その2 騎士道について
今回のテーマは『騎士道』だ。
『なろう』の異世界は99%が中世の西洋モチーフであり、当たり前のように騎士が登場する世界観となっている。
しかして、実際に騎士が大きく活躍し、この『騎士道』が強く発揮されるような作品は極めて少数だ。
最たる理由は、そもそも主人公が異世界転移や転生をした日本人で、現地の騎士が主役ではないこと。
だったら主人公が騎士になればいいわけだが、2つめの理由として、主人公が騎士になりたがらない。
特に作品名は挙げないが、往年のファンタジー作品――特に戦記ものにおいては、むしろ騎士こそが物語の花形だったと言っていい。
正々堂々とした一騎討ちで武勇を示し、仕える主に絶対の忠誠を誓い身命を賭して守り抜く。まさしく絵に描いたような生き様だ。
おとぎ話における王子様役としてもよく取り上げられていた。白馬に乗った騎士なんて役どころは、まさしくテンプレではあるが世の女性読者にとっての憧れだったのではないだろうか。
しかし、現在の小説界において、そんなコテコテの白馬の騎士が主役となっている作品はほとんどない。
と言うか……『なろう』テンプレにおいては、単なるやられ役か噛ませ犬に成り下がっていることが大半な気がしてならない。
例えば、王国に攻め寄せた魔物に苦戦する騎士団を尻目に、主人公がチートで蹴散らして力の差を見せつけるとか。
姫への忠義やら愛情やらが暴走して暴れまわる騎士を主人公がやっつけるだとか。
主人公目線でいくと、騎士という存在はもはや悪役にすらなってしまっている。
更には、表面上は誰にでも優しい人格者のイケメンだが、主人公や一部の人間相手にはいきなり辛辣な対応をとってくるような「この騎士実は悪者だったんです」タイプすら出てくる始末。
現代の小説界において、騎士の名誉など完全に地に落ちてしまっているのではないだろうかと、少々頭を痛めたりもした。
だからこそ――と言うわけではないが。
騎士というものが、そして騎士が歩む『騎士道』というものが、いかに物語を盛り上げてくれるかというものを語りたくなったわけである。
まず、そもそも騎士って何なのか?
言葉通りの意味ならば「騎馬に乗って戦う人」なのだが、少なくとも考察上の「ファンタジーにおける騎士」の定義としては雑過ぎるので除外する。
一般的に知られる騎士は、王や領主と主従関係を結び軍役による奉仕を行う者とされる。すごくザックリ言えば、腕っぷしの力で王様に貢献して見返りに得る身分といったところ。
細かい経緯は省くが、そこに宗教的な(主にキリスト教)要素が加わり、武勇に長け、礼節を重んじ、忠義のために戦う今日の騎士像が完成したとされている。
その流れで作り上げられたとされるのが『騎士の十戒』という、騎士が守るべき掟のようなものだ。
主だっては、優れた戦闘能力、勇気、正直さ(高潔さ)、誠実さ(忠誠心)、寛大さ、信念、礼儀正しさ(親切心)、崇高な行い(統率力)、清貧の暮らし、弱者を守護することが挙げられる。
このような、正当で美しい行いを目指す生き方というのが『騎士道』の精神だと言われている。
『テンプレ』ファンタジーによくあるシーンでいくつか例を出すのであれば……
・敵軍との戦争で、敵はこちらに気付いておらず、不意をうてば簡単に倒せるであろう状況。
隠れようとせず敵の正面に立ち、
「不意打ちなど騎士として恥ずべき行為。正々堂々、真っ向から勝負!!」
・残る敵はあとひとり。こちらは何人もの騎士が後ろに控えている状況。
「他の者は手出し無用。一対一で決着を付けようではないか!!」
ベッタベタな例を出してみたが、こういったアクションを本気で行うキャラなんて昨今まるでいやしない。ましてや異世界転移した普通の現代人がするような行動などでは決してない。
