その6 あなたの主人公の『やる気』を問う ①
最近の小説の主人公では(テンプレに限らず)、よく「働きたくない、楽して生きたい」「目立ちたくない。けれど周りの人間が勝手に寄ってくるから困ったなー」といった、良く(?)言えば脱力系、悪く言えばやる気無し系の主人公が散見される。
極端な例となるが、往年の少年マンガの主人公のように、喜怒哀楽をはっきりと示し、物事に対して情熱を燃やしながら全力投球でぶつかっていくようなキャラクターなど、特に『なろう』においては絶無に等しいだろう。
というわけで、今回取り上げてみたいのは『やる気』だ。
ここで問いたい『やる気』とは、どれだけ目の前にある事柄に対して本気になれているか。
また、どれだけ自分が本気であるのかを、どのようにして周りに示すことができているかだ。
断言してもいいが、どんなに天才だろうとどんなに最強だろうと、物事に対して一切本気を出せない人間には誰も付いて来ない。
例えば学校の運動会で、皆が一致団結して頑張ろう! と手を合わせている中でひとりだけ「あーやってらんねーめんどくせー」とだらだらしていたら、誰一人としてその人を好意的には見れないわけだ。
仮にこの主人公が、実は本気を出したらすぐに優勝できるのだけのポテンシャルを持っていたとしても……その事実を周りに示せていないのであれば、どんな強いパワーも無いのと同じ。
逆に、「みんな、やってやろうぜ!」と気炎を上げて皆を引っ張っていく人においては、「暑苦しい」なんて揶揄も飛ぶだろうが、決して悪評価にはならないわけで。
基本的に、『やる気』に満ちた人間が周囲からマイナスの印象を持たれるケースは極めて稀というわけだ。
なお、ここでは「何熱くなってんの? ダッサ」とか「こんなことに真剣になるなんて、ガキみたい」なんて評価は無視する。どんな物事であれ、真剣に取り組む人をバカにする奴の言葉なんぞに正当性などあるわけがないからだ。
少なくとも『なろう』内で、こういった常にやる気に溢れた主人公が敬遠される理由は分からなくもない。
最も多いであろう声は、「共感ができない」というものだ。
例えばだが、「我が名は○○、いざ尋常に勝負!」などといった戦いの前口上に対して「命を賭けているなら、いちいち名乗る前に攻撃すればいいじゃん」といった、至極現実的なご感想が飛んでくるケースも少なくない。
これは単純に、異世界転移・転生による共感性特化型の主人公がとる行動としては、読者としてはあまり共感ができないからだ。
少し度が強い感想をピックアップするのであれば、以前に語った武士道や騎士道に則ったキャラを異世界転生・転移の主人公に挿げようとすると、「こいつ自分に酔いしれてて痛々しい」「転生前はニートだったのに何カッコつけてるの?」といったように、随分と冷めた目で見られてしまうこともしばしば。
しかし……しかしだ。
ゲーム内でもないのに「ステータスオープン!」と大真面目に叫ぶことに対しては誰も違和感を覚えないのに、多少格好を付けた台詞のひとつやふたつでこのような反応が出てくるのも何だかおかしい気がする。
それに、現行のよくいる『テンプレ』主人公。
何に対しても情熱を燃やせない。
異世界に来ても特に何をしたいわけでもなくぶらぶらして、でもいつの間にかハーレム出来てて幸せだから万事OK。
――皆さま、これに共感できるのか?
共感するための感性など人それぞれだろうから、本来そこにケチを付けても仕方がないのは承知しているが……至福と堕落は紙一重だ。
人間誰しも幸福を求める生き物だろうが、だからって常に幸福に満たされ続ける環境になれば、そりゃあ堕落して『やる気』も出しようがないだろう。
もう一回言うが、これに共感できて、『やる気』という情熱に満ちた人間には共感できないのか?
