エピローグ
妻は書類から顔を上げた。
「これはなんですの?」
「君の元婚約者が獄中で書いた手記、いわば回顧録だな」
妻は不愉快そうな顔をした。
「私が認識している事実とは異なる内容が結構ありますね」
「訂正するかい?」
「いいえ、私は無駄なことはしたくありません」
そう言って妻は書類をテーブルに置いた。
「これを私に見せたということは、ファビアンは処刑されたのですね」
「元婚約者を呼び捨てかい」
「すでに王籍を剥奪された平民、いえ罪人です。敬称をつける理由がありません」
「そうだったね」
俺はテーブルの上のグラスに手を伸ばす。そしてグラスの中身を口に含む。酒の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
「君の元婚約者は相当なクソ野郎だったようだな」
「陛下、二人きりのときは構いませんが、他の人間の前ではそのような言葉使いは謹んでください」
「分かっているつもりだけど、改めて気をつけるよ」
これ以上飲むと酔いが回りそうなので、グラスをテーブルに置いた。
「そんなクソ野郎でも最後は役に立ってくれたよ。君の魔法のおかげで属国の混乱と反乱を未然に防ぐことができた。これを君の功績とすることで、君を側妃から正妃に格上げできる。多少は強引だが、なんとかなる範疇だ」
不穏分子たちを粛清したばかりだからな。
「私が皇后になれば、王に即位した父も安堵するでしょう」
「皇后の母国となれば、属国といえど粗末な扱いはできなくなるからな。まだ会ったことはないが、義父殿には安心するように手紙を書くといい」
俺はグラスの代わりに書類を取り上げた。
「これはどうする? 不愉快なら燃やしてしまうか?」
「私は無駄は嫌いです。どの程度の価値があるかはわかりませんが、歴史的な史料として活用しましょう。本にします」
「出版するのか?」
「そんなものを読みたがる人はほとんどいません。作るのは三冊だけです。一冊はロニオンに送ります。父なら適切な書庫に収めるでしょう。もう一冊はデスハイムの書庫に」
「最後の一冊は?」
「手元に置いておきます」
感情が表情に出たらしい。
「勘違いしないでください。人物や物事を表面だけで判断することの愚かさを教えるための教材にします」
そう言うと妻は下腹部をさすった。まだ見た目では分からないが、そこには新しい命が宿っている。妻の表情は慈しみに溢れていた。決して夫である俺には向けられない表情だ。
それはそうだ。妻から見れば俺という人間は、祖母の親類縁者を皆殺しにし、人質として強引に連れてきた自分に隷属の魔法をかけて奴隷にしようとした男なのだ。ついでに言えば、その魔法をあっさり跳ね返されて、逆に隷属の魔法をかけられた間抜けな魔導士でもある。
あの場には魔導士は俺と妻しかいなかった。だから周囲は俺が妻を支配していると思っているが、実際は逆だ。俺は妻の傀儡の皇帝だ。
妻にとって俺は憎しみの対象のはずだが、無駄を極端に嫌う妻は俺を操り人形として活用することによって、自分が楽にこの国を支配する方を選んだ。ここまでの合理主義者は、妻以外に見たことがない。
俺との間に子をもうけたのは、大規模転移魔法を実用化した俺を魔導士として評価し、種馬として選んだからだ。皇子を産んだという実績が、自分の地位を高めるという打算もあるだろう。まさに王侯貴族の夫人だ。
パラパラとページをめくる。目的の記述が見つかった。
「『王妃におんぶされた王』か。言いえて妙だな」
「……ダニエル王がなにか?」
「なに、これを皇后と皇帝に修正したら、俺のことだと思ってな」
「ご不満ですか?」
「いいや、逆に満足している」
俺は病気で臥せっていた先帝の死が近いことを知ったとき、密かに開発していた大規模転移魔法を軍部や有力貴族に売り込んだ。そして先帝が亡くなった後、売り込み先の支持によって皇太子だった兄を追い落として、皇帝の椅子に収まった。
だが父の名代として政をしていた皇太子と違い、魔法オタクの俺は政の経験がほとんどなかった。そのため皇帝なのに軍部や貴族にいいように扱われ、国全体の統制が取れなくなり、帝国は分裂寸前の状態に陥った。
それを救ってくれたのが妻だ。妻に操られるままに皇帝として行動したら、不穏分子たちはあっという間に粛清され、軍部も貴族も勝手ができなくなった。こうして帝国は分裂の危機を免れることできた。本当に妻には感謝しかない。
だが一歩間違えれば、俺もクソ野郎と同じ運命を辿ったかもしれないと思うと、肝が冷える。
「そのダニエル王だが、ロニオンでは本当に愚王とされているのか?」
「私は帝王教育というのを受けてないので、それの信憑性についてはなんとも言えませんが、私が受けた教育とは違ってますね」
「どう違うのかな?」
「ダニエル王には政策を立案・実行する手腕はなかったが、人材を適切に配置し、権限を委ねることができたと教えられました」
「王妃も人材の一人というわけか」
「ダニエル王の治世は、ロニオンの歴史の中でも平和で豊かな時代だったのです」
なるほど、そういう見方もあるのか。むしろそっちの方がしっくりくる。だとすると、気になるのはコイツだな。
「このアルベールとかいう教師も、クソ同様に了見が狭かったようだな」
「何度か会って話をしたこともありましたが、絵に書いたような権威主義者でしたね」
「君のことは評価していたようだが、血筋と肩書しか見ていなさそうだな」
「魔法は使えなかったそうですから、それ以外に判断材料が無かったのでしょう」
「ふむ。セルジル王はクソからも美点を見出そうとする君を称賛していたようだが、アルベールに対してはそこまでする気はないか」
「相手は婚約者でもないのですから、そんな無駄なことはしません」
「合理主義者の君らしいな。権威主義者とはあまり馬が合わないだろうし」
「権威主義者は王宮にも魔導学院にも大勢いて、さんざん手を焼かされましたから、好きにはなれませんね」
「それは俺も同感だ」
「陛下」
「ん?」
書類を読んでいたのだが、手元が急に暗くなったので顔を上げると、いつの間にか妻の顔が目の前にあった。クソが言うようなブサイクだとは思わないが、圧が凄い。
「私から見れば、陛下はまだあちら側で、こちら側ではありません」
「……わかった」
「くどいようですが、私は無駄が嫌いです。皇帝の椅子に座っているしか能が無い無駄飯食らいにはならないよう、くれぐれも気をつけてください」
「……肝に命じておこう」
次の瞬間、妻は元の椅子に座っていた。転移魔法の応用なのだろうか? 俺には理解も真似もできない。
妻は椅子から立ち上がった。
「私は先に休ませていただきます。おやすみなさい、陛下」
「ああ、おやすみ」
妻は寝室への扉をくぐった。妊娠中なので、寝所は同じでも寝室は分けてある。
妻の姿が見えなくなると、どっと冷や汗が出た。まだ即位して間もないというのにときどき思う。兄の皇太子から帝位を簒奪したのは、我が人生最大の失敗だったかもしれないと。
再びグラスに手を伸ばす。妻の前では酔うわけにはいかないが、今は酔わずにはいられない。
ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。
元々はリリアンヌが主人公だったのですが、何千番煎じか分からないテンプレにしかならなかったので、主人公を変更しました。
そのため作中では回収できなかった伏線等が残ってしまいました。
そこで元の原稿を手直した、リリアンヌの視点からのエピソードを追加することにしました。もしよろしければ、あと四話ほどおつきあいください。