冷静に考えれば、「それでやられたらどうするんだ」とか「プライド高すぎるだろ」なんてツッコミが来るような展開だが、騎士道精神に則った行動としてはむしろ当然というレベルだ。
こういった戦術などまるで考慮していないであろう行動は、合理性や勝敗を求める意識よりも、名誉や誇りといった意識が上回るがゆえに生じている。
私は騎士ではないので、その時の彼らの心理など根拠のない推測でしか語れないが――少なくとも、自分の命がかかっている状況下で名誉や誇りを優先させるということは。
――誇りのない行動をするくらいなら、死んだ方がマシ。
こういった意識を当たり前に持っていた、ということになる。
命を軽んじていたのではなく、命よりも大切なものがあるのだと信じている。
どこか危うい心理であり、だからこそ他人にはそうそう真似できない個人特性として評価できる意識だ。
『騎士道』を大きく取り上げたお話として、過半数の方がイメージしやすいのが“アーサー王物語”だろう。ランスロットやガウェインといった、アーサー王を取り巻く円卓の騎士はあまりにも有名だ。
王に忠義の剣を捧げ、強大な敵を圧倒的な武勇で薙ぎ払い、また姫君との甘いロマンスなども織り交ぜていく――これが中世ヨーロッパで発展した騎士道文学の王道だったわけだ。
では、どうして『なろう』など最近の小説界では、こういった騎士が主役のお話がとんと出てこないのか。
少なくとも、騎士が主人公ではなくサブキャラとして登場しない理由は明白だ。
共感性特化ありきの現代人主人公がメインの『なろう』テンプレに、上記の例のような騎士を出すとだ……100%主人公が喰われてしまうのだ。
正々堂々とした佇まいで誰にでも優しく、何より強い――そんな騎士の前に、チートでフル武装したニート主人公を放り込んでみよう。
では質問。皆さま、どっちを応援しますか?
こう言っちゃなんだが、勝とうが負けようが主人公の評価はどん底に落ちる。
主人公最強なんだからと、不用意にチートで騎士を瞬殺しようものなら、事情はどうあれ主人公が悪役として認識される(周りのキャラからも、読者からもだ)可能性が高い。だからといって負けてしまっては、活躍の場をかっさらわれて主人公交代でいいんじゃね? みたいな声が挙がりかねないぞ。
主人公が一番強くてカッコいいというのが大前提であるテンプレにとって、非の打ちどころのない善人、かつ強者というのは、魔王や神よりよほど恐ろしい。
前回の考察でも触れたような「周りの人物を下げることで、相対的に自分の評価を上げている」主人公にとっては、まさに天敵なのである。
だったら騎士を主人公にしない理由は何だろうか。
所説あるとは思うが、個人的な考えとしては、『騎士道』というのはあくまで理想論の域を出ず、実際にこんな騎士道精神を体現できるような人間などいやしない――単純に人間として現実的ではないからだろうか。
本文の冒頭で、『騎士道』をまるで絵に描いたような生き様だと評したが、つまりは、本当の騎士とは絵に描いた、おとぎ話のような世界でしか成立し得ないという意味にもなる。
ある程度キャラクターに現実味を求めようとする時点で、ガチガチの騎士道精神で固めたキャラを出したところでお綺麗すぎるのだ。
弱きを助け、自らが傷付くことを厭わず、誰にでも誠実で礼儀正しく、忠誠を誓った相手はその命を捨ててでも護りぬく……そんな聖人君子みたいな奴なんていないだろうと、読者はそう思ってしまうわけである。
読者からすれば、こんなキャラからは共感性などまず見出せないし、個人特性という魅力を発揮するにはいささか心理的に人間離れしすぎている。
こういったキャラを主人公に挿げると、とにかく動かすのが大変なのだ。行動や言動、思想というものを考慮しづらいので、ストーリーを作る難易度が極めて高くなる。
