その5 最強の証明とは
今回のテーマは『最強』だ。
主人公無双、俺tueeeものが大流行している昨今、改めて考えてみて欲しいのがこの『最強』の定義である。
最近はとかくタイトルに『世界最強』を付けている作品が乱立しているが(○○で世界最強、というフレーズはまさしくタイトルの『テンプレ』だ)、勇者召喚された主人公がチートでレベル99になりました=最強というなら、もしレベル100以上の敵が出てくれば即最強の座から転落するし、力があっても学が無ければ、少なくとも学問的な分野では弱者だろう。
『最強』とは文字通り「最も強い」という意味だが、本来作中ではっきりと示すのであれば、「どの枠組みの中で」「何が」「どのような形で」最も強いのかまでを提示して、初めて『最強』という定義付けがなされる。
というわけで、今回考えてみたいのは作中における『最強』の証明――作者が主人公に付与している「俺が考える最強の主人公!」というテーマをいかにして読者に示すのかだ。
群がる敵を一蹴! 古より怖れられてきたドラゴンを真っ二つ! 伝説の魔王を指先ひとつでダウン! すべての黒幕である神々も相手にならない!!
強い、強すぎるぞ我らが主人公!!
誰もが勝てない強敵どもを、まるでザコ同然と言わんばかりに薙ぎ払っていく!!
と、ベタベタな最強主人公の活躍を書いてみた。
うん、確かに強い。
誰もが勝てなかった相手に、いとも簡単に勝利を収めていくのだ。
これを『最強』と言わずに何と呼ぶ?
――はい、弱いものいじめと呼びます。
しかし、『最強』の証明としては案外理に適っている。
「自分が一番強い」のではなく「自分以外の奴が全員弱い」ことがはっきり提示されれば、それはそれで『最強』なのである。
スライムしかいない世界でひのきの棒持って無双したとて『最強』には違いないわけだ。
冗談みたいな例に見えるが、『なろう』における最強モノの大半は、突き詰めればこれとさして変わらない。
これぞ俺tueee……ではなく、俺以外yoeeeと言うべきか。
さて、作者が思い描いていた『主人公最強』のコンセプトは、本当にこれで正解だったのだろうか。
例えば主人公の設定が「世界中の猛者をすべて倒した凄腕の武術家」だったとして、物語が「異世界に行ってその力がどこまで通用するのか試してみる」なんていう武者修行の旅だったとしよう。
当然ながら、このような作品のメインテーマは『戦い』だ。
身に着けた武術で名立たる強敵たちと熱いバトルを繰り広げてなんぼの話だろうし、実際にこのような作品は『なろう』内でもちらほら見られる。
さて、そんな作品のバトルシーン。
俺は無造作に拳を突き出した。
「うわああああああああっ!?」
ドカーン!!
俺に殴られた相手はあっという間に空の彼方へと吹き飛んでいった。
やれやれ、どいつもこいつも雑魚ばかりで歯応えがないにもほどがあるな。
もう一回冒頭の言葉を繰り返すが、これは弱いものいじめです。
結局、チートを使って大暴れする男子高校生と何の違いもない。
これで読者から「主人公の武術ってすごい、さすが!」なんて評価が出るとは思えない。というかワンパンのどこに武術的要素があるというのか。
このような『最強』を良いと思うか悪いと思うかは、作者次第だ。
主人公がいかに強いのかを見せるつもりがないなら、まったく問題ないのだ。
煽っているわけではなくて、単に作中のテーマが「ストレス解消に読んでほしい」とか「手軽に誰でも最強の気分を味わってほしい」といったものであれば、むしろ正しい姿である。
ただこれが「強敵たちとの熾烈な戦いを通して成長していく」とか「強さを極めるために努力や研鑽を積み重ねる」とかいったテーマで書こうとすると、あっという間に主人公がちっちゃい『最強』に収まってしまう。
作者が思い描く『最強』の証明をするに対し、割と障害になりやすいのがステータスやスキルの概念だ。
炎魔法、氷魔法、雷魔法、はたまた剣術や槍術、弓術etcetc……最強主人公が習得したスキルの数は、時には1話の半分近くを埋め尽くすほどに膨大な情報量になることだってある。
さて、そんな主人公の戦いはと言うと……最初から最後まで拳ひとつで戦い抜きました。
――スキル関係ねえええええええええええええええっ!!
