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ふたり、夢みる渡り鳥

作者: 有未

 水出しアイスコーヒーを作った。冬なのに。そんなことは気にもしない――少しだけ、気にする。こんなに寒い冬の日に、水出しアイスコーヒーなんて。でも、飲みたいのだもの。割と台所、暖かいし。自室は暖房をしているし。誰も聞いていないのに、私はひとり、心の中でそう言い訳をして水出しアイスコーヒーを作った。細長い耐熱性のピッチャーに水道水と、お茶パックに入れたコーヒーの粉末を入れて冷蔵庫へイン。おいしくなりますように。その祈り通り、水出しアイスコーヒーはおいしく出来た。約五時間程、それは冷蔵庫で冷やされ、抽出されていた。私は宝物を扱うかのように冷蔵庫からピッチャ―を取り出し、氷を一杯に入れたマグカップに(冬なのに!)水出しアイスコーヒーを注いで飲んだ。


「うまい」


 思わず、独りごちる。聞く人はいない。だから、独り言だ。


「うまいコーヒー……特に水出しアイスコーヒーというものは季節問わず、飲めるものだと思うのだよ。春夏秋冬、一年を通じてうまいと思うのだ、私は。水出しのさっぱりとした飲みやすい味は、私のようにコーヒーなんて牛乳をたっぷりと入れるものでしょ? と思っていた者の思考を覆すに値する。なんとなんと、ブラックコーヒーなんて絶対に飲めないと思っていたこの私がこうして水出しでおいしく飲めているのだから、まだまだこの世は奇妙で面白い」


 ごく、と水出しアイスコーヒーを飲み、不意に私は見慣れた台所の天井を見上げる。


「魚が泳いでいるような見慣れたこの白い天井の模様も奇妙だ。ここにいる魚は魚のようで魚に非ず。どこから来たかも分からず、ただただそこにいて、どこにも行けない魚の群れ。群れることが正解で幸福なのかは私も誰も知らず。魚も人も植物も。群れて手招きすることだけが世界の真実とは限らない。そうだろう?」


 ごく、と水出しアイスコーヒーを飲み、私はテーブルに置いていたスマートフォンの通知をちらりと横目に見る。画面には、それこそ見慣れた人物の名前がパッと表示されていた。シュッと上から下へ画面を撫でてメッセージ内容を私は確認する。


 “月が落ちて来そうな夜だ。こんな日に飲む水出しアイスコーヒーは格別にうまい。そうだろう?”


 私は少しだけ唇に笑みを浮かべる。メッセ―ジ内容を正しく認識する意味合いも込めて、私はごくりと水出しアイスコーヒーを飲む。カラ、と氷とマグカップがぶつかって涼しげな音を立てる。マグカップを片手に、青い遮光カーテンと白いレースのカーテンを同時に少しだけ開けると、確かにメッセージの通り大きな月が潤みながら輝いていた。


 その時、ポコチャカ、ポコチャカと私のスマートフォンが愉快な音楽を奏でて通話の着信を知らせた。


「はい」


「もしもし」


 何年前からのお決まりなのだろう、私達はその定型句で電波を通して繋がる。


「まだメッセージに返事をしていないのに。せっかち」


「起きてた?」


「まだ九時だもん、起きてるよ」


「いつも眠たそうな印象あるからさ」


「否定はしない」


 途中で通話をスピーカーにし、私はスマートフォンを置いたテーブルの椅子を引いて座る。マグカップを置くとカタンと小さな音が鳴った。


「あ、もしかして飲んでた? 水出しアイスコーヒー」


 通話相手のしたり顔が目に浮かぶようで、私は再び唇に笑みを刻んだ。


「まあね」


 端的にそれだけを答えたが、スマートフォンの向こうから嬉しそうな声が続く。


「好きになってくれて嬉しいな」


「水出しアイスコーヒーね」


「充分だよ」


「充分なの? 水出しアイスコーヒーで?」


「最初はそんなもんだよ」


「そう?」


 カラカラとスマートフォンの向こう側から音がする。


夏那人(かなと)も飲んでたの?」


 水出しアイスコーヒー。私は言外にそう告げて、返事を待つ。


「急に飲みたくなってね」


 まるでお酒のことを指すように夏那人は言い、ごくりと何かを――水出しアイスコーヒーを飲んだ。


 私がひとつ大きく上に伸びをすると、古い椅子がギシリと音を立てる。そのまま天井の魚模様を眺めていると、どこかに流れ泳いで行きたいような気持ちになる。否、心の奥底では私はずっとここにいたいのかもしれない。仕事も変えず、住む場所も変えず、環境も変えず。そう、何ひとつ変えることなく、私はずっとずっと同じままでいたいのだろう。想いも、変えることなく。


 ――本当に、それが私の本心だろうか?


