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その1 正しさと主張について

 第一回のテーマは作品内における『正しさ』について。

 例えば、学校のクラス丸ごと勇者召喚される『テンプレ』だと、よくいるイケメン委員長などが「私たちの国を救うため力を貸してください」→「困ってる人を放っておけない!」という対応を見せている。

 しかし主人公、または主人公を含む一部の生徒たちは「私たちの国を救うため力を貸してください」→「知らない人のために命をかける義理なんてない、自分の命が一番大事だ」「明らかに俺達を戦争の道具にするつもりじゃないか!」といって、断るなり逃げると言った姿勢をとる。

 過半数の読者は、当然ながら主人公サイドの考えに共感するかとは思う。

 いきなり知らない場所に連れてこられて力を貸せと言われても身勝手だ、というのは間違いなく正論だろう。


 ではここで考えてみよう。

 主人公たちの言い分が至極まっとうで、正しい意見だというのは分かる。

 では、イケメン委員長が言うような「困ってる人を放っておけない!」という意見は間違っているのか(、、、、、、、、)

 騙されていようと周りから愚かと言われようと、それでも「助けたい」という気持ちを貫くことは、そこまで作品内において間違っているものとして(おとし)められるべきものなのだろうか。





 『正義』や『信念』といった、精神性に依存した概念を小説のテーマとして挿げるのは王道中の王道だろう。

 最近ならば、自分をいじめていたクラスメートに仕返しすることを至上目的とした復讐ものが流行りだしているが、あれはあれで「復讐を完遂する」と一度決めたら最後までやり通す、意地や信念を作品内で体現しようとしているわけだし。


 復讐だろうと王城から夜逃げしようと、基本的に主人公の行動は正しい(、、、)

 イケメン委員長は他のクラスメートと何の相談もせずに「助けるのは当たり前だろ? 皆も同じ気持ちに決まってるよね?」と決めつけて勝手に話を進めてしまう。

 そして、主人公をいじめてきた不良などは、往々にして反吐(へど)が出るほどの悪人だ。弱い相手には強気に出るくせに、ピンチになったらすぐ仲間を見捨てたりと、作内では「人間のクズ」だとか言われる類だろう。

 こんないかにも間違っている(、、、、、、)キャラが敵役として多く出る場合、作者ないしその作品全体の意識は以下のようになりがちだ。


 ああ、なんて酷いヤツらなんだ。

 あんなヤツらのすることが正しいわけがない、絶対に間違っている。

 だから(、、、)、あんなヤツらとは違う主人公は絶対に正しいんだ。


 『テンプレ』のみならず、普通の主人公が周りから称賛されるストーリーラインを持つ話は、この意識傾向が極めて多い。

 周りの登場人物が何かしらの失敗や悪行をしてしまい、そこで主人公がその失敗をフォローしたり悪行を押さえて成敗する。

 つまり、誰がどうみても明らかに間違ったことをしている相手に対し、主人公は「お前は間違っている!」と最初から分かりきっている事実を言い切ることで、自身の『正しさ』を証明していることとなる。

 より噛み砕いて言うと、周りの人物の評価を下げることで、相対的に主人公の評価を上げているということだ。


 これ自体に問題があるわけではない。

 話を盛り上げるための演出として、分かりやすい勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の図式は昔から好まれている。

 時代劇でもザ・悪党というべきお代官様などがいるからこそ、黄門さまや仕事人の正義の行いが肯定されているわけだから、手法そのものが悪いわけではないのだ。





 じゃあ何が問題なのか? というと……主人公以外に『正しさ』を持ったキャラが出てきた場合に対し、主人公の『正しさ』が途端に薄くなってしまう(、、、、、、、、)ことだ。

 特に周りのキャラの行動に対して「やれやれ、しょうがないヤツらだな」と言いながら、常に受け身で(、、、、、、)間違いを正すことしかしなかった主人公によくある話だが……相対したキャラが確かな『正しさ』を持っていた場合、一気に発言力や行動力が乏しくなる。


 例えば、冒頭のイケメン委員長が清々しいほどの善人で、周りにしっかり相談した上で「騙されているかもしれない、でも困った人を放っておくなんて僕にはできないから協力したいんだ」と言ってきたら主人公はどう答えるだろうか?

 委員長との関係性にもよるだろうが、おそらく「勝手にしろ」と決別するか、「仕方がないから俺も手伝ってやるよ」と賛同するかのどちらかではなかろうか。

 前者においてはイケメンの『正しさ』に対しまともに反論ができておらず、後者においては賛同したことで、主人公よりむしろイケメンの『正しさ』を強調する結果となっている。

 どちらの回答でも主人公の『正しさ』を提示することはできておらず、むしろイケメンの方が主人公と化してしまっている。

 

 意外なことかもしれないが、俺tueee系や「やれやれ」が口癖のような『テンプレ』主人公ほど自己主張が少ない(、、、、、、、、)

 放っておいても悪党や力不足で困っているヒロインなどが来てくれるわけだから、それを倒すなり助けるなりするだけで「あなたは素晴らしい人だ」と認めてくれるわけだから、わざわざ自発的に何かを主張する必要自体がない。

 互いの『正しさ』をぶつけ合うような展開――主張というものが皆無に等しいのだ。


 この主張を怠ると、後々大変なことも起こり得る。

 一度世界を救って再召喚された元勇者という主人公の場合、もう同じ面倒には巻き込まれたくないから「なるべく目立たず、誰の指図も受けずに好きに生きたい」なんて意思表示をよく見かける。

