二 いきなり落城
大橋亜希子はブラックなIT会社を退社して念願の公務員に転職した。給料は下がったが、余暇時間は大きく増えた。
これで存分に推し武将の前田利家様を愛でることができるぞ、デュフフ。と思ったのもつかの間。
出来る女子と見なされたのか、区役所移転とか経理とか、大変な仕事がたくさん回って来て、なんとか仕事の峠を越す目途が見えてきたところでクレーマーに刺されて死んでしまった。
思い返してみれば最悪な人生である。
喪女という自覚があったから恋とかはあきらめていたが、それならせめて自分の好きな推し活動をもっとやりたかった。
不幸中の幸いと言うか、奇跡的にと言うか、神様も無慈悲では無かったようで、死ぬ間際の「利家様にもう一度会いたい!」と願いが通じたらしく、戦国時代と思われる世界に転生したようである。
だが突然の事で、それを受け入れられるだけの精神的余裕が亜希子にはない。
自分がいるのは名古屋城で、城主である公家っぽい人に抱っこされていて、自分の名字が「オオアキ」で、将来元服、つまり成人した暁には「重郎左衛門」と名乗れと言われた。
それが今判明している状況である。
何が何だかわからないが、自分の父親とおぼしき人物はその「重郎左衛門」にやや不満なようで、名前のやりとりはまだ続いている。
「あ、ありがたき幸せにございまするが…。可能なら殿のお名前から一文字拝借したく…」
「ほう、この今川氏豊のか?」
「は、恐れながら」
(は?今川?)
私は耳を疑った。そして軽く混乱した。今でも十分混乱できる状況ではあったが、更に混乱した。
戦国時代で今川と言えば真っ先に思い浮かぶのは東海道一の弓取り、今川義元である。
といってもゲームでの知識しかない亜希子には、桶狭間で信長様に撃退されたザコ大名というぐらいの認識しかない。
蛇足だが、織田信長も亜希子の推し武将の1人である。
特に利家様とのカップリングは良い。
そういう薄い本が何冊も押し入れに隠してあったが、死後それが暴かれるのかと思うと死んでも死にきれない。
閑話休題。
今川義元の息子が今川氏真で、今目の前にいるのが今川氏豊。良く似た名前で無関係とは思えない。
だが、ここは名古屋城である。(少なくとも亜希子はそう思い込んでいる)
今川家の本拠地は現在の静岡県、駿河遠江であり、今川義元は名古屋城にたどり着く前に、緑区桶狭間で信長様に撃退されて横死してしまったはずだ。
どう考えても(亜希子の知識の上では)辻褄が合わない。
(もしかして、パラレルワールドとか…?)
亜希子はそう思いを巡らせた。
少なくともここは日本で、中世封建社会であることは間違いないが、自分が生前いた世界と連続的につながっている同一世界である保証はない。
例えば、この世界では桶狭間の戦いで織田軍が敗れ、尾張が今川家に占領された後なのかもしれない。
(もしそうだったら、利家様や信長様に会えないじゃないか、やだー!)
