三 閑話―那古野城
拙い作品にも関わらず、ブックマーク&評価ありがとうございます。
定期更新、当面、水曜日と日曜日の週2回更新していく予定です。
今回は解説回です。
物語は重郎左こと大橋亜希子の視点で進んでいきますが、多角的に楽しんでいただくため、こうした解説回を時々入れていく予定です。
天文七年(一五三八年)織田信秀は謀略により悲願の那古野城奪還を果たした。
大秋重郎左衛門(十郎左衛門とも)こと大橋亜希子が「名古屋城」だと思っていた城は、正しくは「那古野城」である。
実のところ場所はほとんど同じなのだが、那古野城は後に廃城となり、完全に取り壊されて荒れ放題の野原となっていたところ、江戸時代に入ってからその跡地に名古屋城が建設されたものである。
両者に繋がりは無く、完全に別物の城である。
戦国時代の織田家と今川家が宿敵同士なのは有名な話だが、その確執は更に百年以上前、十五世紀初期にまで遡る。
当時は足利政権最盛期の義満の時代である。
応仁の乱以前の話であり、まだ戦国時代ではないから各地の領土は天皇、実質的には足利将軍家が守護職を任命し、その命により治めていたわけである。
中でも斯波家は足利一門最強と言われ、足利将軍家に重用されていた。
斯波6代目当主である斯波義重は応永五年(一三九八年)に越前守護に任ぜられた後、応永七年(一四〇〇年)には尾張守護を兼務、更に応永一二年(一四〇五年)には遠江守護をも兼ね、三か国を治めることとなった。
有力な守護大名となり、その後応仁の乱に巻き込まれていくことになる。
なお、斯波家の重臣となる織田家は越前国丹生郡織田庄の地頭が祖先だとされる。越前守護時代にその才能を見出されたのだが、斯波義重が尾張分国を得た際にそこに転属を命じられ、それにあわせて故郷である織田の姓を名乗ったのだとか。
応仁元年(一四六七年)いわゆる応仁の乱が勃発して戦国時代に突入すると、東軍と西軍が同じ領国に対して別々の守護を任命することになり、全国の領国支配を巡って混沌とした戦いが繰り広げられていく。
斯波家は当時家督相続を巡って幾度となくお家騒動が起きており、背後には足利将軍家の思惑もあって、十代当主義敏、十一代当主義廉、十二代当主義寛らが代わる代わる何度も当主になったりしている状態であった。
当然領国での求心力は薄れ、代わりに領国を代理で治める守護代らの権力が強まっていくのであるが、そのような状態で応仁の乱に突入したのである。
斯波家は西軍の主力として各地で奮戦したが、配下の重臣である朝倉孝景が東軍に寝返ると、天秤が大きく傾くことになる。
本国越前は朝倉家との激しい戦いが繰り広げられ、敗色濃厚となった文明七年(一四七五年)、斯波家は本国越前を捨て、守護代の織田家を頼って尾張に落ちのびることになる。
とはいえ、斯波家は未だ尾張と遠江の二国を有する有力な守護大名であり、足利将軍家の六角家討伐に従軍したり、越前の復国を目指して出兵したりと、未だ大きい軍事力を有していた。
斯波家が本格的に凋落するのは十六世紀に入ってからである。
さて一方今川家である。
元々今川家は本国の駿河の他に隣国の遠江を分国として保有していたが、先に述べた通り応永年間に遠江の守護職は斯波家に交代することとなり、分国支配の大義名分を失ってしまった。
とはいえ今川家も守護大名の端くれである。「はいそうですか」と斯波家に領国支配を易々と明け渡すはずもなく、両家は遠江の支配を巡って何十年も対立していたが、幾度となく起こした一族の反乱を守護家に制圧され、実質的な支配権をも失っていく。
十五世紀後半となっても状況は好転しない。応仁の乱では西軍の斯波家に対抗して東軍に属し、積極的に遠江に出兵していたが、様々な行き違いから他の東軍大名とも敵対することとなり、泥沼の戦いの中で、8代当主今川義忠は戦死することとなる。
反撃の狼煙が上がったのは九代当主今川氏親、即ち今川義元や今川氏豊の父親の代である。
今川家にとって分国遠江の復国は一族の悲願である。とりわけ父親を戦乱の中で失った氏親はその想いが強かったのは言うまでもない。
氏親には非常に心強い協力者がいた。かの高名な北条早雲である。
実の叔父でもある早雲は、氏親の家督相続に尽力し、その後も氏親の遠江出兵の先陣を務め、あっという間に遠江の大部分を制圧する等、正に無双の働きを見せた。
永正五年(一五〇八年)の三河侵攻を最後に、早雲は関東方面に専念して姿を見かけなくなるが、その後も今川家の快進撃は止まらない。
斯波家十三代当主義達は、遠江を奪還するべく幾度となく出兵を試みるが、下四郡守護代の織田大和守家はこれに反対、斯波家と上四郡守護代の織田伊勢守家のみの軍勢で遠江を攻めなければならず、また織田大和守家の討伐にも兵を向けていたため、万全な戦力とは言い難かった。
このため斯波家は敗戦に次ぐ敗戦で劣勢に追い込まれ、永正十二年(一五一五年)八月には遂に当主義達が今川家に捕らえられてしまう。
義達は氏親の情けによって釈放され、尾張に帰ることが出来たが、頭を丸められて白装束で清洲に送り返されたのである。相当な屈辱であっただろう。
