格を取った。就職活動の時でさえ、「佳奈には事務の仕事が向いてると思うけど」という母の一言が、彼女の進路をあっさりと決定した。抵抗する気にもならなかった。母の言葉には、不思議な確信があった。根拠を尋ねても「なんとなく」としか言わないくせに、その「なんとなく」が、いつも正しかった。
そんな佳奈が、自分の意志で決めたことといえば、三つだけだ。働く場所と、そこを辞める決断と、辞めた後に職業訓練校に通うこと。
──だが、どれも失敗に終わった。
最初の失敗は、二十六歳の時だった。母親が勧めた安定した会社を断り、友人に誘われるままに入った小さなIT企業。風通しがいいと聞いていたが、実態は慢性的な人手不足で、残業が続き、二年も経たないうちに体を壊した。
次の失敗は、その会社を辞める時だった。もう少し続けた方がいいと母は言った。でも佳奈は、もう限界だと自分で判断し、退職届を出した。貯金を切り崩しながら療養した三ヶ月間、母は何も言わなかった。その沈黙が、かえって佳奈を苦しめた。
そして職業訓練校。Webデザインを学べば、在宅でも働けると思った。佳奈なりの打算があった。だが、センスというものは努力では補えない部分があるらしく、六ヶ月間通い続けても、就職に結びつくような作品を作ることができなかった。
母親に決めてもらったことは不思議とすべてうまくいったのに、自分で決めたことは、ことごとく失敗した。
それが何故なのか、佳奈には分からなかった。
他人の方が、他人のことをよく見ている。だからかもしれない、と思った。私という人間の輪郭は、私の内側からよりも、外側から眺めた方が、よほどはっきり見えるのかもしれない。
私に向いていることは、私よりも母親の方がずっと正確に把握している。
そんな気が、佳奈にはした。それは敗北感に似ていたが、完全な敗北感でもなかった。どこかに、小さな安堵が混じっていた。自分で考えなくていい、という安堵が。
二
また、母親に言われた。
夕食の後、食器を洗いながら、母は何気ない口調で言った。「佳奈には、この資格が向いてるんじゃない?」と。
テーブルの上に置かれた一枚の紙。母がどこかで見つけてきたらしいパンフレットには、「医療事務」の文字が印刷されていた。
佳奈は黙ってそれを手に取った。
医療事務。病院やクリニックで、受付や会計、診療報酬の請求などを行う仕事。特別な才能がいるわけでもなく、資格を取れば全国どこでも働ける。安定している。佳奈はパンフレットをめくりながら、そう理解した。
その資格を取ってみる気になったのは、これまで母親の言う通りにして間違ったことがなかったからだった。
本当にそれでいいのか、佳奈には分からなかった。三十二歳にもなって、母親に人生を決めてもらっている自分が、みっともないとも思う。友人たちはとっくに自分の足で立っている。結婚した者もいれば、起業した者もいる。みんな自分の地図を、自分で描いている。
それでも。
自分で決めることの方が大切だと頭では分かっていながら、これまでの人生、自分で決めるよりは、母親に道を示してもらった方が、うまくいった。そんな成功体験が、ためらう佳奈の背中をそっと押した。
「……ちょっと、調べてみる」
佳奈がそう言うと、母は振り向きもせず、「そう」とだけ答えた。その短い返事の中に、安堵とも満足ともつかない何かが混じっているような気がして、佳奈は少しだけ、居心地が悪かった。
三
テキストが届いたのは、申し込みから三日後のことだった。
段ボール箱を開けると、分厚い教材が三冊と、模擬試験用の問題集、それから小さなメモ帳が一冊入っていた。メモ帳には「学習スケジュール」と印刷されていた。
佳奈は教材を机の上に並べ、しばらくそれを眺めた。
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
