鏡の国のアリス⑰ 切ない気持ち
アリスは少し考えこんで、タブレットで打ち返した。
『嘘よ。本当は凄く夫を愛してるの。見つめられると目線が外せなくなって、唇が触れ合うと頭の芯まで痺れるわ。そのまま溶けてしまいたくなるの。注がれる愛の全てが欲しくなって、溺れるほどに満たされていたいわ。』
「これでも食らえ!」
「怒りの滲む官能小説だな。犬も食わない痴話喧嘩。」
『でも、夫はあまりにも自分に無頓着。周りはみんな夫を心配してるのに、心配されるような状態だって事に気付かなくて。あなたの夢は何?』
『少し前までは、いつか国の仕事がしたいと思ってた。同じ事聞いてきた女の子がいて、その子が探してくれた時、見つかるように、その時言ったことをそのまま追ってきたんだ。まだ学生なんだけど、卒業できたら工業試験分析に配属希望出そうと思ってた。』
『進学しないの?』
『進学は厳しいかな。うちも子供生まれるし。進学しなくても国の仕事が回ってくる職場もあるんだ。今も国の仕事来るけど、メインじゃなくても国の事業とか研究を支える立場でもいいかなって。』
『あなた、この仕事、研究になるわ。この道で食べていくことも出来るんじゃないの?』
『考えてなかった!俺の人生、失敗だらけだ。でも、やっぱり化工関係が肌に合ってるよ!仕事してないと不安になるし。』
「半分、嘘だ。親父さんから資金提供受けて生活頼るようになったら元の木阿弥。言いなりだ。だから向こうも足元見て自由になる金払わなかったんだよ。全然関係ない分野にいるから安全なんだよ。」
ミキが諭すと、アリスは下唇を噛み締めた。
『我慢してない?お嫁さんはそれが一番心配なんじゃないかしら?』
『そうかもしれない。ありがとう。でも、今、一番なりたいのは父親なんだ。尊敬できる父親像が無いから、どうしたらいいか正直、何もわからない。子供が生まれる前にどうにかなっていたかったけど、今は俺がどうにかなりそうだ。
お嫁さんの時計を巻き戻してあげられたら、本当は何がしたかったか聞いてあげたかった。戻せなかったから先に進むしかないんだけど、お嫁さんにはまだ認めて貰えないみたいだ。まだ頑張らなくちゃいけないみたいだけど、何に頑張ったらいいのかわからなくて参ってる。』
「顔を見ない方が話せる事ってあるよね。」
ミキはアリスの肩に手を置くと、机に向かい、書類作業に戻った。
『あなたの人生設計も大切な筈よ。自分らしさを大切にして!応援するわ。』
『ありがとう。助けて貰ってばかりでごめん。感謝してる。』
「本当に幸せだったの。あの人みたいに強く生きられたらって、ずっと思ってた。何も持たない私自身を必要としてくれるなら何もかも投げ出して全てを受け入れたかったし、もう二度と会えないかも知れないなら、誰より幸せであって欲しいと願ったわ。それは本当よ。」
「始まりなんてどうだっていいじゃん。好きで付き合った筈なのに、卒業を理由に別れ話された俺の話でもする?私、もっといい男選べると思うのって面と向かって言われたも同然!もう、俺の事なんか記憶の片隅にも残らない位の幸せを他所で掴んで貰う事、祈るしかなかったよ。」
「切ないわね。」
二人は互いに苦笑しあった。
「食って行けるだけじゃダメかなぁ……。」
中二階で関数電卓を叩きながらデータチェックしていたルカが手を止めて呟いた。少し考え込んだあと、最後の野帳に印鑑を押すと、ルカは分析野帳をまとめて3階にあがった。
「代理、今いいですか?」
「またぁ?嫁と揉めた?」
代理が苦笑しながら差し出された野帳を受け取った。
「それとは別に、卒業までいたとして、やっぱり工業試験分析に配属希望しようと思うんです。だから、誰か俺に一人つけてもらえませんか?興味があるなら誰でもいいです。1年で全部引き継ぎます。事務で居ましたよね?分析やってみたいって騒いでた女の子。いつか、呑み会で一緒だった岩槻の……。」
「花咲弥生。」
「辞めない代わりに、どうですかね?」
所長代理の目付きが変わった。




