銀の光の姫君
――※――※――
昔々、モルヴェン王国という国に一人の美しい少女がいました。
彼女の名は、アリアンロッド。
幼い頃は平民として暮らしていましたが、実は彼女は、大貴族クランシー伯爵の落とし胤だったのです。
アリアンロッドが十二の時お母様が亡くなると、伯爵家から迎えの馬車がやってきました。その馬車の見事なこと。街の皆は、驚いて集まってきます。
降りてきたのは、一人の老紳士。彼こそは、広大な領地を持ち、王の覚えもめでたいクランシー伯爵でした。
「お前は、私の娘。さあ、これからは私と一緒に城で住もう」
馬車に乗り込んだアリアンロッドは、皆に手を振りました。
「みなさん、今までありがとうございました」
遠ざかる馬車に、街の皆は手を振ります。涙をこぼすアリアンロッドを、伯爵は優しく見つめます。これから、アリアンロッドの新しい生活が始まるのです――。
――※――※――
――本を読む事は、好きだった。
ベッドに縫い止められたような生活の中で、その時だけは自由にどこまでも行けるような気になったから。
だから、私がその人生最後の本の、とりこになったのは必然といえよう。
とりあえず、私が求めるものは全てその本に詰め込まれていた。
ロマンたっぷりの中世ファンタジー。
王子も騎士も、貴族もいる封建社会。魔法も神の力も、幻獣だっている。
私は夢中だった。
王族や貴族になれなくても、こんな世界を自由に歩くことが出来たら。
この世界は、魔法や神の力を借りた恩寵で、怪我や病気を治しているということも、大きな魅力だった。
私の体も治るかも知れない。
家族四人が事故に遭い、私だけ重傷のまま生き残ってしまった。
脊髄を損傷して動く事もままならない体。腫れ物に触るような見舞客達。色々な事が息苦しくて、もううんざりだった。
でも、本を読む時――特に、ファンタジーを読む時は辛さが少しだけ忘れられて、半ば現実逃避で読書にのめり込んだ。
銀の光の姫君と金の光の王子 1
布張りの紺の表紙に、白抜き文字で書かれたタイトルは、装丁もあいまって一昔前の児童文学書のようだ。
読み過ぎて、少しすり切れた表紙を私は撫でる。古本屋でこの本を見つけていたことは幸運だった。
入院するまで目を通していなかったけれど、それがこんなにも私の心の支えになってくれるなんて、その時は思いもしていなかった。
奥付もなにもない正体不明のこの本は、誰か素人が作った私家版なのかもしれない。
1と銘打たれている通り、良いところで終わってしまっているこの本の続きをネットで検索しても、何も手がかりは得られなかった。
古本屋の主人も、入荷ルートを覚えていないそうで、続きを読めないことにジレンマを感じつつ、私はひたすら続きを想像することしか出来なかった。
一巻の終わりは、こうだった。
――※――※――
アリアンロッドは、王子ジェラルドと秘密を共有し、仲良くなります。騎士ウォルターは、そんな二人を影から支えます。
三人は仲良くなり、王城の花園で三人が歓談する光景がよく見られるようになりました。
さあ、これを知って眉を顰めたのは、うつくしい王子を密かに恋い慕っていた令嬢達です。
目引き袖引き、アリアンロッドが姿を見せる度にあからさまな嘲笑をし、よろけたふりをしてドレスを汚すなど、なんとも意地悪で見苦しい様子です。
これに気がついた騎士は、アリアンロッドに目を配り、いつも側で彼女を守るようになりました。
一時は落ち着いたかに見えた嫌がらせですが、アリアンロッドはある時、人気のない城の塔に呼びだされます。
そこにいたのは、王子でした。
彼は思い悩んだ様子でアリアンロッドを見つめ、低く問いかけます。
君は彼の騎士をどう思っているのかと。
「君は、私の気持ちを知ってるはずだね? さあ、君の正直な気持ちを教えてほしい。それがどんな答えでも、私は受け入れよう」