じゃあ最初から格闘術Lv99だけ付けとけばよかった話じゃねぇか!!
何十何百と身に付けた大量のスキルセットがまさに宝の持ち腐れ!!
せっかく習得させたならちゃんと使わせてあげなさいよ!!
性懲りもなく荒ぶってしまったが、ステータス制の『テンプレ』ファンタジーは9割以上がコレだぞたぶん!!
いや、まぁ……書きたい気持ちはよーく分かるのだ。
やれ『神殺し』とか『ドラゴンバスター』とか『精霊の加護』とか、とにかくたくさん主人公に付与させたい気持ちは痛いほど分かる。
RPGで育て上げたキャラのステータスを見る時とまったく同じ心理で、「頑張ってここまで育て上げた」という達成感が目に見える形で表れる。
単純な話、たくさんのスキルを列挙すると強そうに見えるのだ。
しかし実際の強さとは、ステータス画面ではなく戦いの場で表現しなければならない。
バトルシーンを書いているとつくづく思うことなのだが……戦いの描写をするのに、そんなたくさんのスキルは必要ないのである(敵に応じて戦術を使い分ける必要があるなら別だが)。
全属性の魔法を習得しようが、様々な有利スキルを持っていようが、
神速で走る。
一撃で敵をたたっ斬った。
このような戦闘描写なら、使うスキルは2個あればいい。スピードアップ的なスキルと剣術Lv99でよかった話だ。
これは私の個人的な意見だが……主人公最強で苦戦もせずに敵を倒すような展開だと、そもそも戦いの描写にバリエーションが作れない。すべてワンパンで倒す主人公が王級だの神級の大魔法を覚えていたところで生かしようがないのだ。
そもそも多種多様なスキルや術技というのは、単なる力押しができないキャラが、色んな戦術で強敵を倒そうと試行錯誤するから必要とされるわけだ。
最初からチートで超パワーを持っている主人公には、そのような発想自体が必要なくなる。
それでも、ただ単にスキルコンプリートしたいというのなら、それこそゲームでやればいい。
物語の舞台がVRMMOのゲームの中ならともかく、現実の異世界なのだとはっきり示したいのなら、まずは上記のような一貫したゲーム感覚の行動を見直すことを奨めたい。
物語の冒頭で「主人公は世界最強です」と言われたところで、読者からすればその『最強』っぷりを見たことがないわけだから、この時点ではまだ『最強』というのは単なる設定に過ぎない。
とんでもなく強いという設定の敵をワンパンで倒そうが、いくらレベル99でチート級のスキルを何百個も持っていたとしても、そこに明確な強さを表現する描写がなければ、あくまで単なる『設定』でしかないわけだ。
極論ではあるが、いかに主人公の『最強』ぶりを作内で見せつけるかという問いに対し、やれスキルとか技術とか魔法とか、そういうものは大した問題ではない。
大切なのは、その力の利用方法であり、利用の描写そのものにある。
少なくとも能力面における大小が『最強』に繋がっているわけでは決してない。
では一例。
現代日本を舞台とした、いわゆる不良グループによる喧嘩アクションものを想像してほしい。
力だけがものを言う不良の巣窟――そんな学園に転校してきた主人公が、拳ひとつで数多のワルどもを薙ぎ払っていく、そんなお話。
主人公はチートも何もない、ただ喧嘩じゃ負けなしというだけの男子高校生だ。
しかし、作中において主人公は全戦全勝。ピンチになることもあるが、どんな苦境も意地と根性で乗り越えていく展開だ。
これを小説として起こすのであれば、『主人公最強』タグを付けても何ら不自然ではないだろう。