……と、いうかだ。
先の“アーサー王物語”に出てきたランスロットは、実はアーサー王の妃と関係を持ってしまったりと(要するに不倫)、清廉潔白な騎士像とはかけ離れたエピソードを持っていたりする。
言い方は何だが、世界でもっとも有名(と思われる)な騎士でさえ、色恋沙汰のような人間的欲求には抗えなかったわけで、良くも悪くも人間らしかったわけである。
つまり、『騎士道』を体現した立派な騎士さまはあまりにも現実味のないキャラだから、登場させるだけ無駄無駄……と、こんな結論を書きたいわけではない。
そもそも、実はこの『騎士道』を体現したという、完成形の騎士を持ってきていること自体が根本的な間違いなのだ。
前作の番外編2において、私が新作のテーマに投じた『求道』という言葉を覚えているだろうか。
本来は宗教用語なのだが、考察上の定義としては文字通り「道を求めること」。自分が進むべき道を定め、その終点に向かって進み続ける行為のことを指している。
その実、これは言葉に『道』が付くものに対しては、ほぼ例外なく適用できる話だ。
例えば剣道であれば、文字通り剣の道。
剣の技を磨き続け、その果てにある最終目的に向かって進み続けるわけだ。それが全国大会優勝でも世界最強でも、単に心身を鍛えたいだけだったとしても、人それぞれ何かしらのゴールを設定している。
『騎士道』とて例外ではない。
思い描いた理想の騎士像に向かって、剣の訓練をし、人に優しくあろうと意識し、仕える主のために頑張ろうと奮起する。
こうやって、道半ばの騎士が『騎士道』を体現しようとするのが、最も現実的な姿ということだ。
これは次回以降の考察においても、前提条件として覚えておいていただきたい。
では、ここからは実際にこの騎士道精神を付与させたキャラの魅力というものを問うてみよう。
冒頭に挙げたように、『騎士道』に則った行いというものは、他者からの共感を得られにくい。
例えば、冒険者の主人公と一緒に魔物討伐に行ったとして、
「魔物が多すぎる、いったん退こう!」
「いや、ここで逃げるは騎士道に反する。このまま突っ込むぞ!」
「バカ無茶するなって! ……ひとりで行っちまったよ」
こんな場面もあるかもしれない。というか実際の『テンプレ』もので結構ありそうだぞ。
このように、凝り固まった性格の騎士は他のキャラと考え方の不一致が起きやすい傾向にある。
大半の小説ではここで止まってしまうから、騎士というキャラの評価が著しく低いようにも思える。
『騎士道』を語るならば、ここからもう一歩踏み込んでみよう。
このまま終わってしまっては、この騎士は特に理由もなくただ「騎士道が」と叫びながら考えなしに突撃するだけのおバカさんで定着してしまう。
騎士というのは、決してひとりでは成り立たない職業だ。
王であれ姫であれ民衆であれ、その人を評価してくれる相手がいる(あるいは、いると信じている)からこそ、騎士とはその存在意義を示すことができる。
国であったり他人のために剣を取り戦うというのが『騎士道』の基本原則であり、ただ自分がそうしたいから、という意識だけでは成り立たない。
先ほどの例文に少しだけ手を加えてみよう。
「魔物が多すぎる、いったん退こう!」
「いや、○○の騎士としてここで退くわけにはいかぬ! このまま突っ込むぞ!」
「バカ無茶するなって! ……○○のことがそんなに大事なのかよ」
○○の部分は国でも特定の人物でも何でもいい。
要するに、『騎士道』を貫くための動機となるものが明確に提示されていればいいのだ。
仮に○○に、仕える国のお姫様を当て嵌めるのであれば、「姫のためにあんなに頑張っている」「姫に仕える者として恥じない行いを意識している」という評価と成り得るわけだ。
