#9 ノア・シャルルの依頼
「あいつは、俺に2つのことを望んでるんです。調律師として店を継ぐことと、一生を添い遂げる妻を持つこと」
テ・レデオ社の一室に場所を移し、私はノアさんの目の前に座っていた。部屋の中には様子を見守るようにこちらを見つめるユラリスさんもいる。あとの2人はおそらく…、扉のすぐ外で聞き耳を立てているのだろう。
「でも、俺には夢があって…。世界を周って、ピアノの演奏を届けること。俺の演奏で皆に元気になってもらうこと」
そう言って、隣に置いてある黒いケースを見つめる。
「それは…?」
「持ち運び用のピアノです。いつでもどこでも弾けるように。基本持ち歩くようにしていて。最近だと、公園で子どもたちに演奏をせがまれたりして…」
ピアノのこととなると、表情がパッと明るくなり、饒舌になる。
ノアさんは本当にこれが好きなのだろうということが伝わって来た。
「だから、店を継ぐのだけはできない。そこで、あいつの望みの1つである、結婚することを叶えるふりをしてほしいんです」
「それは、ベンさんが亡くなる前に、彼の心残りをなくすため…?」
「違います。あいつのために、そんなことをする義理はない」
「…」
「認めさせたいんです、俺の夢を。そのために、結婚を叶えるふりをする。そしたら、きっともう1つの望みくらい諦めてくれるだろうと…。あいつ、やたらとルナさんのこと気に入っているみたいだし…」
「あなた、それ、筋も通ってないし、無茶苦茶なこと言ってるのわかってる?」
ユラリスさんが、いつもの凛とした声で、鋭く指摘を入れる。
「あなたが結婚するからと言って、店を継がせることは諦めるとは思わないけど。むしろそんな可能性低いと思うわ。親ってね、基本頑固だから。まあ、そもそも婚約者なんて、嘘を信じてくれるかどうか…」
「自分が失礼なことを頼んでいるのは、わかってます。でも、最後まで自分勝手に死んでくなんて絶対に許さない」
そう言って、こぶしを握りしめるノアさんは、怒りで身体を振るわせているというよりも、どこか悲しそうな、泣いているように見えた。
「昨日、ルナさんが言ってくれた言葉。あいつの心残りも解消したいし、俺の演奏ももう一度聞きたいって…。嬉しかったんです」
「…」
「だから、お願いします。あいつの寿命が尽きるまで、上手くそれっぽい振りをしてくれたらいいんです!だから、どうか…!」
彼は、私が良いと言うまで、頭を上げないのではないかという勢いで頭を下げる。
そこまで付き合う義理はない、ほとんどの人がそう答えるだろう。
でも、やっぱり、私は、死の別れの淵にいる人を放っておけない。
「わかりました」
「ほんとうですか!?」
私が了承するのと同時にドアの外では、「え?!」という声とともに、大きくガタンと音がする。
「ルナ…、あんたはほんとに…。人のこととなるとすぐに…」
私の答えを聞いて、ユラリスさんは呆れている。呆れているというより、少し心配されているような、そんな感じ。
でも、私には引き受ける以外の選択はない。
「お二人が、後悔のない別れができるよう、全力でお手伝いします」
こんな平和な時代で、悔いを残したまま死に別れようとする人たちを無視なんてできない。
私には、それが叶わなかったから。