「学園のボスを倒した、これで俺がこの学園の最強だ!」と拳を振り上げて終わったお話に対し、まさか「いやチート持ちが出てきたらこんな主人公すぐやられるじゃん」とか「喧嘩が強いだけじゃ異世界では通用しないよね」とか、そんな野暮な物言いをする読者などいはしまい。
このお話は「現代日本が舞台の」「ただの不良たちによる」「喧嘩ですべてを語る」物語なのだから。
ステータス表記もなければ特殊能力もあるわけではない。
広い視点で見れば、ただちょっと喧嘩が強いだけの不良学生。
でも最強なのだ。
屋上で血みどろになりながらも殴り合ったり、番長と正々堂々と一騎打ちをして勝利をもぎとったりだとか、物語を通して周囲から最強と呼ばれるだけの振る舞いを見せたからこそ『主人公最強』というタグが映える。
その実、上記のようなお話で『最強』を物語るのは、テンプレでよく見られる『世界最強』よりも非常がハードルが低い。
不良マンガなどにおいては、あくまでも主人公が関わる範囲内――例えば「転校してきた学園内」「主人公が住む○○という地域」という限られた枠組みの中で、かつ「喧嘩の強さ」をピックアップした際の『最強』になる。
こんな世界観にいきなりチート勇者や魔王が出てきて「あははは不良ごときがいきがんなよー!」なんて展開にして『最強』の座をかすめとったところで、単純に興ざめになってしまう。『最強』を競い合う舞台がまったく違うキャラを投じたところで、何の意味もないわけだ。
だから、チートがなかろうがユニークスキルがなかろうが『最強』を証明することは十分可能ということである。
逆に、『なろう』テンプレで好まれる『世界最強』はおっそろしくハードルが高い。
まず大前提として、主人公が飛ばされた世界は異世界という未知の枠組みだ。
凶悪なドラゴンを倒したかと思ったらそれより強い大魔王が出てきて、そいつを倒しても黒幕の神々が出てきたりと、何が出てきてもおかしくない世界観だ。
つまるところ、『最強』を競う枠組みが広すぎて、その中にどんな強者がいるのかがはっきりしないのだ。だから冒頭でいきなり『最強』になったところで、「いやこの世界には他に強いヤツがゴロゴロいるんじゃないの?」と読者に疑問を持たれてしまう。
現実世界においても『世界最強』の定義付けは難しいというのに、情報が何も提示されていない異世界でどうやって『世界最強』を証明しろというのか。
と、ここまでは作中でしっかり『最強』を見せつけたい場合の心構えみたいなものだ。
本題はここから。
そもそもなんで『テンプレ』主人公の皆様は、揃いも揃って当たり前のように『最強』を目指そうとするのか?
一応、読者を意識してこういう展開にしているのであれば、理由はこれまでの考察でいくつか既に出ている。
ひとつは、読者へのヘイトを最小限にするために、主人公は絶対に負けないという安心感を読む前から与えること。『なろう』における『主人公最強』タグは、読者の大半はこういうニュアンスで受け取っているはずだ。
もうひとつはスピード展開。ちまちまとした成長の過程や下積みを全部すっ飛ばして、最初からどんなことでもできるストレスフリーな環境を約束したいため。
しかし、今回問いたいのは作中で主人公が『最強』を求める理由だ。
「男だったら頂点目指さないとな!」なんて、非常に男らしい意識で強くなろうとする主人公はよく見られるわけだが……現実世界でニートや引きこもりといった人生のどん底に甘んじていた人間が、異世界に行った途端にいきなりこんな上昇志向を持てるものなのか?