と、少しケンカ腰になってしまったが、実は主人公の見せ方が悪いだけで心の底では『やる気』に満ちているのかもしれない。
とある作品の感想欄でこんな一幕があった。
主人公は自分の武器として日本刀を作るために、よくあるチート能力と学生時代に読んだ専門書の知識を元にして最強のカタナを鍛え上げた。
鍛治の達人であるドワーフも真似できないような名刀を、いとも容易く作り上げたのだ。
で、その作品の感想では「日本刀を作る技術はとても難しく、現代では一流の鍛治職人でもそう作れないほどのものです。なのに主人公は本を読んだだけの知識で簡単に作って、まるで刀鍛治を馬鹿にされた気分だった」と出ていたのだ。
この感想、回避は容易だったはずだ。
例えば、主人公ひとりでは思うようにいかず、ドワーフと力を合わせた上で途方もない試行錯誤を重ねてようやく作り上げた、とか。あるいは心理描写で「くそっ、刀作りってこんなに難しいのかよ! でも諦めないぞ!」と思い悩むシーンをひとつ入れるだけでも違っていたかもしれない。
その作品の主人公はどういう意識であっさり日本刀を作ったのかは分からないが、少なくとも読者側には、主人公の刀鍛冶に対しての真剣さが見えなかったのだろう。
どんなに能力が高く、どんなに『やる気』があったとしても、見せ方が悪いだけで簡単に評価が落ちてしまうという一例だ。
ここで取り上げたいのが『インプット』と『アウトプット』について。
『インプット』は知識や経験を外部から取り入れること。
『アウトプット』は『インプット』された知識や経験を元に、今後の成果へ反映させることだ。
テンプレ的に言うのであれば、チートという能力や魔法の知識を手に入れることは『インプット』。
その力や知識を使って、敵を倒す作戦を発案したり、魔法書を書いて他の人でも魔法を習得できるようにするのが『アウトプット』だ。
元はビジネス用語だが、この概念はあらゆる場面において活用できる。
小説などその最たるもので、作者がこれまで取り入れてきた知識や経験などを総動員して作り出しているわけだ。
小説の出来栄え=アウトプットの成果なわけだから、その小説の内容がよく作り込まれているのであれば、読者は「作者はこんな凄いものを書けるだけの知識や経験を持っているんだな」というように評価をしてくれる。
少し難しい概念になるが……人が他人を評価する際の基準とは「アウトプットの成果を通して判断したインプットの内容」ということになる。つまり「オリンピックで優勝した(アウトプット)選手は、とてもたくさんの練習を重ねてきたのだろう(インプット)から、すごいと思う(評価)」といったところだ。
では本題に戻ろう。
周囲に『やる気』を見せるためには、他人がその人のアウトプットを通して、いかに評価できるだけのインプットを見出せるかどうかだ。
最強の魔法を使える賢者が魔物をやっつけたのであれば「あんなに強い魔物を簡単に倒すなんて(アウトプット)、あの人はすごく過酷な魔法の修行をしてきたのだろう(インプット)。なんてすごいんだ(評価)」となる。
こういう流れが成立するから、人はその賢者に対していかに魔法に対する『やる気』が凄まじいかを見出せるわけで、尊敬や畏怖の念を抱くわけだ。
では仮に、この賢者が「こんな雑魚に俺の魔法はもったいない」と言って戦おうとしなかったら?