いつもの穏やかな様子とかけ離れた王子がおそろしくなり、アリアンロッドは思わず身をひるがえします。
しかし、塔の階段を踏み外した彼女は、真っ逆さまに階段を落ちてしまうのでした――。
――※――※――
――正直、こんな終わりはヒドイと思う。
現実世界だったら、ヒロインの過失であるにもかかわらず、王子は重要参考人として犯人扱いされるような状況だ。
王子も王子だ。城の塔より、王子ならもっと呼びだすのに適した場所があるんじゃないか。
ツッコミどころは山ほどあるが、とりあえず、私が渇望しているのは、この続きだ。
怪我をしていても無事でも、王子ルートは消えたんじゃないかと思うが、ここから巻き返しがあったりしたんだろうか。
何しろ、物語というよりもあらすじをつらねたかのような簡潔極まる文章は、登場人物の心情がわかりにくくてしょうがない。
そこが素人っぽいのだが、魔法を使うシーンであったり、きらびやかな大聖堂の様子など情景はやたらとリアルで、きっと人の気持ちを描写するのが苦手な人が書いたんだろうと思う。
世界観は好きなので、退院出来たらこの続きを想像して二次創作でもしてみようか。いや、シェアードワールドという手もある。
そんな事を思いながら、ベッドの中でぼんやりと私は希望的観測を思い描いていた。
まあでも、思い通りにいかないのが人生だ。
いやと言うほど思い知っていたそれを、私は人生最後に痛感する。
覚えている最後の記憶は、枕元の布張りの紺表紙に手を伸ばした私の震える右手だ。ナースコールはとっくに押した。
咳がうまく出来ない。窒息しそうな息苦しさと戦いながら、私は本をつかんだ、はずだった。
私の意識はここでいったん途切れる。
次に目をあけたら、私を心配そうに覗き込んでいる顔と、目が合った。
ここは、どこだっけ。
目だけで周りを見回すと、その顔――そばかすの多い金茶の髪の少女は、泣き笑いのような顔で私の手を握りしめた。
「気がつかれて、良かった。アリアお嬢様――いえ、アリアンロッドお嬢様」
「……アリアンロッド? お嬢様……?」
――そうだったっけ?
まだぼんやりしている頭を必死に働かせようとしたが、何も出てこない。しかし、少なくともアリアンロッドなんて名前ではなかったような気がする。
もっと平凡な名前だった気が――そんな西洋風な名前じゃなくて――しかも、お嬢様……?
私は、自分がベッドの中にいることを把握して、目だけであたりをうかがった。体がひどくだるくて、軋むように痛む。
「私、どうなったの?」
ぼんやり見上げるだけの私を心配したのか、少女は言い聞かせるように言葉をくぎってゆっくりと話しかけてくる。
「お嬢様は、城の階段から落ちたのですよ。ウォルター様がすんでの所で身を呈して守って下さったので、幸い大怪我にはなりませんでした。それにしても、なぜあんな人気のない塔などに行かれたのか――」
「階段から落ちた? ウォルター様?」
何を言ってるのこの人。
私は目の前の少女をまじまじと見上げる。そして気がついた。
この子、メイドだ。メイド服だ。電気街でみるようなミニスカじゃない、本物のメイド服だ。
「あのう、あなた――それメイド? すごい、本物みたい」
「……なんてこと」
少女は目を見開き、絶望的な顔をした。
そんなに驚く事をいってしまったのだろうか。メイドじゃない? もしかして失礼だった?
「誰か! お嬢様が大変なんです!!」
呼び止める間もなく走って行く少女を見送り、私はふと目にとまった自分の手を見つめた。
これは、見慣れた自分の手じゃない。もっと華奢で色が白くて、爪も綺麗だ。
ぞっと鳥肌が立つのが止められなくて、私はベッドにもぐり込んだ。
これは夢だ。そうとしか考えられなかった。
知らない人、知らない名前、知らない部屋、知らない自分の手。
何より私は『私』として二十年足らず生きてきた記憶しか持っていない。アリアンロッドお嬢様なんてわからない。
(――あれ?)
