11:00-3
――あれは、いつの事だっただろう。
はるかは、ぼんやりと過去の記憶を呼び起こす。過去と言っても、自分は十歳で、この世界に生れ落ちてから十年しか生きていない。さらに言えば、赤ん坊のころは全く覚えていない。
だから、呼び起こせられる古い記憶は、3歳から4歳くらいだ。
保育所に通っていた。みんなで演奏しましょう! と先生に言われ、練習して、上手にできてきたところで、ステージに上がって演奏するのだと教えられた。
遊戯室のステージ。ちょっとだけ高さがある、ちょっとだけ特別な場所。
当日、ステージの脇からちらりと客席を覗くと、たくさんの大人に交じり、お父さんとお母さんが見えた。
来てくれたんだ、と嬉しく思うのと同時に、胸がどきどきして、怖くなった。
失敗したらどうしよう。
上手にできなかったらどうしよう。
喜んでもらえなかったらどうしよう。
不安でいっぱいになり、泣きそうになった。周りのお友達は、同じように涙目の子もいれば、泣いている子もいて、かと思えばケタケタと笑ったり、親を見つけて大きく手を振ったりしている子もいた。
そんな中、先生が「大丈夫」と声をかけてきた。
「いっぱい練習して、素敵な演奏ができるようになったから、大丈夫」
その言葉に安心する子もいれば、やっぱり不安な子もいた。
はるかは、頭では「そうだな」と頷きつつも、胸のドキドキは止められなかった。
喉の奥が、きゅ、と締められるような、不思議な感覚。
ふと両手を見れば、微かに震えている。
怖いのか、楽しみなのか、嬉しいのか、不安なのか。
幼いはるかには、どの感情から来ているのか、その時はさっぱり分からなかった。
階段の下から感じる何かに、その時と同じようなものを覚えた。
――それでも、一歩。
はるかは足を踏み出す。
古い記憶の中でも、結局はその不思議な感覚を抱えたまま、ステージへと上ったのだ。
□ □ □ □ □
階段から、ひょこ、とはるかが顔をのぞかせた。
私は思わず微笑んだ。思ったよりも、顔色が悪くない。階段を駆け上がる前は、圭と言い合いしたのち逃げて行ったのだから。
「はるかちゃん、良かったら」
お粥を、と言おうとしたところで、圭に遮られた。圭が、階段からリビングに入ろうとしないはるかを引っ張り入れたのだ。
はるかが「きゃ」と小さく声を上げる。
「譲、閉じろ」
「言われなくても」
圭の言葉に、譲青年がぎゅっと両手を結んだ。途端、はるかが「あ」と言いながら階段の方を振り返った。
「何で?」
「また逃げられたら、面倒くさいから」
「だって、上には、お父さんとお母さんが!」
「あっちには干渉しない。お前だけだ」
階段に何かをしたのだろうけれど、私には何の変哲もない階段に見える。さっき、閉じるとか言っていたので、結界を張って二階に行けられないようにしたのだろう。
(ということは、あそこに触れたら、壁とかあるんだろうか)
好奇心が疼く。
何しろ、何回かこういう怪奇現象に携わっているものの、未だに「これだ!」と思える怪奇現象に触れていない。不思議な空間に行ってしまった、をカウントすればない事もないのだが、こう、現実世界で「どうしてできない? 不可思議な力が働いているからか?」のような、いわゆる「左目や左手が疼く」経験はしていないのだ。
(壁があるようには見えないのに、な、なんだこれは!! とかやってみたい)
ドキドキしながら階段の方を見、続いて圭の方を見る。
はるかの腕をつかんだまま、はるかをにらんでいる。
ならば譲青年は、といえば、両手を握りしめたまま、真顔で圭とはるかを見ている。
(これは……試したりとかしたら、怒られる奴なのでは)
空気は読まなければならない。私は、大人で、良い年なのだから。
好奇心と衝動を必死に抑え、私は深呼吸する。
緊迫した場面なのに、妙に綺麗なリビングと、たちこめる出汁のおかゆの匂いが、どこかちぐはぐな印象を与えた。