別段、おかしいと言いたいわけではない。
人間、尻に火が付けば大抵のことはやってのけられるものだ。
ニートでも世間知らずだったとしても、突然魔物がうようよいるジャングルのど真ん中に放り込まれたら何が何でも生き残ろうとするだろうし、危機的状況や後がない環境に身を投じれば、人はいかようにも変われるだろう。
異世界転生・転移が、主人公が必死になるだけの状況を与えるのであれば特に問題はないのだ。
「誰よりも強くならないと生き残れない!」「これ以上何かに怯えて逃げ暮らすのは嫌だ。今度は俺がすべてを支配してやる!」なんて『最強』を目指す動機というものが、主人公自身の口から割とするっと出てくるのだろうし。
しかして、『テンプレ』ファンタジーにおいて、こういった逆境からのスタートはかなり珍しい方だ。
大半は最初からある程度の生活保障がある上に、チートにより強者になるお墨付きまで貰っている至れり尽くせり仕様。
そんな中、主人公が『最強』を目指すということは……
「別に弱くてもいいや。どうせ頑張っても無駄だし、ニートや引きこもりでOK」→異世界行きました→「このチートなら最強になれる! よーし頑張るぞー!」
見ていて清々しいほどの手のひら返しだ。
こういう心理になる流れは非常に単純。
「チートという、人生の勝者になれる『保証』を手にしたから」だ。
これと同じ心理となった例を出すなら、“バック・トゥ・ザ・フューチャー”における、主人公をいじめていた男の子の話がいいだろうか。
とあるキッカケで、彼は未来の世界で発行された『今までのスポーツの勝ち負けの記録』を手にしたことで、スポーツ賭博で100%勝てるようになりあっという間に億万長者になった。
最初からギャンブルの勝ち負けが分かるというチートを手にした彼は、当然のように「これを利用しない手はないだろう!」と思い至ったわけだ。
……うん、まあ、普通といえば普通の心理だ。
勝てるという保証があって勝ちに行くのは当然だろうし、何よりそれが周りからズルだとばれない限りは、勝ちに行くことに対するリスクも(基本的には)ない。
ならば、絶好のチャンスをみすみす逃すなんてもったいないし、使える物を有効活用しているだけなのだから、問答無用で悪とも言い切れない。
私だって同じ行動をしないとは限らないぞ(罪悪感で押し潰される方が先だろうが)。
では、この『100%勝ちを保証するアイテム』を『最強を保証するチート』に置き換えて、もう一度考えてみよう。
「俺はこの力で最強を目指す!」→最強になれると分かっていたら誰でも同じこと言います。
私なら、即時にこのツッコミを入れる。
今度こそ後悔しない生き方をとか、男だったら頂点とらないと~とか、そんなものできるという保証があるなら誰でも言えるわ!!
本来『最強』なんて目に見えた保証なんてないものだが、ここでスキルやステータスの概念がこの意識に拍車をかける。
強さが常に可視化されるので、どれだけ自分が強いのかがパッと分かってしまうのだ。国一番の剣聖がレベル50で、主人公がレベル99だったら勝てるかどうかなんて火を見るよりも明らかなわけで。
では改めて問うてみよう。
――これが最強か?
単に力があるかどうかの話ではない。
チートが通用しない、あるいは失われるような事態になった際にはどうなるのだ? 『最強』になれる『保証』が無くなったらどうなる?
本来、心が折れなければおかしい。
100%勝てるという保証を失っても「俺は勝てるに決まっている」と思えるのなら、それは単に現実が見ようとしていないだけだろう。チートありきの『最強』だったのに、それを失ってまったく同じ心理状態を維持できるわけがない。
つまりこういった主人公は、いくら作中で『最強』を名乗ろうとも、精神面においては間違いなく弱者だ。
『保証』のない未来に向かって進む度胸も持てない者が、そもそも強さを語ること自体おこがましいとさえ思える。
正直な所、ここまでぐだぐだと並べた『最強』の解説など大した意味はない。
個人的には、小説のタグに『最強』というものが付いていたとしても、主人公は負けてもいいと思うし、挫折があっても何かを諦めてもぐしゃぐしゃに泣き崩れようともいいと思う。
『なろう』的にはどうなのかは知らないが、『最強』タグを付けたからといって、作中で常勝不敗でなければならない、なんてルールはないだろう。
本来『最強』とは、強さを競い合った結果のことを指す。
「最初から最強」だなんてのは、そもそも言葉として矛盾しているのだ。
『最強』を証明するということは、作中であらゆる強者をたいらげ頂点をとるという結果を、いかにして物語の過程で描いていくかだ。
間違っても物語冒頭の時点で名乗れるものではないし、まだまともな強敵と戦ってもいない主人公に投げ掛けるなど論外だ。
本気で『最強』の主人公を描きたいのであれば、この過程にこそ全力を注ぐべきだ。
細々としたスキルや高いステータスばかりいじっていても何の証明にもならない。
一番強いと証明したいなら、まず戦え。