亜希子の体は再び泣き出しそうになるが、氏豊が長い思案を中断し、名前の話が再開されたので、何とか踏みとどまる。
「重秀殿の希望もわからなくもないが、そこはまあ譜代衆とのバランスもあるしの、その子が元服して武功を上げてからの楽しみとするがいい」
「はっ」
自分の父親は「重秀」らしい。何か鉄砲強い武将がそんな名前だった気がするが、名字が大秋ではなかったから別人だろう。
そんなことより、父親が譜代の家臣では無いと言われたことの方がショックだ。おふざけでSSRとか言ってたが、状況が判明するに従い、どんどん自分の価値が下がっていくのが悲しい。
(どう考えても無名R武将です。本当にありがとうございました)
亜希子は氏豊からようやく解放され、若い女性の元に戻された。
自分の乳母か侍女だろうか。美人とは言えないが愛嬌があり、笑顔が可愛い優しそうな人だ。
その人に抱かれてあやされると、安心したのか眠気が襲ってくる。
亜希子は目をつぶり、寝る体勢に入りながら思案を巡らした。
前世の記憶はそのまま鮮明に残っているようだ。思い返したくもないが、大橋亜希子が命を落とす当日のことも。
亜希子は死ぬ間際の啓介との何気ない会話を思い起こしていた。
自分の名字は「大秋」そしてここは中世日本で名古屋周辺。
となれば、自分は中村区役所の南にかつてあったという大秋城主の縁者ということなのであろう。
(ああもう、啓介にもっと詳しく話聞いておくんだったなあ)
後悔先に立たず。
そういえば、あの後、啓介はどうしたのだろうかと思いを巡らせた。
(元自衛隊員だからクレーマーぐらい取り押さえているだろうね、たぶん。そういえば出納閉鎖までにちゃんと処理出来たかなあ。経理事務誰がやるんだろ。後輩ちゃんかな。区役所移転の決算とかちゃんとやれるんだろうか)
考えてもどうしようもないが、亜希子は未だに自分が置かれている状況が信じられないので、逃避したくもなる。
今の世界が夢で、ふと目を覚ましたら病院のベッドで目を覚ますんじゃないかとか。
もしかすると大橋亜希子の人生自体が今の赤子たる自分の夢だったのではないかとか。
(いや、流石にそれは長すぎだよね。それに夢で腐女子活動する男の赤ん坊って凄い嫌だ…)
そんなどうしようもないことを考えつつ、亜希子の意識は眠りに落ちていく。
「ぎゃー!!」
突然遠くで叫び声があがり、亜希子は驚いて目を覚ました。
暗い。当然蛍光灯は無く。室内には荏胡麻の灯火一つだけが灯されている。
乳母は既に起きていたのか、布団の上に座って自分を抱っこしている。
「びっくりしましたね…。で、でも、だ、だいじょうぶですからね」
乳母は亜希子が目を覚ましたのに気付くと、震えた声でそう話しかけた。
遠くで大勢の怒号や刀がぶつかるような金属音がする。明らかに異常事態だ。
亜希子は恐怖にかられた。それに自分の体が反応し、泣き出しそうになるが、泣き声を上げたら見つかるのではないかと思い、必死で堪える。
だが悪いことに、喧騒はだんだんこちらに近づいてくるようだ。
そうこうしているうちに、正面の襖がバーンと破られた。
寝具姿の男性が刀を抜く間もなく切り伏せられ、襖を破ってこちらに倒れこんできたのだ。
それは大秋重秀であった。
自分の父親だったものは血をぷしゅーと吹き出しながら「ぐううう…」とうめき声をあげ、やがて動かなくなった。
「きゃあああああ!!!」
乳母が叫び声をあげる。
亜希子は乳母に抱きかかえられたままだったから、ちょうど重秀を切り伏せた人物を下から見上げる体勢となった。
その人物は、ゆっくりと視線をこちらに移し、満足げな表情を浮かべる。
してやったりという顔だ。全身返り血を浴び、たった今人の命を一瞬にして奪ったというのに、罪の呵責は微塵もない。
「織田弾正忠推参!そちが大秋が若子か!?」
大音量だった。そして刀をこちら側に向ける。
(殺される!)
ここに至って、自分はようやく実感した。
リアルな戦国下克上の世であることを。
ゲームの中のイケメンたちがキャッキャウフフしているバラ色の世界ではない。
とてつもなく暴力的で、理不尽で、人の欲にまみれた、醜く、汚らしい世界。
ここでは弱いことは罪なのだ。弱いものは生きる資格はない。弱肉強食とはまさにそういうことだ。
それはたとえ自分の父親であってもその理からは逃れられない。そしてもちろん自分も…
そして、自分の脳裏にあの日の事。大橋亜希子が心臓を貫かれた時のことがフラッシュバックした。
「びえええええええええ!!!」
私は泣いた。ひたすら泣いた。多分前世と今世あわせても一番大きい鳴き声だっただろう。
この世界で生きていくのが怖かった。死ぬのはもっと怖かった。
【解説】
亜希子はプロマネ、啓介は自衛隊からの転職という設定です。公務員は転職組が意外と多かったりします。