テキストを開くと、最初のページに「あなたの学習をサポートします」という一文があり、佳奈はなぜかそこで少し笑った。誰が書いたとも知れない言葉なのに、今の自分には少しだけ温かく聞こえた。
勉強を始めて二週間が経った頃、佳奈はあることに気づいた。
内容が、思いのほか面白い。
診療報酬の計算は複雑で、最初は数字の羅列にしか見えなかった。だが、一つひとつの項目には意味があり、その意味を理解すると、パズルのピースがはまるような感覚があった。佳奈はもともと、細かい作業が嫌いではなかった。数字を丁寧に積み上げていく作業は、どこか性に合っていた。
もしかすると、母は最初からそれを知っていたのかもしれない。
そう思いかけて、佳奈は首を振った。
いや、違う。今度は、自分で確かめる。
母が正しかったかどうかは、自分でやってみて、自分で判断する。それだけのことだ。母の地図を使いながらも、歩くのは自分の足で。そう思えば、悔しさも、情けなさも、少しだけ薄れていった。
窓の外は、久しぶりに晴れていた。
佳奈はテキストを開き直し、シャープペンシルの芯を確認してから、問題集の最初のページに日付を書き入れた。
四
試験日は、申し込んだ日から三ヶ月後だった。
その三ヶ月間、佳奈はほとんど外に出なかった。午前中に二時間、昼食を挟んで午後にまた三時間。夜は問題集を一単元だけ解いて、答え合わせをしてから眠る。規則正しいとも言えるし、単調とも言えるその生活を、佳奈は黙々と続けた。
母は何も言わなかった。
「勉強、進んでる?」と聞いてくることもなく、「無理しなくていいよ」と声をかけることもなく、ただ毎日、決まった時間に食事を作り、佳奈の部屋の前に洗濯物を置いていった。その静かな気配が、佳奈にはありがたかった。励まされるより、見守られる方が、今の自分には合っていた。
勉強を始めて一ヶ月が過ぎた頃、佳奈は模擬試験を初めて解いた。
結果は、合格ラインをわずかに下回る点数だった。
悔しいとは思わなかった。むしろ、これだけ取れるのか、という気持ちの方が強かった。職業訓練校でWebデザインを学んでいた時は、いつも自分だけが取り残されていくような感覚があった。クラスメイトたちが次々と課題を仕上げていく中、佳奈だけが同じ場所で足踏みしているような。あの感覚がない。ただそれだけのことが、佳奈にとっては小さな、しかし確かな手がかりだった。
二ヶ月目に入ると、模擬試験の点数は合格ラインを安定して超えるようになった。
だが、佳奈は油断しなかった。
かつての自分なら、ここで少し気を緩めていたかもしれない。でも今は違う、と思った。理由は自分でもうまく言葉にできなかったが、強いて言うなら、今度こそ自分の足で立ちたかった。母親の「向いてるんじゃない?」という言葉をきっかけにしながらも、この資格を取るのは自分だ。合否を決めるのは自分の努力だ。その一点だけは、誰にも譲れなかった。
五
試験の前日、母が珍しく佳奈の部屋をノックした。
「入っていい?」
「うん」
母は湯呑みを二つ持って入ってきた。緑茶だった。母が佳奈の部屋に入ってくること自体、久しぶりのことだった。
二人は並んでベッドの端に腰掛け、しばらく黙ってお茶を飲んだ。
「緊張してる?」と母が聞いた。
「少し」と佳奈は答えた。
「そう」
また沈黙が来た。佳奈は湯呑みの温度を手のひらで確かめながら、聞こうかどうか迷っていたことを、口にした。
「ねえ、お母さん」
「うん」
「なんで医療事務だと思ったの?」
母は少し首を傾けた。考えているのか、どう答えるか迷っているのか、佳奈には判断できなかった。
「うーん」と母は言った。「佳奈って、昔から、ルールがはっきりしてることが得意だったじゃない」
「ルール?」
「そう。曖昧なことが苦手で、決まってることはきちんとできる。子供の頃から、そういう子だった。ゲームでも、ルールを覚えたらすごく強かったけど、ルールが変わると途端に混乱してたでしょ」