そして反対する守護代を成敗してまで強硬に進めた遠江侵攻が大失敗に終わったことにより、義達は引退に追い込まれ、わずか三歳の斯波義統が当主となる。
こうした状況から斯波家は尾張国人衆の信頼を失い、急速に没落することとなる。
さて、今川家が那古野の地に城を築いたのは大永年間(一五二一年から一五二八年)と言われ、大秋城も同時期に築城されたと思われる。
斯波家の権威が失墜した機会を捉え、今川氏親は本格的に尾張の支配に乗り出した。
具体的には、斯波家が尾張の守護となる更に前に、今川家の庶流(那古野今川家)が尾張守護であった時代があったが、その家(那古野今川家)を復興し、末子の今川氏豊を養子として継がせたのである。
斯波家打倒の後に尾張支配の大義名分を得るための準備であったことは言うまでもない。
尾張の首都は名古屋ではなく清洲である。
今でこそ名古屋市の北西に位置する衛星都市となっているが、当時は尾張の政治的中心であった。
それは本能寺の変の後、織田家の後継者を決定する最重要会議が清洲で開かれたことでも分かるだろう。
清洲城は守護の居館でもあり、ここまで攻め込まれたら斯波家はいよいよ滅亡するわけであるが、間に庄内川があるとはいえ、清洲と那古野の距離はわずか7kmしかない。
羽柴秀吉が稲葉山城(岐阜城)攻略のために墨俣一夜城を建設したのは有名であるが、その稲葉山城と墨俣城の距離は13kmであるからおよそ半分しかないのである。
喉元に刃を突きつけられていると言っていい。
そんな首都の目と鼻の先に軍事的拠点をのうのうと作られても、斯波家にはそれを止める力がもはや残っていなかったのだ。
このころ下社城の柴田家など名古屋市街域の有力な尾張国人衆が今川家に属している。
永正十二年(一五一五年)の義達大敗北から天文七年(一五三八年)の那古野城奪還までの間に斯波家と今川家が争った記録は見られない。
即ち尾張の国人衆は、今川方の調略により、あるいは不甲斐ない尾張守護職を見限って自らの意思で、矛を交えることなく今川家の軍門に降っていたのである。
かつて足利幕府最強と言われた斯波家は越前を失い、遠江を失い、そして最後の領国である尾張も庄内川以東、国の半分は今川家の手に落ち、首都清洲の目の前に那古野城まで作られてしまった。
まさに滅亡寸前の状態だったわけである。
そんな状況下の織田信秀の那古野城奪還だ。
斯波家と共に滅亡する運命を力ずくでひっくり返す、まさに乾坤一擲の大博打と言っていい。
さて、織田信秀や信長の家系は織田弾正忠家と呼ばれ、尾張守護代の織田伊勢守家や織田大和守家とは別物である。
正確に言えば大和守家の分家であり、家臣という関係になる。
会社で例えるなら、守護の斯波家が社長であり、守護代の大和守家と伊勢守家が取締役であり、大和守家配下の奉行である弾正忠家はさしずめ部長あたりであろう。
今川家に大敗して没落した斯波家と、義達の遠江遠征に先立って当主を成敗されて弱体化した大和守家に代わり、台頭してきたのがこの織田弾正忠家である。
当時の尾張の政治の中心は清洲であることは述べたが、商業の中心は津島と熱田であった。いずれも門前町であり、かつ(当時は)港町でもある。
弾正忠家はその一方の津島を押さえていたため、潤沢な資金力を以て、勢力を存分に伸ばしていった。
信秀の父親の代に勝幡城(愛西市・稲沢市)を築き、信秀の代になると独断で京に上洛した主家の大和守家を咎めて互角に争うほど軍事力を高めていた。
更に大和守家と講和したその後は、京から公卿を招いて蹴鞠会や連歌会を開催するようになる。
那古野城の今川氏豊もそれに対抗してか、盛んに連歌会を催すようになっていた。
今川家と斯波家の力関係がはっきりし、両家は小康状態にあり、ある意味平和な時期だったと言える。(それとは別に三河の松平家がちょっかいをかけてきていたが、織田信秀によって撃退されている)
織田信秀は今川氏豊が那古野城で催す連歌会に幾度となく参加し、居候のように何日も宿泊していたようだ。
斯波家で今一番勢いがある織田弾正忠家を今川方に寝返らせることが出来れば、極めて有利になる。
そういう胸算用もあって、今川氏豊は織田信秀を大いに歓待、厚遇していた。
ある時、信秀は仮病を装い、家臣を城内に招き入れることに成功した。その後信秀と家臣は城を内部から攻撃し、混乱の中で那古野城を占拠してしまったのである。
今川氏豊は助命され、京へ落ちのびたと言う。
大秋城は那古野城から西に約3.5km、清洲と那古野の中間地点にあり、庄内川の渡河地点である枇杷島の渡しに睨みを利かせる位置にある。
那古野城の支城的な性質を持つ重要拠点と言えるだろう。
そこを任されていた大秋家は今川方の中でもひとかどの存在であったに違いない。
織田信秀は、那古野城を攻め落とした後、その北西2kmにある今川方の押切城を攻め滅ぼしているが、一方で何故大秋城を放置したのかはよくわかっていない。
大秋家はその後織田家に帰順し、信秀の重臣である林新五郎秀貞の与力として組み込まれることとなる。
そして次に大秋の家名を見るのは、十八年後の稲生合戦を待たねばならない。
【解説】
織田信秀の那古野城奪還の時期については享禄五年(一五三二年)とする説もありますが、本作品では天文七年を採ります。