真相
リリアンヌがロニオンを去ってから三ヵ月が経った。今日の父はメール公と謁見していた。
「メール公、今日はどのような用件で参った?」
「娘のクレマリアのことについてでございます」
「私の求婚を受けてくれるのですか!」
父の隣りにいた自分は、思わず前のめりになった。メール公には一週間前、マリーと結婚したいと申し入れていた。
「失礼ながら、その件はご辞退申し上げたい」
「な……」
絶句してしまった。
「クレマリアをデスハイム帝国に留学させたいので、出国を許可していただきたい」
「なぜだ! 私の妻では、王太子妃では不満だというのか?」
思わず感情的になってしまった。
「失礼ですが、殿下はまだ立太子の儀をすませておらず、王太子ではありません。第一王子です」
言い返したくても言い返せず、黙るしかなかった。
「今のクレマリアでは役者不足で王子妃は務まりません。今後はデスハイム帝国との関係が重要になります。そのためにも留学させて、見聞を広めさせたいのです」
「そうか……なら仕方ないな」
思わずそう呟いた。
「クレマリア嬢の出国を認める。勉学に励まれるがよい」
「御意。感謝いたします」
メール公爵は父に礼をすると退出した。
父は深いため息をついた。
「メール公にも見放されたか」
見放された? 父が何を言っているのか、理解できなかった。
「父上……」
「ここは王族の私室ではない。陛下と呼べ」
「……陛下、何を仰っているのですか?」
「王室はメール公に見放されたと言ったのだ」
「何を言っているのです? クレマリアをおうた……王子妃にするために留学させるんですよ」
「メール公はそんなことは言っていない。おまえが自分に都合がいいように勘違いしているだけだ。常識で判断して分からぬか? 傀儡の王室の王子と結婚するより、宗主国の高位貴族に見初められる方が、クレマリア嬢にとって幸せだろうが」
「なっ!」
「公爵家の当主としても、娘の父親としても、当然の判断だ。リリアンヌ嬢を人質として差し出したとき、帝国の男爵風情にぞんざいな口をきかれても反論できなかった儂の姿を見られたのだ。儂より帝国の男爵の方が偉いと思われても仕方あるまい」
「そんな……」
父は軽く頭を振った。
「帝国側から指名がなければ、おまえを人質として帝国に差し出すつもりだった」
「な、なぜです!」
「国にとって、リリアンヌ嬢の方がおまえより価値があるからだ」
「そんなことはありません!」
反射的にそう言ったものの、父の言うとおりだと分かっていた。
「コルマール平原の開墾、ノーブル河の治水、モンブリーの養蚕、ニーシェル山噴火からの復興。これらはリリアンヌ嬢の協力なしでは成功しなかった。それに比べ、おまえは国にどんな貢献をした? 言ってみろ」
そう言われても、何も言えなかった。
「リリアンヌ嬢はこの国に必要不可欠な人材だった。だからおまえと婚約させたのだ。それなのに、顔が気に入らないという理由でリリアンヌ嬢を傷つけおって」
「それは八歳のときの話です」
「顔は生まれつきのものだ。本人の努力ではどうにもならん。それを悪しざまに言われた八歳のリリアンヌ嬢がどれだけ傷ついたか、おまえには想像できないのか?」
「……」
「八歳児なら想像できなくても、おかしくはないだろうな。だが今のお前は十八だぞ。つい先日もリリアンヌ嬢の顔をけなしたな」
リリアンヌが人質となったときのことか。あのときは何も考えず、勢いで言ってしまった。
「……それは申し訳ないと思っています。ですが、それ以外は婚約者として誠実に接してきました」
父は自分の言葉を鼻で笑った。
「誠実だと? デビュタントが済んだらすぐにおまえたちを結婚させて立太子の儀をする筈だったのに、おまえはゴネて結婚を先延ばしにしたではないか。そのせいでおまえは未だに第一王子のままだ」