佳奈は記憶をたどった。確かに、そういうところは今もある。
「医療事務って、複雑に見えるけど、ちゃんとルールがあるじゃない。それが佳奈には合ってると思って」
「……なんとなく、じゃなかったの」
母は少し笑った。「なんとなくよ。でも、なんとなくには、ちゃんと理由がある」
佳奈はお茶を一口飲んだ。温かかった。
「ありがとう」と言ったら、母は「別に」と言って立ち上がった。「明日、頑張りなさい」
扉が閉まった後、佳奈はしばらくその場に座ったまま、何かをじっと考えていた。
怒りでも感謝でも安堵でもない、何か名前のつかない感情が、胸の中で静かに動いていた。
六
試験会場は、電車で四十分ほどの場所にある専門学校だった。
受験者は三十人ほどで、佳奈より若い人が多かった。二十代前半とおぼしき女性たちが、試験直前まで小さなノートを開いて確認している。その姿を横目で見ながら、佳奈は手ぶらで椅子に座った。
もう見返すべきものはない、と思った。やれることはやった。
試験が始まると、佳奈は深呼吸を一つして、問題用紙をめくった。
最初の設問を読んだ瞬間、頭の中が静かになった。
緊張が消えたわけではない。ただ、問題と自分の間に余分なものがなくなった。模擬試験を何十回と解いてきた時と同じ感覚が、静かに戻ってきた。一問ずつ、丁寧に。分からない問題は飛ばして、最後に戻る。慌てない。焦らない。
試験時間は九十分だった。
佳奈が答案を見直し終えたのは、残り十分のところだった。
ペンを置いて、窓の外を見た。曇りだった。でも今日の曇り空は、あの日の曇り空とは少し違って見えた。
七
合格通知が届いたのは、試験から三週間後のことだった。
封筒を手に取った瞬間、薄さで分かった。厚ければ不合格の書類が入っている。薄ければ、一枚の通知だけが入っている。それが合格の証だと、受験前に調べていた。
佳奈はキッチンで皿を洗っていた母を呼ばずに、自分の部屋で封を切った。
「合格」の二文字を確認した時、声は出なかった。
泣くかと思ったが、泣かなかった。ただ、長い息を一つ吐いた。それだけで、十分だった。
しばらくしてからリビングに行くと、母はソファでテレビを見ていた。佳奈は無言で通知書を差し出した。
母は画面から目を離し、通知書に視線を落とした。
「そう」と母は言った。いつもと同じ、短い言葉だった。
だが、その「そう」の重さが、佳奈にはこれまでと少し違って感じられた。
「就職活動、始める」と佳奈は言った。「自分で求人を探して、自分で決める」
母はテレビに視線を戻しながら、「そうしなさい」と言った。
反対しなかった。口を挟まなかった。ただ、それだけだった。
佳奈は自分の部屋に戻り、パソコンを開いた。求人サイトのページを立ち上げ、検索条件の欄に「医療事務」と打ち込んだ。
検索結果が並ぶ画面を眺めながら、佳奈はふと思った。
母の地図は、ここまでだ。
ここから先は、自分で描く。
母が正しかったかどうかは、自分でやってみて、自分で判断する。それだけのことだ。母の地図を使いながらも、歩くのは自分の足でなければならない。それが分かるまでに、三十二年かかった。遅いとは思う。でも、分からないままでいるよりはずっとよかった。
佳奈はスクロールを止め、一つの求人に目を留めた。
自宅から電車で二十分ほどの、小さなクリニックだった。
「未経験可」の文字はなかった。でも、「資格保持者優遇」という言葉があった。
「もしうまくいかなかったらどうする?」そんな問いが頭を掠めた。だが、それでもいい。
応募ボタンの上にカーソルを置いて、佳奈は少しだけ迷い、それからクリックした。
誰かに言われたわけではなく、自分で決めた。
それだけのことが、今の佳奈には、何よりも大切なことだった。
──完──