そういえば、その名前は聞き覚えがある。私は記憶を探り出し、愕然とした。
私の読んでいた本「銀の光の姫君と金の光の王子」そのままだ。
で、アリアンロッドというのはヒロインの伯爵令嬢の名前で――。
「つまり、これは夢だね!!」
私はベッドから起き上がった。めまいがするのが妙にリアルだ。
しかも、部屋はやたらと豪華だ。貴族の部屋なぞぼんやりとしかイメージ出来ないけれど、ゴブラン織のようなタペストリーや、女性らしく小花模様のあしらわれたカーテン、猫足のソファなど、やたらデティールが凝っている。
(私の無意識が反映されてるのかな? 脳の働きってすごい)
きっと映画かどこかで見た映像が脳内に蓄積されているんだろう。私はそう考えた。
毛足の長い絨毯は、私の裸足の脚をふんわりと受け止めてくれる。
私は部屋の隅の鏡台を覗き込んだ。
鏡には、予想通り、赤毛で緑眼のほっそりとした美少女が映り込んでいた。
伯爵令嬢、アリアンロッド・クランシーの描写そのままである。
(そういえば、こんな話、読んだな。はてしない物語だっけ。少年が物語に入りこんじゃうやつ)
目の前の鏡で、こっちをじっと見つめる少女を見ながら、私は考える。
艶やかな長い髪は、夕日のような赤。マスカットのような柔らかい緑の瞳は夢見るようにきらきらと輝いて、ヒロインたる存在感を示しているようだ。
控えめに言って美少女。はっきり言って妖精かと見まごうほどの可憐さ。
(しかし、アリアンロッドってほんとに美人だよね)
それは確かにそうかもしれない。この体の主、伯爵令嬢アリアンロッド・クランシーは、物語中で王子と侯爵家次男である騎士とフラグが立っていたはずだった。
「そりゃあこれだけの顔なら恋も生まれるよね」
完全に第三者的な感想なのは、正直自分の身に起きている事が現実感がなさすぎるからだ。リアルな夢。そうとしか思えない。
それほどに荒唐無稽な出来事だった。
「しかも階段から落ちたって、物語の続きみたいじゃない」
ずっと私が読みたかった2巻のストーリー。それを、自分が作り上げていくというのだろうか?
もしかしたら、ここは死後の世界で、ボーナスステージのようなものなのかもしれない。
長い闘病生活でロクに現世を楽しめなかった私へのご褒美なのかも。
最初は混乱したけれど、いつしか私はそう思うようになっていた。
で、私は新しい体を手に入れてどうしたかといえば、自分の体を動かす事もままならない入院生活の反動か、思いっきり針が振り切れたのだった。
元気な体を手に入れた私は、それは毎日活動的に過ごした。
魔法のあるこの世界で、魔法を学びに学校の門をたたいた。
でも保護者の同意がないと無理だと断られた。
そうなれば、神の恩寵と呼ばれる神聖法術を学ぼうと教会へ赴いた。
でも、それなりの喜捨が必要だとすげなくあしらわれた。
こうなったら幻獣を見に行こうとしたら、父である、クランシー伯爵に泣いて止められた。
私、正確にはこの体の主アリアンロッドは、クランシー伯爵が老齢になってできた、市井の娘との落とし胤だった。
「怪我でもしたらどうするんだ。嫁入り前の娘が! 今の私の楽しみは、お前の花嫁姿を見ることだけなんだ」
それは他に楽しみを見つけた方がいいと思います、お父様。
舌の先まで出かかった言葉は、すんでのところで飲み込んだ。
このところめっきり涙もろくなった父の願いを、私は聞き入れることしか出来なかった。
しょうがないので、許されそうな範囲で、お忍びで街を見て回ったし、お城の舞踏会にも参加したし、令嬢達のお茶会だって顔を出した。
前世は、どちらかといえば内向的な性格だった。
しかし経験値を積んだ今、コミュ力は、ある程度は経験に裏打ちされると思う。
そして、周りを見ることができるのも、コミュニケーション――つまり周りとうまくやっていくことに大事だと実感した。
何とか見よう見まねでイベントをこなすうち、私は周囲の腫れ物にさわるような視線に気がついたのだ。
はっきり言って、私、浮いている。
ここにいたって私は気がついた。
あれ? この世界、思ったより生きづらい?と。