何も言い返せない。
「おまえがさっさとリリアンヌ嬢と結婚していれば、ロニオンが帝国の属国になることもなかったのだ」
「それはさすがに大袈裟では?」
父は何かを躊躇していたが、おもむろに話し始めた。
「リリアンヌ嬢は転移魔法が使える」
「えっ!」
「リリアンヌ嬢には、密かに“王室の影”を護衛につけていた」
「“王室の影”! それは都市伝説ではないのですか?」
「一般にはそう思われているが、実在する。立太子すればおまえにも教えるはずだった」
いや、いきなりそんなことを言われても……
「護衛につけていた“王室の影”が、二度ほどリリアンヌ嬢が転移魔法を使ったのを目撃している」
「待ってください。リリアンヌが転移魔法を使えるのなら、なぜ陛下や私にそれを教えなかったのですか?」
「教えるわけがなかろう。もしおまえと結婚して王室の一員になっていたら、リリアンヌ嬢は教えてくれただろう。だが婚約は婚姻と違う。婚約者のままのリリアンヌ嬢はワーズ公爵家の人間だ。王家とはいえ、違う家の人間に教えるはずがない」
「……それは、リリアンヌには王家に対する忠誠心がないということになりませんか?」
父は薄く笑った。
「おまえはそこから分からないのか。我が国は王政だが、王権神授説を奉じる専制君主国家ではない。貴族や民の忠誠は祖国に対するものであって、王家に対するものではない。国王とは貴族に担がれた神輿に過ぎず、貴族を代表して国を統治する装置に過ぎない。統治がまともに出来ない装置は交換されて捨てられる。我が国の国王とは、そのような儚い存在なのだ」
「……」
「リリアンヌ嬢に売国奴と罵られたとき、儂は反論しなかった。それはリリアンヌ嬢の方が正しかったからだ」
「……」
「そもそも一方的に貴族から搾取する王家が、貴族たちから支持されると思うか? 先に述べた事業でも、リリアンヌ嬢の貢献に対する報酬を、王家は利権という形で公爵家に払っている」
「……」
「今の王家は貴族の支持を急速に失っている。一緒に帝国への恭順を決めたはずのメール公ですら見放したのだ。沈没寸前の泥舟なのだ」
「……」
「おまえが実るはずのない初恋などに執着しなければ、状況は変わっていたのかもしれない。もっとも悪いのはおまえではなく、それを見逃した儂なのだが」
今までは反論できず黙っていたが、ここだけは反論せずにはいられなかった。
「なぜ実るはずがないなどと言えるのです!」
このとき自分を見る父の目は虚ろになった。それに寒気を覚えた。
「自覚がないのか? おまえはクレマリア嬢に嫌われていたのだぞ」
そんな馬鹿な! と思ったが、その思いは口から出なかった。
「クレマリア嬢だけではない。他の女児たちからも嫌われていた」
「……な、なぜです?」
ようやくそれだけを口から絞り出すことができた。
「自分が何をやったか憶えていないのか? 女の子たちがお茶会をしているテーブルに虫をぶちまけるわ、プレゼントと言ってカエルを押し付けるわ、ヘビを振り回しながら女の子を追い回したこともあったそうだな」
冤罪だ! と言いそうになって、思い出した。今まで忘れていたが、確かにやったことがある。
「……好きな子の気を引くために意地悪をする。小さい男の子にはよくあることです」
「そうかもしれぬな。だからおまえの中ではそれは立派な言い訳になるのだろう。だがそれで意地悪をされた方が許してくれるかといえば、それは全くの別問題だ。おまえとリリアンヌ嬢の婚約が決まったら、それを口実に女児の親たちはいっせいにおまえの遊び相手を辞退したのだ」
両親がマリーを自分から遠ざけたと思っていたが、自分がマリーたちから敬遠されていたのか!