「そういえばさ」


 夏那人が切り出す。私は「うん」と答えて続きの言葉を待った。


「初めて個展で絵が売れたよ」


「おめでとう!」


 私は手放しで喜んだ。心の中が温かい喜びでたちまちに満たされて行く。


「だって、夏那人の絵、素敵だもん。私は絵のこと、詳しくないけど。色の重ね方、好き。初めて個展に行った時、一枚の絵の前にいる時間がすごく長いような短いような……永遠のような一瞬のような、不思議な気持ちになってた。三日月に無数の流れ星が懸かる夜空も好きだし、草原にポツンと咲く赤いチューリップも好きだし、ティーカップが泳いでいる海も好き」


「ありがとう、嬉しいよ。由衣香(ゆいか)の日記も好きだよ。いつも更新、楽しみにしてる」


 私は照れを飲み干すように水出しアイスコーヒーを飲む。マグカップはそれで空になった。


「由衣香はエッセイとか小説は書かないの?」


 夏那人がまるで空を渡る自由な鳥のような声で私に尋ねる。私はもう、それだけでこのまま私も鳥になろうかと思ってしまう。どこまでもどこまでも飛んで行く鳥に。太陽の輝く日も、曇りの日も、雨の日も、私は夏那人と一緒に鳥になって空と季節を渡って行く。そんな風に夢をみる。


「私は、エッセイも小説も書いたことないよ」


「書いてみたら? 由衣香の文章、読みやすいし表現も面白いよ。長い作品にしてみるのも良いと思う」


「私は……」


 続ける言葉を見失う。訪れた沈黙の先で、ああ、私はやはり怖いのだということを悟る。夢をみることが。太陽の下に出ることが。私だけの花を探す旅に出ることが。夏那人のように、私はなれない。自己表現を世界に発信して、近くて遠い誰かに作品を届けることに私はきっと、憧れている。同時に、恐れている。そんな途方もない願いを祈って、誰にも受け取って貰えなかったら? もしも、それでも私が諦められなかったら? 広い広い空にたったひとり、羽ばたいて迷ってしまったら? もう引き返すことなど出来なくなっているのに。その恐怖が私を包む。綺麗に。隙間などないくらいに。


「無理にとは言わないけど、表現するって面白いよ。自分対世界じゃなくて、世界の住人に改めてなるんだ。その中で、自分の持っている色や音や形はこれですっていうのを気軽に伝えるんだ。きっと、気に入って貰える。由衣香のこと、俺は好きだから分かる。優しくて、個性的で、面白くて。俺は由衣香の書く作品を読みたいと思っている、第一人者だよ」


「第一人者って。夏那人も表現が面白いよね」


「時々、伝わりづらいこともあるかもだけどね」


 夏那人が少し笑ったのが分かった。


「やってみると、意外と簡単ってこと、あると思うよ」


 夏那人はそう言って、水出しアイスコーヒーであろうものを注ぐ音を響かせる。私もお代わりを取りに席を立つ。夏那人と同じように水出しアイスコーヒーを注ぐと、氷がカラカラと良い音を立てた。


「もし、何か書いたら教えてよ。日記も楽しみにしているし」


 その言葉の誘引力に私は逆らえず、


「うん」


 と答えた。


 私は、きっと、もう、とっくに。とっくに夏那人に惹かれている。空と季節を苦労しながらも自由に渡って行く鳥の姿と夏那人が重なる。名前のような夏の太陽と共に、青空の下をきっと夏那人は羽ばたいている。思い違いでなければ夏那人は私に手を差し出しているのだ。一緒に飛ぼう、と。


「そろそろ、寝るかな。コーヒー飲んだから寝付けるか自信ないけど」


「俺も寝るか。同じく、自信ないけど」


 お代わりの水出しアイスコーヒーをマグカップに半分程残して、私は紅茶を抽出する時用の蓋をする。そして、冷蔵庫へ仕舞う。ピッチャーも冷蔵庫へイン。


「じゃあ、おやすみ」


「うん、おやすみ」


 ポン、と軽快な音がひとつ響いて通話は終わった。


 やってみると意外と簡単――か。私は夏那人の言葉を思い返しながら、暖房の効いた室内で厚い毛布の中に滑り込む。もぞもぞと動き、自分にとって居心地の好い体勢になって暗闇の中で天井の小さな照明を見つめる。それは、まるで夏の太陽のようだった。太陽の下、夏那人と一緒に空を渡る夢を私はもしかしたらみるかもしれない。そう思いながら私は目を閉じ、眠りに就いた。

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