貴族令嬢は部屋の中で刺繍や読書をして過ごすのが、一般的らしい。供も連れずに外出するのは、令嬢らしくないそうだ。
そして、魔法を学ぶなんて、労働をしなければならない下級貴族や平民のすることだそうで。
すなわち、今までどれもこれも私は貴族令嬢らしからぬ振る舞いをしてきたわけだ。
道理で侍女の少女、エミリーが私が帰宅する度に泣きそうな顔をして、もうこんなことはやめてくださいと懇願してきたわけだ。
「どうなさったんですか、お嬢様。前は淑女のかがみのようでいらしたのに」
ごめんね、と謝ろうとしたけれど、ただ謝ってもどうしようもないことに気がついた。
だって私は、この世界の貴族淑女のスタンダードがわからない。今までいた日本の常識しかない。日本の生活しかわからない私は、これから知識を身につけ、なんとかこの社会に慣れていかなければいけないのだ。
今までは異邦人としての感覚で、物見遊山な気持ちで物事にあたってきたけれど、この体は貴族令嬢アリアンロッド。
そして、物語中では彼女は市井の生まれながらも必死に行儀作法や貴族としての知識を身につけ、なおかつ生まれ持ったヒロインオーラで美少女伯爵令嬢として王子をはじめとしたイケメン達とフラグを立てていた。
今の私に、アリアンロッドとしての記憶はない。つまり、貴族知識なんかかけらも持っていないわけで、今や私は役に立たない現代知識を抱えた、妙な行動に走り出したただの美少女。振る舞いに厳しい貴族社会では眉を顰められるような存在であろう。
ここまで気がついて、私は青くなった。
自分の今までの振る舞いについて、というよりは、頑張って礼儀作法を身につけようとしていたアリアンロッドの努力を、私は読んでいた。
(本当のアリアンロッドに申し訳ない……!!)
この体の中身は今どこでどうなっているのか、私の意識と同化しているのか眠っているのかわからないけれど、まずそう思った。
だって私は、物語「銀の光の姫君と金の光の王子」、略して銀と金が、そしてヒロインのアリアンロッドが大好きだったのだ。
銀と金の内容は、おおまかにいえばラブストーリーと言うよりは、ひとりの少女のサクセスストーリーに近かったと思う。
伯爵の落とし胤のアリアンロッドが、市井で生まれた後、母親の死によって父親のいる伯爵家に引き取られ、右も左もわからない貴族社会で最初は失敗を繰り返しながらも、持ち前の明るさと真面目さで徐々に王子や貴族子弟と親交を得ていって自分の居場所を見つけ、地位を確立していく様子が描かれていた。
私は一巻しか持っていなかったので、もしかしたら続巻で恋愛が盛り上がっていったのかもしれない。
そして、私はアリアンロッドが階段から落ちた、すなわち一巻の続きから引継ぐ形で成り代わっている。
これが物語なのか平行世界なのか私の脳内なのかはわからないけれど、家族があって社会構造があって、私がいる。刑罰だってある。現況は私にとって限りなく現実だ。
つまり、しっかりしなくちゃいけない。
思い出さないようにしていた、事故で亡くなった家族を思い出す。父と母と姉。四人家族だった。私だけ生き残った。
この世界の母はもう亡くなっているけれど、お父様、クランシー伯爵は私を可愛がってくれている。父という実感は薄くとも、彼を悲しませたくはない。
侍女のエミリーだって私に優しい。
まだ侍女という存在に慣れないもので、たまにずっと側にいることがわずらわしくもなるし、もっと気さくに接してもらいたくもなるけれど、いつも私を心配して親身になってくれるエミリーが私は好きだった。
遅まきながら私は気づいたのだ。
この世界で貴族令嬢としてやっていくなら、それらしい振る舞いを身につけ、教養や知識もなくてはならないと。
でなければ私は、まわりを心配させて、悲しませるばっかりだ。
郷に入っては郷に従う必要があるのだ。
そして、奇矯な振る舞い――と思われている私の行動に、クランシー家の次期跡継ぎ、すなわち私の異母兄家族の視線は冷たい。
これから巻き返しをしなければいけない。私は令嬢アリアンロッドとして、再起をはかる必要があるだろう。