「だからリリアンヌ嬢との初顔合わせでは細心の注意を払った。虫もカエルもヘビも持ち込めないようにな。ところがそこでもおまえはやらかしたのだ」
「……それは反省しています」
「コレガ王国には『反省だけなら猿でもできる』ということわざがあったそうだ。それに反省しても過去は変えられない」
「……」
「おまえの暴言を浴びたら、普通の令嬢は泣くか怒るかしただろう。だがリリアンヌ嬢は笑って許してくれた。そればかりか、おまえの態度の中から美点を見つけようとした。シャレル侯爵夫人からその話を聞いたときは信じられなかったぞ。八歳の童女の態度とは思えなかったからな。なんと素晴らしい婚約者に恵まれたことかと、エリザ(王妃)とともに喜んだのだ」
今まで自分と父との会話を黙って聞いていた母が泣き出してしまった。初顔合わせの後で叱られたときも、母は泣いていたことを思い出した。
父はため息をついた。それはとても重く聞こえた。
「クレマリア嬢に話を戻そう。クレマリア嬢の婚約はメール公爵家とペリゴール侯爵家の政略だった。だが二人は真摯に交際を重ねて、愛情を育んでいたのだ」
「そんなのは嘘です!」
反射的に、なんの根拠もなく、そう言ってしまった。
「嘘ではない。そうでなければ、晴れのデビュタントで喪章を着けるはずがないだろう。それに今の今までクレマリア嬢に新しい婚約者がいないのはなぜだと思う?」
「それは、婚約者探しが難航していて……」
「確かに条件面では難しいが、メール公が本気で探せば二年以上も見つからぬはずがない。クレマリア嬢本人が断り続けていたのだ。テオドナ・ペリゴールが忘れられないからだ」
何も言えなかった。自分の中で何かがガラガラと音を立てて崩れていた。自分が信じていたものが偽りだったと、自分が見ていた世界が虚構だったと、もっと厳しい現実を突きつけられたのだ。
父は再びため息をついた。
「儂は近々退位するつもりだ」
「な、なぜです!?」
「儂が王では国が保たんからだ」
「ですが、私はまだ立太子していません」
「おまえに継がせるわけがないだろう。王室典範を忘れたか? 生前退位なら、王は次代の王を指名できる」
ではジェレミーに王位を譲る気か? 普通に考えればそうなる。だがなんだろう? ものすごい胸騒ぎがする。
「……誰を指名するおつもりですか?」
「まだ決まっていない。相手の同意が必要だからな。だが第一の候補は、ワーズ公だ」
「な!」
「ワーズ公は儂の従弟だ。先代が臣籍降下したから順位は高くないが、王位継承権を持っている。メール公が当てにならない以上、彼が第一候補だ」
「……」
「もっとも、ワーズ公が傀儡の王などという貧乏くじを引き受けてくれるか、愛娘を帝国に売り渡した儂の頼みをきいてくれるかは、はなはだ怪しいがな」
脳裏に三ヵ月前の光景が蘇った。リリアンヌが帝国の兵に連れて行かれたときの光景が……いや、その後の光景が。
リリアンヌが去ってから、ようやく自分は周囲の視線に気づいた。自分に向けられる視線に好意的なものはなかった。呆れ、驚き、蔑み、嫌悪、そんな感情が読み取れた。自分がとんでもない暴言を再び吐いたのだということに、ようやく気づいた。その場には自分の味方は一人もいなかった。思い出すとメール公も侮蔑の混じった視線を浴びせていた。そんな相手によくもまあ娘を嫁にくれなどと言えたものだ。自分でもどうかしていたとしか思えない。
だが最も強烈だったのはワーズ公の視線だ。そこには純粋な憎悪しかなかった。そのワーズ公が新しい王になる!?
「なぜジェレミーではないのですか? ジェレミーではダメなのですか?」
さすがにこの状況で自分に譲れとは言えない。
「ジェレミーはまだ十五だ。この難局を乗り切れる器量も経験も後ろ盾もない」
「後ろ盾?」
器量と経験は分かる。だが後ろ盾とは何を指しているのだろう?
「ジェレミーには婚約者がいない」
ああ、なるほど。ジェレミーが有力な貴族の子女と婚約していれば、その婚約者の実家が後ろ盾になってくれる筈だった、という意味か。
「なぜいないのですか?」
虚ろだった父の瞳に、微かな感情の火が灯った。その感情は、おそらく……軽蔑それとも憎悪?
「おまえのせいだ」
「私の?」
「以前も言ったが、ジェレミーはおまえの予備だ。おまえがリリアンヌ嬢と結婚できなかった場合は、ジェレミーが結婚することになっていた。そのときジェレミーに別の婚約者がいたらどうなる?」
「あ……」
「もういい」
父は吐き捨てるようにそう言うと、玉座から立ち上がった。
「おまえはもう政務をしなくてよい。自室で大人しく謹慎しておれ」
そう言い残して父は謁見の間から出ていった。母も泣きながらそれに続く。自分はポツンとその場に取り残された。