#7 父と息子
“シャルル楽器調律店”と書かれた看板のある建物の入り口からこっそり建物の中に入る。もう深夜なので店の中は真っ暗で、月明かりだけが頼りだ。
足音を立てないように、お店のカウンターから裏に回り、あいつの作業スペースを通って、自分が、かつて使っていた部屋を目指す。しかし、部屋に行く階段を上ろうとした時、ダイニングにあいつがいるのを見つけてしまった。
「…」
無視をすれば良かったのに、思わず目を合わせてしまう。
ウィスキーを1人で飲んでいた、家族4人の写真を見ながら。
「帰ってきたのか」
「ちょっと荷物取りに来ただけ」
「まだ、相変わらずピアノを弾いてるんだな」
「俺は、辞める気ないよ」
「…」
「はあ…、身体悪いんじゃないのかよ。酒やめろよ」
俺は、我慢できず、ウィスキーが入ったグラスを奪う。
「聞いたよ。ルナ・シュヴァリエとかいう医者から。もう、長くないんだろ」
すると、目の前の男は驚いた顔をしていた。
「会ったのか、ルナさんに」
「ああ、さっき店の前で」
「お前が好きそうなタイプだと思ったんだがな~。あんな女性と結婚してくれれば、私も悔いなく…」
「そういうのいいから…。第一、そういう気のないルナさんにも失礼だろ」
「一生添い遂げてくれるような人と結婚して、この店も継いで、家族で幸せに暮らしてくれれば、それでいいんだよ…」
そう言って、この男はウトウトし始める。
試しに飲んでいたウィスキーを口に含むと、喉元が痛くなった。
「っ!」
どうやら、かなり度数の強いものを飲んでいたらしい。思わず舌打ちをする。
先程からの自分勝手な発言に、言い返したいことはあるが、この酔っ払いに向かって言っても意味がないだろう。
「家に帰ったら、母さんがいて、お前の兄貴はこの店の看板を守って、お前は足のことを気にせず、自由に…」
酔っ払いは、自分の言いたいことだけ言って、満足したように眠りについてしまった。
「母さんの最期にも立ち会わす、兄貴の遺体も探さなかったくせに、どの口が言うんだよ」
現実から目を背け、どこまでも自分勝手なこいつに心底むかついた。
でも、現実から目を背けているのは、俺も同じだ…。
ふと、足に痛みを感じて、その場に座り込み、ズボンの裾を捲る。どうやら義足の調整に行かないといけない時期のようだ。
この足がある限り、自分の夢を叶えることが現実的ではないことを頭では理解していた。義足を維持するのにも、金がかかるし、手間もかかる。安定した収入と、義足のメンテナンスをできる人が近くにいる必要がある。
だから、こいつが言ってることが、間違ってはいないこと、わかっている。
でも、認めたくない。
酒場の2階、住み込みのウェイターのために貸し出されているフロアの一室。自分の部屋に帰宅し、疲れてベッドの上に倒れ込む。
窓の外を見ると、暗闇に浮かぶ綺麗な満月が見えた。
「ルナ・シュヴァリエ…か…」
月の光を見て、ふと、その名前が口から漏れ出ていた。
俺の演奏を暖かいと褒めてくれた、あの人なら、何か救いの活路を見出してくれるようなそんな気がした。