「賢者と言いながら魔物を倒そうとしないなんて(アウトプット)、実は大した魔法を覚えていないんじゃないか(インプット)。なんだかがっかり(評価)」と、周囲からの反応は3点とも変わってしまうのだ。
冒頭で、どんな力もその事実を周囲に示せなければ無いのと同じと評したのは、つまりこういうこと。
心を読めるエスパーじゃあるまいし、賢者が「すごく過酷な魔法の修行をしてきた(インプット)」という事実を他人が汲み取るには、それに相応しいアウトプットを提示されない限り不可能なのである。
ではこの前提を踏まえた上で、次。
チートで最強の魔法を習得した普通の男子高校生が、同じく強い魔物をやっつけた場合。
他人から見たアウトプットとインプットの評価は、実は上記とまったく同じだ。
賢者の例で書いた通り、他人はあくまで「あんなに強い魔物を簡単に倒す」という、目に見える事実からでしかインプット内容を判断できない。
だから、実際は「神様からポンと渡されただけ(インプット)」というのが真実だとしても、周りは「あの人はすごく過酷な魔法の修行をしてきたのだろう(インプット)」という判断を下すことになる。
つまりインプットの内容が何であれ、アウトプットが同じなら、評価も同じになるということだ。
このアウトプットから判断されるインプット内容の多大なるズレ――いわば事実誤認こそが、『やる気』の無い主人公が多くなる原因となっているのだ。
考えてもみよう。
チートを貰うというインプットに関して、主人公は特に評価されるだけの労力を費やしてはいない。
しかし、それを生かしたアウトプットにより、周りは最高レベルの評価を与えてくれている。
チートだろうが努力だろうが、アウトプットによる成果が同じであれば、周囲からの評価は変わらないのだ。
――じゃあ、それでいいじゃない。
こういう結論に達してしまうのは、無理からぬことなのだろう。
わざわざ「俺の力って実はチートで手に入れたんだー(インプット)」と言って、率先して周囲からの評価を下げる理由がないわけだ。
この意識は、要するに結果こそがすべてということ。
つまり、テストで100点を取れるという結果さえ同じであれば、毎日猛勉強しようがチートなアイテムで天才になろうが、「お前ってすごく頭いいんだな!」と評価されて難関大学に合格できるんだからいいだろう、と。
だったら、やる気が出ないのも仕方がない。
チートパワーで常に最高のアウトプットを発揮できる限り、常に誰からも最高の評価を貰える保証がされているのだから。
――と、実際はそんなに甘くはない。
確かに、主人公のインプット方法を何も知らない(正確には「知ろうとしない」だが)周りの人間を相手にする場合なら、それで話は終わるのかもしれない。
しかし、肝心な話……読者は主人公の心の中が、文字通り読めるわけだ。
三人称視点に徹底して、主人公の素性や心の内を一切読者に探らせない仕様であれば話は変わるが、大半の作品は主人公視点による物語なわけで……基本的に、主人公は読者に隠し事ができない。
つまるところ、どんなアウトプットをしようとも、前提として読者にはインプット内容がバレバレなのである。
先程、「アウトプットの成果を通して判断したインプットの内容」が他人への評価基準と述べたが、その人のことを深く知っている――「たくさん頑張って勉強した」というインプット方法を事前に知っている人からすれば、アウトプットが何であれ評価はそうそう変わらない。
テストで0点を取ったとて「あれだけ頑張っていたあの子を笑うなんてできない」といった感想が出るように、人を評価するには、多くの場合は結果より過程が重んじられるのだ。
更に付け加えるならば、人間そこまで外面だけのアウトプットに惑わされるほど鈍感でもない。
相当昔の話だが、私は本物の日本刀を持った達人による居合抜き(ワラを丸めて柱のようにしたものを一刀両断するデモンストレーションだ)を間近で拝見したことがあった。
場の雰囲気などもあっただろうが、その動作や呼吸、佇まいのひとつひとつがとんでもなく洗練されていて、「ああ、これが本物の達人なんだな」と息を呑んだものだ。
外見、立ち方、動作、呼吸、態度といった、私がその評価をするに至った様々な判断材料――剣道経験もない普通の学生がチートを貰っただけで、そのすべてを模倣、ないし凌駕できるのかと思うと甚だ疑問なわけである。