 だが本編では、ギルドマスターを衆人環視の上でチートでフルボッコ、街を荒らすドラゴンをたったひとりで撃破(当然目撃者は多数)。

 確かに主人公の行動に『正しさ』はあるのだろう。

 自重せずに自分の好きに生きるという意味では正解なんだろうが……目立ち放題である。

 ここでヒロインなど周りの人間が「いや、あんた目立ちたくなかったんでしょ? もうちょっと自重したら?」と一言でも助言すればすぐ解決する話だったわけだが……残念なことに、主人公の行いは絶対に正しいと信じて疑わないから、忠告や助言などするわけがない。

 この忠告や助言が、本編上のキャラからではなく感想欄で読者から来てしまっていると、主人公が考える『正しさ』がブレブレになっているということだ。

 そして、その間違いを作中で誰も正そうとしないまま進めてしまうものだから、読者から「ひとりよがり」という感想が出てしまうのである。

 

 

 


 自分の行動や考えの『正しさ』を形にして証明するには、何と言っても他人と意見を交わすのが一番だ。

 学校、特に大学の授業ではよくあると思うが、議論(ディスカッション)、ないし討論(ディベート)である。

 これ、『テンプレ』に限らず、複数のキャラが長期間行動を共にするストーリーラインや、ライバルキャラが登場する場合はぜひやってみてほしい。

 冒頭のクラス召喚、主人公とイケメン委員長でやるのであればこんな感じか。


委「騙されているとしても、困っているなら助けたいんだ」

主「お前バカか? そんなことやって何の得がある。あいつらに利用されて捨てられて、それで満足なのかよ」

委「そうだね、我ながらバカだと思う。けれど、このままあの人たちを見捨てていったら、僕はずっと後悔したまま生きていくことになる。利用されるより、僕にとってはそっちの方が辛い」

主「いい子ちゃん過ぎるだろお前は! 自分は自分、他人は他人だろうが! そんな生き方、俺は認めないね。俺は俺のやりたいようにやる」

委「自分に正直だね君は。僕には、君みたいな生き方はできそうにないよ。……ちょっとだけ、羨ましいな」


 と、かなり勢いで書いた割には、なかなかどうして熱が入ってしまった。

 しかし、イケメン委員長が思ったよりもイケメンしてしまっている。これは噛ませ犬よりはライバルキャラ向きになってしまったぞ。

 実際、作中でここまでやる必要はない。プロローグでここまで本音剥き出しにして全力で語り合うのも、話の流れとしておかしいだろうし。

 これはあくまで、主人公や各キャラが考える『正しさ』の確認作業だ。

 本編上では、


「僕はあの人たちを助けようと思う」

「あっそ、俺は逃げるから頑張れよー」


 の2行で終わらせても別にかまわない。

 だが、作者の中で事前にさっきの議論を行っていれば、今後の彼らの行動――『正しさ』にはちゃんと筋が通るのだ(、、、、、、)。欲求に従って生き続ける『正しさ』と、自己犠牲になっても他人のために尽くす『正しさ』を、作者がしっかり認識した上で話を進めていけるので、少なくとも各キャラの言動や行動に矛盾が生じることはほぼ無くなるはずだ。





 結局のところ、『正しさ』とは人それぞれの物差しによって異なるものだ。

 絶対的な正解を求めるものではない。

 けれど、人はみな自分だけの『正しさ』の価値観を持っているわけで、それが他人に受け入れられることもあれば、違うだろうと衝突することも当然ある。

 それでも、多くの人に『正しさ』が認められるということは、それ相応の説得力を提示しているということ。

 少なくとも、周りの人物を下げることでしか己の『正しさ』を提示できないような人間には、そういった説得力はまず生まれない。

 

 作中で登場人物の中にある『正しさ』をはっきりと証明したいなら、手段はひとつしかない。

 それは、自分の『正しさ』を否定されること(、、、、、、、)

 そして、主張によってその否定を覆すことだ(、、、、、、、、、、)

 そもそも議論(ディスカッション)討論(ディベート)の意義とは、即ちこういった流れなのだ。

 「俺は好き勝手に生きる」→「そんなのは間違っている」→「それでも俺は〇〇で××だと考えているから、この生き方を曲げるつもりはない」ざっくり述べるとこんな感じか。

 こういった形ではっきりと自分の『正しさ』を主張できるのであれば、どんな考え方であれ、『共感性』か『個人特性』として読者は好意的な評価をしてくれるはずだ。

 誰もかれもがこれを意識しろとは言わないが、特に主人公が我を押し通す(、、、、、、)タイプ――誰にも従わずに好きに生きるとか、信念や正義といった信条をしっかり持っているのであれば、この意識はほぼ必須事項と言ってもいい。


主「俺は誰の指図も受けない! これが俺の生き方だ!」

周りのキャラ「すごい、なんて強い信念を持った人なんだろう!」


 これが一番悪い例だ。

 矛盾しているように聞こえるかもしれないが、否定もされずに(、、、、、、、)『正しさ』など語れはしない。

 より直截に言うならば、出会う人みんなが優しい人ばかりの世界で「俺は誰の指図も受けない!」と声高に叫んだところで、意味のない主張(、、、、、、、)に成り下がるということだ。

 各キャラどうしの『正しさ』をぶつけ合い、認めるであれ拒絶するであれ互いの主張をやりとりできる環境下であれば、少なくとも「ひとりよがり」なんて評価が来ることなんてまずない。

 欲望のままに生きようが、自己犠牲の精神で利用されようが、その人なりの正しさ(、、、、、、、、、)を作中で示しているのだ。


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