ここで注目したいのが、こういった評価が出る時点で、この騎士の行動は自分勝手ではないという印象が出てくるということ。
ひとりで暴走して周りに迷惑をかける行動をとったとしても、それは「姫への忠誠心が強いから」という理由であり、身勝手な印象はあまり持たれなかったりする。
そして『騎士道』を問う中で最も重要視したいのが、その騎士がどれだけ『無私の行い』をできているのかだ。
つまり、どれだけ自分のことを犠牲にして他人のために動くことができるのか。
では、ここでも例を出してみよう。
騎士はお姫様に、自衛のために剣を教えている。しかしその訓練はとんでもなくスパルタだったので、お姫様は騎士のことが大嫌いでした。
この時の騎士の心情として、2パターン作ってみた。
A. 誰にも理解されようとも構わない。私は姫のためを思って鍛えてあげているのだ!
B. 私はどれだけ嫌われてもいい。それで少しでも姫が強くなれるなら本望だ。
似ているように見えるが、実は大違いである。
Aの心理に至る前提として、
「私のやっていることは正しい」→「だから周りにどう思われようと、こうしなければならないのだ」
というように、自己承認が大前提として行動に反映されている。
対するBは、
「私のやっていることが正しくても、間違っていてもいい」→「私のやったことが、姫のためになっているのであればそれでいいのだ」
このように、自分の行動の承認を常に他者にゆだねている。
この「承認を求める対象」が違うことで、人物的な評価やストーリーにも多大な影響を及ぼすことになる。
Aの場合は、自分が正しいと信じて疑わないからこそのアクションなわけだから、仮にその行動が間違いだと指摘された時の返しは「何と言われようと私は間違っていない!」だ。
ダメなわけではないが、こういった意識を持ったキャラはどうしても遠ざけられがちで、あまりプラスイメージも持たれづらい。不器用な頑固者という評価にもなるわけだが……主役の騎士として活躍させるには少々厳しいだろう(ただし次回の『武士道』に通じる精神でもあるので決して悪くはない)。
Bの場合は、仮に間違いだと指摘されても「それを決めるのは私ではなく姫様だ。姫様が必要ないと仰るのならば即刻やめますし、必要と仰るのならば喜んで続けましょう」という返しができる。
これが『無私の行い』。
自分自身の評価など一切考慮することはなく、常に相手のことだけを思った行動となる。
この『無私の行い』を、より現代的に崩すと『思いやり』という言葉になる。
見返りを求めることなく、純粋に相手への親切な気持ちから生じる行動。
誰にでもできる意識だが、決して誰でもできるものではない……『思いやり』とは、私が思う中で最も美しい人間心理だ。
ならば、この意識を極限まで追求したものが『騎士道』であり、それを体現しようとする存在が騎士であると言えよう。
冒頭で挙げた正々堂々とした一騎打ちや、不意打ちを嫌うことに対しても、これは騎士自身が恥だと思っているからだけではなく「卑怯な行いを見せては、姫様に仕える騎士として申し訳が立たない」といったように、仕える対象のことを思うからこその行動なのだ。
『思いやり』といった身近な言葉で考えると、騎士道精神というのはそれほど縁遠いものでもなかったりする。
イギリス発祥(とされる)レディファーストの習慣や、困った人に手を差し伸べる紳士的な振る舞いというのも、元を正せばこの騎士道精神が発展して人々に根付いたもの、という意見もあるくらいだ。
拡大解釈をするのであれば、電車でお年寄りに席を譲ったり、迷子になった子供の親を探してあげるような、単なる親切心から来る行為とて立派な『騎士道』なのだろう。
こういった意識や行動というものは、もはや問答無用でカッコいいものだ。
ただいたずらに力を見せつけたり、要領の良い活躍をしているだけは決してたどり着けない人間的な魅力。
万人が認める個人特性というものが、この『騎士道』から感じられはしないだろうか。
次回、『武士道』編との二部構成となります。