すごく刺々しい例だが……明らかド素人な剣の握り方で「てやー」と気のない掛け声でふらふらと斬りかかりました→でもチートの力でスパッと真っ二つ→「わぁ、あの人はなんてすごい剣の達人なんだ!」なんて感想が出ようものなら、その人はただのアホだと思うぞ。まず目の前の現象を疑いなさいよ。
確かに対象を一刀両断したという結果は同じだろうが、人はその結果だけでインプット内容を推測しているわけではない。
アウトプット内容から感じ取れるありとあらゆるものを自分なりに咀嚼した上で、他人はその人を評価しているということだ。
でも、小説は文字という視覚情報でしかそれを示すことができない。
だから、「どうやれば主人公は皆から評価されるようになるんだろう?」という問題点を解決する際に、書きやすさだけを考えれば「最強の力で敵を倒した」「奇跡の魔法で人々を助けた」という、目に見える分かりやすい結果だけを重視する。
こういったキャラに対しては、よく「どうしてこの主人公が周りから持ち上げられているのか分からない」という感想が出がちだ。
派手なアウトプット内容だけで主人公への評価を決めてしまう登場人物と、インプット内容を詳しく知った上で評価を下す読者との、文字通り人を見る目があまりにも違い過ぎた結果と言えよう。
『やる気』がある人間というのは、インプット内容が透けて見えるほどのアウトプットを提示する――つまりは、物事に本気で取り組む人のことだ。
今まで泳げなかった子供が、息を切らせて溺れそうになりながらも25mプールを泳ぎ切れば、誰だってその子の本気の想いを汲み取ることができるだろう。
どれほどアウトプットがもたらす結果がちっぽけだろうと、そこから読み取れるインプットの内容を正しく見出すことができれば、必ず周りの人は『やる気』という名の正当な評価を下してくれる。
では、無気力やる気無し、でも最高の結果だけは出す――流行の『テンプレ』主人公達は、いったいどういうつもりでこのようなキャラを演じているのか。
ご意見は色々あるだろうが、この考察を通した私の見解は以下の通り。
最強魔法で敵を一掃、賢者と呼ばれる頭脳で国を豊かに!(アウトプット)
でもこの力はチートで手に入れたということ(インプット)を知られたくない。
それでも皆からは評価されたいから、とにかくたくさんすごいこと(アウトプット)を積み重ねよう!
チート系主人公の99%がそうだが、チートというインプット内容を知られることを極端に嫌う。
簡単な話だ。
アウトプットの内容が最高レベルなのに対し、評価対象であるインプット内容は真逆で最低レベル。
そりゃあ、バレたくはないだろう。
下手にインプット内容が見えてしまうような動きをしてしまえば、周りからの評価は一気に落ちてしまう――それを無意識だろうと理解しているのだ。
やる気の無い主人公とは、別に作者が狙って書きたいわけではないはずだ。
単に、下手にやる気を出すことで、インプットの内容を周りに感付かれるのを避けたいから。
「いちいち本気になるなんてみっともない」と思うからではなく、「本気を出すことで、自分の底を知られたくない」からだ。
何かに本気を出すこともできず、でも周りから認められたい、なんて考え方は割と図々しい……というより、それこそご都合主義というものだろう。
「あーやる気出ないわ引きこもりたいわー」「あまり目立つと面倒だから大人しくしとこ……」と本気で思っているなら、終始きっちりと目立たないまま隠居生活を送ればよろしい。
仮に力を見せる必要があったとしても、お礼を言われる前にそそくさとその場を去ればいいわけだ。
それならそれで、やる気を出さないことにやる気を出しているという立派な本気っぷりが見て取れる。
それを中途半端に力を見せつけて周りから評価されようとするから、「目立つのは苦手なんだけど、実は俺って強いんだぜーチラッチラッ」という、非常に面倒臭いことこの上ないキャラと化して感想欄でボロクソに叩かれる羽目になるのだ。
何でもクールにこなせて結果を出せるからカッコいい?
無気力だけどいざという時には最強だから、そのギャップがステキ?
カッコいいという概念に対して、形から入るとロクなことにならない。
それに対し、周りの人間が『やる気』に満ちたインプットを見出せない限り、絶対に失敗すると断言して差し上げよう。
……ただし、これは突き詰めると昼行灯――前作でも取り上げた、古き良きヒーロー像にも発展し得る。
次回は、この『やる気』がないと見せかけた本気の人間像というものを考えてみることにしよう。
『やる気』編はまさかの三部作です。